ノンテクニカルサマリー

世界金融危機下の国家援助とWTO補助金規律

執筆者 川瀬 剛志 (ファカルティフェロー)
研究プロジェクト WTOに関する総合的研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

基盤政策研究領域III (第二期:2006~2010年度)
「WTOに関する総合的研究」プロジェクト

問題意識

2008年秋のリーマンショックに端を発した世界経済危機においては、多額の公的資金が注入された。これらは金融危機に伴う「市場の失敗」を克服するためのさまざまな社会経済的な政策目的を帯びて交付されるものである。こうした目的には、「経済の循環器」としての金融システムの安定化、企業の資金流動性確保、失業対策、産業再編、次世代環境技術開発、および消費刺激策などが含まれる。

しかしこうした補助金は受領者が生産する物品・サービスに価格・品質の上で競争力を与え、その結果貿易歪曲効果を生じさせる。このため、WTO協定附属書の補助金・相殺関税協定(SCM協定)は、輸出補助金および国産品使用優先(ローカルコンテント)補助金を禁止し、残余の補助金は、他の加盟国の海外市場アクセスないしは国内産業に一定の損害を与えるかぎり、その目的を問わず相殺関税またはWTO紛争解決手続により相殺される。また、消費者に対する直接的な購入補助、サービス生産者に対する補助は、それぞれGATT・サービス協定(GATS)によって内国民待遇に従って支給する(=内外無差別である)ことを求められる。

今回の大規模な国家援助による市場介入は、危機の拡大を未然に防ぎ、各国経済を浮揚させ、ひいては今回の危機対応策の特徴であるグリーン・エコノミーへの移行を図るうえで有効な介入策であることは確かであるが、他方で貿易歪曲効果を有し、また一部には保護主義的な客観的意図を見て取れる措置も含まれる。WTOはSCM協定を中心とした補助金規律によって、この未曾有の事態に各加盟国の適切な政策裁量(policy space)を確保しつつ、その一方で貿易歪曲効果を極少化する困難な「舵取り」を求められる。

分析結果のポイント

(1) WTOによる規律の可能性
以下のように、今回の金融危機下の支援策に対し、WTOの規律対象は広いことが分かる。

金融機関支援: GATSには補助金固有の規律はないが、約束の対象になっているかぎり、補助金の交付は内国民待遇の義務に服する。この場合、民族系金融機関に限定した救済策はGATS17条違反を構成する。また、信用秩序維持措置についての例外規定があるが、政策的に説明のつかない差別は正当化されないと解される。

包括的刺激策:対象産業を特定しない包括的刺激策は、本来SCM協定の対象にならない。しかし本稿で検討した措置の一部は個別支援策の集合体であるか、あるいは事実上は裁量によって受給企業・産業を限定できるため、SCM協定の規律を免れない。

分野別支援(自動車):特定産業・企業への相殺可能補助金であることは明白である。他方、今回の支援策では、短期間での国有化・再民営化、公的資金の返済、債務の株式転換など、キャッシュフローを動態的に捉えて補助金額およびその利益を明らかにしなくてはならない場合が見受けられる。

購入支援策:消費者の購入インセンティブとなる減税・補助金は、同種の産品の差別となるかぎりGATT3条違反を構成する。また、政策上説明のつきにくい差別であれば、GATT20条の例外にも該当しない。各国エコカー購入支援策の一部にはこのような懸念がある。

輸出促進策:政府系金融機関による輸出信用保証や輸出に伴う税還付などが実施されているが、輸出補助金としてSCM協定に違反するケースは見られない。

なお、包括的刺激策、分野別支援は今回の国家援助の大部分を占めるが、これらは協定上一定の損害の発生をもって、はじめて相殺可能となる。この発生には数年の経過を要する。不況下では需要が減退するため、一般に他加盟国の市場アクセスおよび国内産業への損害は立証しやすいものとなるが、他方で補助金と損害の因果関係の立証については、不況一般との峻別が困難になろう。

(2) 出口戦略
SCM協定第3部の手続によるWTO紛争解決手続、あるいは同第5部による相殺関税のいずれかによってこれらの補助金を相殺ないしは廃止に至らしめることは1つの解決策であるが、今回の経済危機に伴う国家援助の政治的・政策的重要性に鑑みて、WTO規律が過度の政策裁量の制約となることは、WTO自体の「正統性の危機(legitimacy crisis)」を招く恐れがある。

このようなハードランディングに対し、分野別に補助金規制を合意しつつ、他方で今は失効した「緑の補助金」(SCM協定8条)や平和条項(農業協定13条)に類似した相殺措置の制限を、一定の補助金について合意するソフトランディングの可能性があり得る。類似の試みはOECDにおける造船や鉄鋼の各分野で検討の例があった。しかし目下WTOの各機関、特にSCM委員会や金融サービス貿易委員会においては、このような合意を検討する以前に、各国の国家援助の実態と影響調査に合意することさえ困難である。

政策的インプリケーション

結局のところWTO、は多額の公的資金の注入に貿易歪曲性の観点から介入することも、他方で積極的に他の政策目的との調整を試みることもできず、相殺措置による自律的な調整に任せている。これは協定が予定していた事態であるが、ひとたび相殺措置・紛争が多発し、強制的な国家援助の抑止につながると、加盟国に政策裁量の制約に対する批判が懸念される。

このことを踏まえ、今回の事態とその本稿における分析は、今後のWTO補助金規律のあり方について次のような示唆を与える。

SCM協定:上記のように同協定の規律自体は非常に幅広い不況対策プログラムを規律対象とするが、その殆どが禁止されず、相殺可能補助金として位置づけられる。その一方で、相殺可能性はもっぱら他の加盟国の通商上の損害の有無に依存し、問題の補助金が達成する社会経済政策目的は一切考慮されない。今回問題となった不況対策や環境技術開発など、市場の失敗の修正あるいは正の外部性を生むことが期待される政策目的に関連する補助金については、かかる目的と他の加盟国が当該補助金から被る損害の受忍限度を衡量を可能にするメカニズム(たとえばGATT20条のような例外条項)を導入すること、また現在は失効しているSCM協定8条の「緑の補助金」の新たな類型に合意することが望ましい。ラウンド交渉の停滞を勘案すれば協定改正は困難であるところ、WTOの理事会・委員会レベルの合意形成を模索することが現実的であろう。

GATT・GATS:現行規定はそれぞれが所管する消費者補助、サービス補助金を禁止しておらず、相殺も許していない。不合理な差別のみが規律される。エコカー購入支援や金融機関支援の例に見られるような、関係する社会経済目的(グリーン・エコノミーへの移行、金融安定化)に本来矛盾する国産品・国内企業優遇のみが制約される。このかぎりにおいて、現行規定に問題はない。

表:本稿で検討した金融危機下の国家援助とその評価
表:本稿で検討した金融危機下の国家援助とその評価