やさしい経済学―動かぬ物価の深層

第8回 企業の我慢を注視

渡辺 努
ファカルティフェロー

マクロベースの物価が動きにくくなっている理由として、個別商品の価格改定はかなり頻繁な半面、改定幅が縮小傾向にあることをこれまでに指摘した。またその背景に(1)労働市場の硬直性(2)インターネットなどを利用し時間とコストをかけて商品価格を比較するような消費者の増大――などの影響がある点もみた。

こうした結果は金融施策運営にどのような示唆を与えるのだろうか。

第1に、データに基づきミクロベースの価格変化を詳しく観察することの重要性である。個別商品価格の平均値をとるという消費者物価指数(CPI)の発想に立つかぎり、個々の商品価格の改定頻度や改定幅という貴重な情報はすべて捨象されてしまう。月次の平均値をいかに丁寧に分析しても、動かぬ物価の理由は判然としないのである。正しく物価を認識し将来を予測するには、個別商品価格の観察が不可欠である。

個別企業の価格改定を知ろうとすれば従来は企業へのヒアリングに頼るしかなかったが、現在はIT(情報技術)発達の恩恵で企業の販売価格や家計の購入価格を、即時ともいえるぐらい早く、かつ正確に観察できる。中央銀行はこうした技術環境の変化を積極的に活用すべきである。

第2に、政策運営上の物価の位置づけに関してである。最近は「動きが鈍いので物価には注意を払わなくてもよい」との見方や、さらには「物価はどうでもよいからとにかく金利の正常化(利上げ)を急げ」という声まで出ている。しかし、物価が動かないのは動く必要がないからではない。動けないのである。

その背後に労働市場や消費者の動向に影響される企業の事情があるとするならば、動かぬ物価は、企業が多大なコストを払っていることを物語る。このコストを極力抑えるには、企業が我慢して値上げ(値下げ)を控える状況を解消する、つまり金融政策で需要を抑え(拡大し)、企業が無理なく価格を据え置ける状況を生みだすのが一番である。これが本来望ましい物価安定というものである。

動かぬ物価が先行きも続くと考えるのは危険である。価格改定の頻度は増えつつあり、今後は改定幅次第といえる。それゆえ、金融政策運営においては、現在の動かぬ物価に隠れた企業の「我慢」の限界はどのあたりにあるのか、そこへの目配りがことさら重要となろう。

2007年8月14日 日本経済新聞「やさしい経済学―動かぬ物価の深層」に掲載

2007年8月27日掲載

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