やさしい経済学―動かぬ物価の深層

第5回 企業間の駆け引き

渡辺 努
ファカルティフェロー

日本のスーパーのPOS(販売時点情報管理)データを用いて価格の改定について年別に推計すると(表)、頻度は1990年代以降、徐々に増えている。しかしその半面、改定幅は上昇・下落ともに小幅になっており、これが初回みたようにフィリップス曲線が平たんになる(価格が動きにくくなる)原因であることが読み取れる。

価格の改定頻度と改定幅

ではなぜ価格改定は小幅になったのか。昨年ノーベル経済学賞を受けたフェルプス教授(コロンビア大)らによる価格改定時期の「すれ違い」という考え方がヒントになる。いま価格改定の間隔はどの商品も6カ月とする。ただし、改定時期については全商品の6分の1は4月と10月に、次の6分の1は5月と11月に......というように1カ月ずつずれているとする。このとき、たとえば4月に改定するA社は、同時に改定しない企業(3月以前に改定した企業や5月以降に改定する企業)が多いことを知っており、そのことがA社の値上げ幅を圧縮するというのである。

ライバルを気にして値上げ幅を縮めるという気質は「戦略的補完性(駆け引きに伴う同調)」とよばれる。全企業が同じ行動をとれば、マクロの価格粘着性がこれまでみた各商品のもつミクロの粘着性よりも高くなる、つまり企業間の相互依存性により粘着性が増幅され、フィリップス曲線を平らにする方向に働く。

この増幅の仕組みに関する最近の研究では、労働市場の役割が重視されている。労働などの生産要素の流動性が下がると、この戦略的補完性が高まるのである。値上げすれば商品への需要が減少し、それに伴い企業の労働需要も減る。その際、企業間での労働の流動性が低いと従業員に失業の不安が募る。経営者はそれへの配慮から、商品需要の急減を避けるべく値上げ幅を当初予定より控えめにする。

90年代後半以降、不良債権問題などに伴い、人・物・金の配分の効率が低下し「失われた10年」を招いたといわれる。先の説が正しければ、この時期に労働の流動性が著しく低下し、それがマクロの価格粘着性を高めた(その後の回復も鈍い)可能性がある。

2007年8月8日 日本経済新聞「やさしい経済学―動かぬ物価の深層」に掲載

2007年8月27日掲載

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