やさしい経済学―動かぬ物価の深層

第1回 90年代からの異変

渡辺 努
ファカルティフェロー

金利の早期引き上げの是非をめぐる議論が再び高まっている。積極利上げ論者は、生産が十分回復し資産価格にはバブルの気配すら見えることを協調する。一方、慎重論者は物価がなお低迷していることを重くみる。

単純にいえば、物価に関していずれ上がると予想する側と、足元の低迷に注目する側の違いである。ただ、この相違は先行きか足元かという食い違いではなく、物価変動が生産水準の変動とどのように関連しているかについての認識の違いに根ざすと考えられる。

半世紀前、経済学者フィリップスは、英国で失業率が上がると賃金上昇率が下がるという負の相関があることを発見した。フィリップス曲線として知られる規則性で、その後この相関は、失業率を生産水準に、賃金上昇率を物価上昇率に置き換えても(少なくとも短期では安定的に)成立することが、日本を含む多くの国で確認された。利上げ派はこの規則性を信じる一方、慎重派は規則性を疑うという構図ともいえる。この懐疑は何に由来するのだろうか。

フィリップス曲線

図は日本の消費者物価上昇率と失業率を約30年分プロットしている。1990年代半ばまでは両者の間に明確な負の相関がみられる半面、それ以降はフィリップス曲線がほぼ平たんになる。景気が悪化し失業が増えた90年代後半から最近までの約10年間は、景気低迷の割には物価の下落は限られたともいえる。

この平たんな状態が当面続けば景気回復は物価上昇に直結しない。それなら利上げを急ぐ必要はない。これが慎重派の論拠である。一方、積極派は平たんな状態は早晩解消すると考え、それを前提に、インフレの防止も重視して早めに利上げすべきだという。

フィリップス曲線は80年代半ば以降、米欧などでも平らになり、物価変動メカニズムは変化したともいわれる。これから最近の研究成果をもとにその原因を考えていこう。

2007年8月2日 日本経済新聞「やさしい経済学―動かぬ物価の深層」に掲載

2007年8月27日掲載

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