やさしい経済学 ゼロ金利の解除

第7回 前向きと後ろ向き

渡辺 努
ファカルティフェロー

最近、日銀の政策説明文などに「フォワードルッキング(前向き)」という耳慣れない英語が頻繁に登場する。将来起こりうる事態を的確に予想し、それに備えた政策を早めに打つという意味である。企業経営は当然、前向きになされており、中央銀行の仕事もそれにならうべきという点には一理ある。しかし最適な金融政策に関する最近の研究では前向きな政策が常に望ましいとは言えないことが明らかにされ、実務家らとの間で議論が高まりつつある。

例を挙げよう。ある年に原油価格が高騰したとする。単純化のために翌年以降は平穏に戻るとする。原油高がその年の物価に及ぼす影響を遮断するには金融引き締めが必要で、その年だけ大幅な利上げを行うことが考えられる。だがこれは得策ではない。一度に大幅な利上げを行うと需要が大きく減退し失業率が急上昇してしまうからだ。

どうすればよいか。中央銀行が今年、小幅な利上げを実施すると同時に、原油高が終息した来年以降も金利水準をやや高めに維持するとアナウンスするのである。そうすることで将来のインフレ率が低くなるとの予想が生まれ、その予想インフレ率の低下が今年のインフレ率を引き上げる方向に作用し原油高の影響を遮断しやすくなるのである。

もちろん、その場合でも数年間、金利はやや高めで推移する分、失業率も高めになるが、今年だけ突出して失業率が高まるのと比べれば国民経済への影響は少なくてすむ。

一般的に前向きの中央銀行は決着を1年目でつけようとその年だけ大幅に利上げする政策を選択する。一方、原油高のショックを分散させる政策では、ショックが過ぎた翌年以降も金利を高めに維持し、過去のショックの後始末をしており、あえていえば後ろ向きの対応である。ただし過去の失敗の後処理ではなく、アナウンスを通じ市場の予想に働きかけるという、非常に前向きな行動の結果として生じる後処理である。

過去のショックの後始末をするという性質は金融政策の「慣性効果」とよばれる。ゼロ金利との関連でいえば、自然利子率が急低下するショックが過ぎた後もゼロ金利を継続する「時間軸効果」がその一例である。米国も2003年夏に低金利政策を「かなりの期間」継続すると強調し続けたが、前に紹介したウッドフォード氏によればこれも慣性効果の例である。ゼロ金利解除に向けて日銀には過去と未来の両方に配慮した難しいかじ取りが求められている。

2006年6月13日 日本経済新聞「やさしい経済学 ゼロ金利の解除」に掲載

2006年6月21日掲載

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