「TPPで農業壊滅」論の大きな誤り(下)

山下 一仁
上席研究員

「農業壊滅」論の最大の誤りは、関税が撤廃され、政府が何も対策を講じないという前提である。あるいは、意図的に、この点への言及を避けていると言って良い。ある意味当然である。自由化対策、特に農家への直接支払いが講じられれば、関税が撤廃されて価格が低下しても、農業への影響はなくなるからである。影響があると言いたい人たちにとっては、できれば触れたくない前提である。

91年の牛肉自由化、94年のガット・ウルグァイ・ラウンド交渉から明らかなように、農産物貿易を自由化して、政府が何らの対策を講じなかったことはこれまで一度もない。我が国は、子牛農家への直接支払いによって牛肉自由化をしのいだ。世界でも、アメリカやEUの農業は直接支払いという鎧を着て競争している。

この点を突かれたTPP反対論者は、意図的な数値を用い、巨額な財政負担が必要となると主張している。例えば、鈴木宣弘東大教授は、農業全体で4兆円、米で1兆7000億円必要だと主張している。その根拠として、米について次の算式を示している(国内価格1万4000円-国際価格3000円)÷60kg×900万トン=1.65兆円。

しかし、国内価格1万4000円に対して、主食用としてアメリカや中国からの輸入米は9000円(60キロあたり)で、あられやせんべい用にタイから輸入している米は3000~4000円だ。これらは日本米より品質が劣る。しかし主食米の輸入価格を、それらよりさらに安く、根拠の不明確な3000円を用い、内外価格差を大きく算定している。世界の米流通の専門家である伊東正一九州大学教授は、日本への推計輸入価格をアーカンソー州コシヒカリ1万897円、カリフォルニア州あきたこまち8689円、中国黒竜江省合江19号8186円と試算している。

1万4000円と3000円という内外価格差が本当なら、現実に、我が国の農家によって行われているコメ輸出は不可能なはずである。輸出には相手国市場までの輸送費がかかる。輸出しようとすれば、相手国市場で競合するコメの価格よりも、安く日本から輸出しなければならない。内外価格差は逆転していなければならないのである。

さらに、鈴木氏は対象数量に900万トンという、かなり昔の数値を使用している。今のコメ生産量は800万トンさえ切っている状況である。対象数量は、これから農家の自家飯米用や縁故米を引いた国内の流通量600万トンとすべきである。すべての販売農家を対象としているため、ばら撒きという批判のある戸別所得補償の対象数量でさえ、約540万トンに過ぎない。農家の自家飯米等も含めた生産量に米価を乗じた、国内の米生産額は1兆5500億円に過ぎない。鈴木氏の所要額1兆7000億円はこの生産額さえ上回っている。

消費者負担を財政負担に置き換えた場合に、多額の金額を要するという主張は、現在、消費者に多額の負担を強いていると白状しているようなものである。このような主張は、農業界にとっても良くないのではないだろうか。農水省は関税が撤廃されると、農業全体の生産額は4.1兆円減少すると試算している。もし、鈴木氏の主張が正しいのであれば、0.1兆円で買える物に4兆円も多く消費者に負担させている計算となる。

減反の廃止により米価を下げれば兼業農家は農地を貸し出すようになる。主業農家に限って直接支払いを交付すれば、その地代負担能力が上がって、農地は主業農家に集積し、規模が拡大する。下のグラフ1が示すように、規模が拡大すれば、コストは下がる。大規模農家の米生産費は6500円である。減反の廃止で、カリフォルニア米並みに単収が増えれば、そのコストは4500円程度にまで減少する。全国平均の米生産費9800円に比べ、半分以下の水準である。規模拡大と単収増加によってコストを低下できれば、米産業を一大輸出産業に転換できる。

グラフ1:米の規模別の生産費と所得
グラフ1:米の規模別の生産費と所得

日本に米を輸出している中国の最大の内政問題は、都市部の1人当たり所得が農村部の3.5倍にも拡大しているという「三農問題」である。中国がこの問題を解決していくにつれ、中国農村部の労働コストは上昇し、農産物価格も上昇する。日本の農産物の価格競争力が増加するのである。現に、グラフ2が示すように、中国の穀物の消費者物価指数は、近年増加している。

グラフ2:中国の穀物消費者物価指数の推移
グラフ2:中国の穀物消費者物価指数の推移

国際的にも、タイ米のような長粒種(インディカ米)から日本米のような短粒種(ジャポニカ米)へ需要はシフトしている。仮に、減反廃止により日本米の価格が8000円に低下し、三農問題の解決による農村部の労働コストの上昇や人民元の切り上げによって中国産米の価格が1万3000円に上昇すると、商社は日本市場で米を8000円で買い付けて1万3000円で輸出すると利益を得る。この結果、国内での供給が減少し、輸出価格の水準まで国内価格も上昇する。いわゆる"価格裁定行為"である。これによって国内米生産は拡大するし、直接支払いも減額できる。

日本農業だけが徒手空拳で競争する必要はない。近年国際価格の上昇により、内外価格差は縮小し、必要な直接支払いの額も減少している。現在の価格でも、台湾、香港などへ米を輸出している生産者がいる。世界に冠たる品質の米が、生産性向上と直接支払いで価格競争力を持つようになると、鬼に金棒となる。

農業壊滅論の根本的な問題は、日本農業の展望を示せないことである。これまで高い関税で国内市場を守ってきたが、コメの消費は1994年1200万トンから800万トンに3分の1も減った。今後は、高齢化・人口減少でさらに減少する。海外の市場を目指すしかないが、輸出相手国の関税について、100、0%のどちらが良いのかと問われれば、0%が良いに決まっている。日本農業を維持するためにも、外国の関税撤廃を目指してTPPなどの貿易自由化交渉を推進するしかない。TPPは農業のためにも必要なのだ。

2013年2月19日「WEBRONZA」に掲載

2013年3月7日掲載

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