妥結するかに見えた世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉が、アメリカと中国・インドの対立で暗転、7月29日、決裂するに至った。途上国(インドなど)が農産品に対する緊急輸入制限を行なう条件の緩和を求めたが、アメリカが拒否したのだ。農業関係者は、若林正俊農林水産大臣(当時)、加藤紘一元自民党幹事長、谷津義男元農相ら与党農林族幹部、宮田勇JA全中(全国農業協同組合連合会)会長(当時)らが大挙ジュネーブに駆けつけていた。関税削減が主要テーマの中、コメだけでなく乳製品、麦、砂糖など12%にも及ぶ品目の高い関税を守りたい日本だったが、関税削減の例外扱いが認められる「重要品目」の数について、盟友と思っていた欧州連合(EU)から4%という低い数字を突き付けられた上、ラミーWTO事務局長に「原則4%、追加の譲歩付きで6%」とする裁定案を提示される状況に追い込まれていた。関係者は、米印中の対立で合意に至らず胸をなでおろしたことだろう。
日本のコメ生産量は昨年870万トンだったが、1995年のウルグアイ・ラウンド交渉などを経て、高い関税率(778%)を維持する代わりに、ミニマムアクセスという低税率の枠で、年間77万トンのコメを政府が輸入している。ウルグアイ・ラウンド合意受け入れに際し、「ミニマムアクセス米は国内のコメの減反に影響を与えない」という閣議了解をしたため、政府は国内食用市場で売ることを控え、タダ同然で飼料用などに回してきた。日本経済新聞(2007年8月14日)は、わずかな売却収入を除くと、購入と輸送経費に約300億円、保管費用に約200億円、合計500億円のコストが毎年ミニマムアクセス米にかかっていると報じている。
日本の交渉方針通りコメを重要品目に指定すれば、関税の削減は押さえられるが、その代償としてミニマムアクセスを45万トンほど追加しなければならなくなっていた。先に触れた閣議了解のために、ミニマムアクセス米を市場に放出することはできず、現在年間500億円とされる財政負担は大幅に増大する。市場に放出するとなれば、閣議了解を変更し、供給増を抑えて高い米価を維持するためにさらなる減反を進めなければならない。
だが、減反が食料自給率の向上という政府が掲げる政策の大目標と相容れないことは言うまでもない。WTO交渉でコメを関税削減の例外品目にという農業界の交渉方針は、結果としてコメの輸入を拡大させ食料自給率をさらに低下させてしまうのだ。高い関税を維持したいのは、高い価格で農家を保護したいからに他ならない。高い関税がなければ安い外国米が入って高い価格を維持できなくなるからだ。WTO交渉だけでなく、戦後農政の根幹ともいえる減反政策による農家保護のための高い価格は、コメの消費を減少させ、食料自給率を低下させてきた。政府は一体何を守ろうとしているのか?
耕作放棄地は都の1.8倍に
ここで減反のデメリットについて、簡単に整理してみたい。
そもそも減反とは、コメの過剰分が市場に流れ、米価が低落することを防止するための供給制限カルテルである。現在その面積は水田面積253万ヘクタールの4割、110万ヘクタールにも及ぶ。これによって500万トン相当のコメを減産する一方、700万トン超の麦を輸入するという食料自給率向上とは反対の政策が採り続けられている。
歴史的に見れば、1950年代後半以降、農家所得が勤労者所得を下回るようになったので、農民票に基盤を置く自民党は、食糧管理制度の下で米価を上げた。高米価はコメ消費減に拍車をかける一方で生産を刺激し、コメは過剰になった。その結果、70年に減反政策を本格的に始めた。
95年まで続いた食管制度の時代に減反を実施したのは、過剰米を食管で買い入れさせられて飼料や援助用に処分するのに比べれば(3兆円を支出した)、コメの代わりに麦や大豆を作らせてコメとの収益格差を補助金で補填するほうが、まだ財政的に得だったからだ。ちなみにこのとき、出来る限り多くのコメを政府に高い価格で売りたい農協は減反に反対した。政府が食管の買い入れ数量を制限しようとするのに対し、全量政府買い上げが農協のスローガンになっていた。
しかし、食管制度が廃止されコメの政府買い入れが備蓄用米に限定されてからは、米価は減反によって維持されている。現在では政府にとって減反を行なう財政的なメリットはない。今では、高米価維持に不可欠となった減反を、かつては反対した農協が支持している。
さて、減反政策のデメリットだが、まず第1に、減反はカルテルであるがゆえに、財政負担が重くなる。およそカルテルというものは、カルテル参加者(の農家)に高い価格を実現させたとしても、同じ価格で制限なく生産するアウトサイダーが得をしては元も子もない。したがって、カルテル破りが得にならないような“アメ”が必要となる。減反政策の場合は、政府による補助金がその役目を果たしてきた。この補助金は各年2000億円、累計で7兆円に達している。麦、大豆などに転作させて自給率向上を図るというのがその名目だ。
しかし実際には、減反面積が増加する一方、水田にコメ以外の作物を作付けた面積の割合は逆に88年の(減反面積に対し)75%から60%へと低下している。また、財政的理由により、補助金は減額され続けてきた。補助金の額は82年の減反目標面積63万ヘクタールに対する3611億円から、今日では目標面積が110万ヘクタールに増加しているにもかかわらず、1801億円(08年)へと半減している。減反を支える財政的余力はなくなりつつあるのだ。
デメリットの第2は、生産者の間でもコメ販売量の多い主業農家がその影響を最も強く受け、大規模農家育成の妨げになったことだ。コメの低コスト生産を行なおうとすれば規模の大きい農家がコメ生産を行ない、零細な農家が減反すべきだということになる。しかし、農協の政治的な基盤となっている圧倒的多数の零細な兼業農家に多くの減反を強制することは、農家を支持基盤とする自民党には困難だった。結局、経営面積に応じた一定比率の減反面積の配分が実施された。多くの減反面積を負担させられた主業農家は、十分に稲作を拡大できないため規模の利益を発揮できない。彼らは、コストが低下しないので所得が向上しないという不利益を受けた。一方、農業外所得の比重が高く稲作経営規模の小さい兼業農家の負担は少なかった。
そしてデメリットの第3は、食料安全保障の基礎となる農地を減らしてしまったことだ。1961年には田畑合わせて609万ヘクタールあった農地は、公共事業などで110万ヘクタールの農地を造成したにもかかわらず、逆に260万ヘクタールの農地が宅地などへの転用と耕作放棄で消滅した結果、現在は460万ヘクタールしか残っていない。
近年は耕作放棄が転用を上回っている。減反のかなりの部分は麦などへの転作ではなく耕作放棄につながる不作付けでの対応である。政府は減反をさらに拡大しようとしているが、これはすでに東京都の1.8倍の39万ヘクタールに達している耕作放棄地のさらなる拡大を招き、日本の食料安全保障を破綻させる。
いまだに空しい“努力”を
そもそもデメリットが大きい上、その実効性にも疑問符がつき始めているにもかかわらず、今なお減反政策を続けようとする関係者の努力には涙ぐましいものがあるが、その姿はどこか喜劇的でさえある。
農協や自民党を巻き込んで相当な苦労の末取りまとめた数年前のコメ政策の改革により、昨年から減反は政府から農協に任されることになった。しかし、いまや集荷量の5-6割のシェアしか持たない農協組織がカルテルを実施できるはずがない。予想通りというか、昨年、減反は目標未達成となった。
春の段階で、種もみの流通が活発でコメは過剰に作付けされているという情報は農水省も把握していた。しかし、作柄が判らない状況では財務省も相手にしてくれず対策を打てない。過剰作付けがあっても不作になれば何も対策を打たなくてすむからだ。ところが、米価低落を予想した農協は先手を打って農家への仮渡金を前年の60キログラム当たり1万2000円から7000円へと大幅に減額した。農協を通して販売するのであればこの値段だという農家へのメッセージだ。
おりしも、選挙目当ての農家への補助金バラマキと批判された民主党の戸別所得補償政策によって7月の参議院選挙で惨敗した自民党は、次に迫る衆議院選挙に危機感を募らせていた。予想通りの秋口の米価低落はこれに追い討ちをかけた。この中で農協は政治力を発揮し、自らが買い入れ保管するのではなく、政府に34万トンのコメを備蓄米として買い入れさせ米価の底上げを行なわせたほか、補正予算に500億円計上させ10万ヘクタールの減反強化を打ち出させた。結局取りやめになったものの、自民党農林族幹部の間では減反を法律で農家に強制すべきだという案さえ強く主張された。
減反を農協に任せるというコメ政策の変更は実施初年度で撤回され、農水省、都道府県、市町村が全面的に実施するという従来どおりの体制に戻った。さらに、「生産調整目標の達成に向けて考えられるあらゆる措置を講じる」など4項目にわたる「合意書」に、全国レベルでは農水省総合食料局長と農協など関係8団体のトップが、都道府県レベルでも地方農政局長と関係団体が、それぞれ連名で署名するなど、40年近い減反の歴史のなかでも異例の対応を行なった。農水省幹部が組織の総力を挙げて減反の実施に当たるよう指示したため、東北農政局は「コメの作りすぎはもったいない。コメの過剰作付けは資源のムダづかい」などの表現をつかったポスターを配布し、コメ農家から抗議を受けた。
このような官民の総力を挙げての“努力”にもかかわらず、10万ヘクタールの減反強化は田植えの終わった今年7月の段階で7割にとどまっている。はしなくも農水省、農協などの組織力の低下を露呈してしまったのだ。米価が今年も低落し自民党農林族議員から罵倒されないように、農水省幹部はコメの不作を祈るような気持ちだろう。
しかし、当初西日本での高温障害や東北での日照りなどで不作も予想されたが最近では作柄は取り戻しているといわれている。目論見通りの減反が進まずさらに豊作となれば、米価は今年も下落する。既に備蓄米は目標の100万トンに達しているので、今年は備蓄米買い上げによる米価底上げという手は使えない。また、価格低下時に買い入れるというのでは、減反に参加しないアウトサイダーにも価格回復の利益を与えてしまう。しからばといって、減反をさらに強化しようにも、今年既に失敗しているものをさらに目標を上げて達成するのは不可能だ。いくら自民党農林族議員からシリをたたかれても、もはや農水省や農協にかつての力はない。今年の失敗で減反は破綻したといってよい。彼らにとって一縷の望みは、小麦価格の高騰によりパンなどの価格が上昇し、相対的に安くなったコメの消費が増えているため、昨年のような米価の下落は起きないということかもしれない。
農業を守るはずの農政が
こうして減反をめぐる茶番劇はいまだに続けられている。しかし、農水省が本当に恐れなければならないのは、穀物高騰、食糧危機の時代を迎えた中での、コメ不足、米価の高騰ではないだろうか。ガソリンのほか、麦や大豆などの食料品の価格上昇で消費者家計は圧迫されているが、これらは海外の要因で引き起こされたものだ。しかし、コメについてはそうではない。農政は減反強化という自らの政策でコメの値段を上げ、消費者家計をさらに圧迫しようとしているのだ。
これに不作が重なると大変なコメ不足になる。93年の米騒動のときは海外から250万トンのコメを調達したが、国際価格を2倍に高騰させ、途上国の貧しい消費者を困らせた。しかも、いまや世界の食糧事情は過剰から逼迫へと変化している。穀物価格が高騰している今、コメを日本が買い付けたら、途上国では本当に飢餓が発生するだろう。大正の米騒動で寺内正毅内閣はつぶれた。日本経済新聞が6月に実施したアンケート調査では、減反見直しを支持する意見が85%に上っている。これまで消費者を考えないで農政を行なってきたツケが回ってくるかもしれない。
人口減少による国内消費の減少、WTO交渉での関税維持の代償としてのミニマムアクセスの拡大、これらに抗して米価を維持しようとすれば、減反の強化しかない。これで、日本農業は大幅に縮小する。農業を守るはずの農政が農業を滅ぼしかねないという逆説的な事態を招いてしまう。当然、閣議決定までして40%から45%に上げようとしている食料自給率は逆に低下する。
もう減反はやめてはどうか。減反をやめれば米価は中国からのコメ輸入価格を下回る水準に低下し、国内需要も拡大する。EUが価格を引き下げて直接支払いという補助金で農家に所得補償したように、価格低下で不利益を被る農家のうち、農業依存度が高く将来の生産の担い手である主業農家に相当程度補填すればよい。国内の価格が輸入米の価格より下がれば、高い関税率は必要なくなるので、今のミニマムアクセス77万トンさえも輸入しなくてすむし、これに伴う財政負担も必要なくなる。逆にアジア市場に輸出もできる。食料自給率は向上し、保水力など農地資源の持つ多面的機能も確保できる。
世界の穀物価格高騰によって高い関税は必要なくなっている。国内でも、高い米価で農家保護を行なってきた戦後農政を転換するときが来たのではないだろうか。
『Foresight』2008年7月号に掲載