本格的な農政改革で攻めの交渉を!

山下 一仁
上席研究員

小倉武一の嘆き

1987年小倉武一博士は、農政の方向として3つのものがあると論じた。1つは基本問題に触れず、その場その時で間に合わせの施策を講じていくというもの(これでは農業は衰退に向かう)、1つは食料を海外に依存するのが当然という退却の方向、1つは農産物の価格支持の抜本的見直しを行い、国際化に伴う市場経済に適応しうるよう農業の構造改革を行なうという日本農業の再建の道であるとした。そのうえで、農業関係者の間では第1の道が強く支持されようし、非農業者の間では第2の道が多くの支持を得つつあるなかで、第3の道はまだ産声にすぎず、農業界は改革の必要を感じていないごとくであるとした。構造改革による中農養成策を唱えた柳田國男は、その著『時代と農政』(1910年)において自らの意見を百年後の人に問おうと書いたが、87年小倉は「今は76年を過ぎても100年には達しない、しかし100年になるのを待っていては余りに手遅れに過ぎることになるにちがいない」と言ったのである。

虚構の食料自給論

高度成長によって農家の貧困という問題はなくなったが、農業基本法制定時には忘れかけていた「食料の自給」という農業の役割が70年代以降農業保護の理屈として脚光を浴びてきた、しかも、それは米だけの自給論だったと小倉は言う。戦前においても、米価維持のため海外からの輸入に抵抗した地主勢力は食料自給を唱えた。しかし、米価を維持しようとした農林省の減反政策案に反対したのは食料自給を唱える陸軍省だった。真の食料自給は生産調整、米価維持と相容れない。人口大減少時代を迎え、減る一方の米需要に対応して米価を維持するため、農業団体の責任ある人達はどこまで生産調整の強化を農家に求めていくのだろうか。人口7000万となったら、水田は70万ヘクタールくらいですみそうである。

私が構造改革型直接支払いを発想した理由

小倉が創設した食料・農業政策研究センターから、2000年筆者は『WTOと農政改革』を出版し、生産調整を廃止して米価を下げ、担い手に対象を絞った直接支払いによって規模を拡大し、農業の構造改革を実施するというアイデアを初めて世に問うた。これは小倉に共感し同センターに参集された我が国農業経済学会を代表する諸先生方(もちろん全てではない)から熱い支持と励ましを得た。ある先生は師である東畑精一博士の言葉を私に贈られた。

同じく先進国といっても農業の規模拡大が進展・加速し、食料自給率が100%を超えているアメリカやEUでは、直接支払いを活用して構造改革や食料自給力向上を図ろうという動機はない。過剰を抑制するため生産とデカップルされた直接支払いが望ましい。構造改革のための直接支払いは日本の政策担当者にとってのフロンティアなのだ。構造改革が農地の集積による規模拡大であれば、農地にターゲットを絞った政策を講じることが最適な政策である。ここに私の発想の原点があった。海外の直接支払いは紹介されていても、構造改革のための直接支払いというアイデアはなかったように思う。しかし、その後小倉は第3の道の実現を見ることなくこの世を去り、私も農政の門外漢となった。

東畑の「営農に依存して生計をたてる人々の数を相対的に減少して日本の農村問題の経済的解決法がある。政治家の心の中に執拗に存在する農本主義の存在こそが農業をして経済的に国の本となしえない理由である」という主張に、小倉は「農本主義は今でも活きている。農民層は、国の本とかいうよりも、農協系統組織の存立の基盤であり、農村議員の選出基盤であるからである」と加えている。

世界の農政

今回の農政改革で農林水産省が対象者の限定に真剣に取り組もうとしたことは評価できるが、農協系統の嫌がる関税や価格引下げに対応するための直接支払いは実施されない。EUは92年、00年の穀物等の改革に続き、03年バターの支持価格を25%引き下げるとともに、作物ごとの直接支払いの相当部分を生産とデカップルされた直接支払いへと変更した。砂糖についても、04年欧州委員会は、価格の33%の引き下げを加盟国に提案した。これにより、バター、砂糖の関税は100%に引き下げることが可能となる。EU産穀物は、アメリカ産小麦に関税ゼロでも輸出補助金なしでも対抗できる。EUは先んじて農政改革を行い、関税引下げ、輸出補助金撤廃を提案するなどWTO交渉に積極的に対応している。EUがアメリカと同じ直接支払い型農政に転換したため、今ではアメリカ・EU対日本という構図になっている。

WTO交渉での段階的後進とその終末

ウルグァイ・ラウンド農業交渉で日本はアメリカ、EU、豪州とともにコアの交渉グループを形成したが、今次交渉では「農業でノーとしかいわない日本」(ゼーリック・前アメリカ通商代表)はこれから外され、03年末から代わりにインド、ブラジルがコアの交渉グループに入って交渉が進められている。既にアメリカ、EU、ブラジル等の主要国のほとんど全てが100%の上限関税率に合意している中で、上限関税率反対を主張する日本は交渉から孤立し、マイナー産業に転じた農業の存続について支持を得なければならないはずの国内からは農業のためにWTO交渉でとりたいものが取れず国益を損なっているという批判を受けている。

農業交渉の中心・重心は交渉すればするほど日本に不利な方に移動している。今になってみると日本にとって2年半前のハービンソン案が最もよかった。あれから、米・EU合意、昨年の枠組み合意、今年7月のG20の提案、現在のアメリカ、EUの提案、状況は悪化する一方である。ようやく2000年の日本提案からは大幅に譲歩した(日本を含む)G10の提案が出されたが、これより進んだEU提案がアメリカ、G20から叩かれている状況では各国から検討の対象とされるようなものにはなりにくい。今になって「重要品目」が上限関税率の対象になると日本農業新聞は騒いでいるが、例外なしの上限関税を受け入れているほとんどの国では重要品目は関税引下げの例外としての役割しか果たしようもなく、これらの国にとって上限関税率の適用は当然の前提だった。逆にいうと、重要品目のいかんにかかわらずおよそ上限関税率に反対だったはずの日本が上限関税率の(原則)適用をいつ受け入れたのだろうか。交渉態度を変更したのは他ならぬ日本ではないだろうか。また、なし崩しの後進である。

これが日本農業存続の道なのだろうか。『時代と農政』から「手遅れに過ぎる」(小倉)百年後を迎えようとしているが、農業再建の道は見えない。WTO交渉で玉砕しなければ本格的な直接支払いに踏み切れないのだろうか。

反転攻勢へ

農業を保護することとどのような手段で保護するかは別の問題である。目的は農業の発展や国民への食料の安定供給であって、関税や価格はあくまで手段にすぎない。日本がアメリカやEUの直接支払い型農政に転換すれば、関税引下げにも対応でき再び交渉コア・グループに復帰できる。攻めの交渉も可能となる。アメリカ、EUにも弱点がある。

アメリカの弱点は、CCP(事実上の不足払い)と輸出信用である。CCPのうち輸出に向けられる部分は経済的には輸出補助金と同じである。これを青の政策として良いのか。青の政策の上限を農業生産額の2.5%以下としたことはCCPの削減となるとしているが、CCPの年平均支出額は47億ドルとされており、これは現在の農業生産額の2.5%以下である。また、農業生産額を算定する基準年をどうするかも問題である。アメリカが主張する1996~98年の平均は2002億ドルである。しかし、現行AMS算定上の基準年である1986~88年のアメリカの農業生産額は1429億ドルにすぎない。輸出信用についても、補助金的要素を排除するというのであれば、なぜ政府が関与し続ける必要があるのか。

EUの真の弱点は、関税割当数量の低さである。日本の関税割当数量は最も低い米でも消費量の8%、麦については9割近い。EUは、国内消費量の5%ではなく、それから過去の輸入量を差し引いた量でしか約束していない。牛肉は消費量の2%、チーズは3%である。

また、誰かがこっそり削除した多面的機能のための日本提案をもう一度復活させ、緑の政策の見直しを行なうべきではないか。これこそOECDも支持する世界に通じる主張だったのだ。現状では日本提案の要素は何一つ実現されず、完全な敗北に終わりそうである。

2005年11月15日号『週刊農林』に掲載

2005年12月2日掲載

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