品目横断的直接支払いについて、具体的検討が政府・与党間で開始された。郵政民営化だけが改革ではないと主張した小泉首相にとって、総選挙後初めての郵政民営化以外の改革となる。小泉構造改革の試金石として世間の関心を引く可能性もある。小倉武一と同様“門外漢”となってしまった筆者であるが、柳田國男のように「微々たる自分輩の意見などが爪の垢ほども反響を世間に及ぼさぬうちに国運は進むように進み成るように成り、…最早これらの献策が何らの適用を見ぬこと…となってしまうかもしれませぬ」とは思いつつ、試案を述べさせていただきたいと考える。
農業の担い手とは誰なのか?誰のための担い手なのか?
品目横断的直接支払いの最重要争点は、担い手の要件を誰にするかだと言われている。過去の農政改革と異なり、今やJAも担い手を育成する必要性は認めているという。しかし、農林水産省が政策対象となる担い手を認定農業者や一定の集落営農に限定したいのに対し、JAはカントリーエレベーター利用組合など出荷を一元化する受託組織も広く対象とするよう求めている。また、農林水産省が担い手に規模要件を求めるのに対し、JAは一律の条件設定に反対し、地域の実態に配慮すべきよう求めている。JAは多様な担い手の育成が必要であり、“やる気”を農家に出させるためには排除の論理ではダメだと言う。
ストレートに誰が望ましい担い手かを論ずるのではなく、問題を別のアングルから観察してみよう。まず、農政改革の関係者は誰かを考えよう。もちろん農林水産省、JAがいる。しかし、総選挙で小泉首相は一部の既得権だけによって政治が決められてはならないと強く主張した。そうであれば、一般国民・公衆も関係者に加えるべきだろう。問題の核心はこれらの関係者にとっての“農業の担い手”とは誰なのかということである。
農林水産省にとっては“農業”を維持することが組織維持の基本である。農業なくして農林水産省はありえない。零細な農業構造をそのままにしては農業のコストダウンによる所得の増加は困難となり、農業はますます縮小してしまう。農業基本法の自立経営農家から新政策の認定農業者まで、農政が構造改革を進めてきたのはここに理由がある。農林水産省にとっては、零細な農業構造を改善して規模の大きい“農業の担い手”を育成する必要があるのだ。
これに対し、JAにとっては“農家”を維持することが組織維持の基本である。それは零細であっても良い。逆に主業農家ばかりになると農家戸数は減少してしまう。10年前に農業がなくなっても農家はなくならないと言った全中幹部がいた。これは本質を突いている。農業の維持と農家の維持は違う。JAが農業基本法の自立経営農家という農家選別構想にぶつけたのは、地域農業・農家丸抱えの営農団地構想であった。JAは自らの経営・組織の効率化のためには、合併による規模拡大を実施してきたが、組合員農家の規模拡大、経営の効率化には必ずしも積極的ではなかった。公平を期するために述べるが、1980年以降、農業の現状に危機感を抱いた一部の優れたJAのリーダーによって、担い手を育成しようとする“地域営農集団”運動が展開された。しかし、実践の過程で、集落を利用しながら担い手に農地を集積しようとする構造改革の側面と兼業農家も地域農業の一員として扱おうとする現状維持の側面が同居・混在し、この運動への取り組みは極めて低調なものに終わった。1987年において、これに取り組んだ農協は、35.5%にすぎず、その取組みも機械の共同利用(44.9%)が主体で、担い手への農地集積に取り組んだケースは2.4%に過ぎなかった。
一般国民・公衆にとっての“農業の担い手”
これに対して、一般国民・公衆にとって“農業の担い手”とは誰なのだろうか。我が国の農産物価格が諸外国に較べて著しく高いことは公知の事実となっている。長年JAと共同歩調を取ってきた生協も、財政の支給対象となる担い手は、一定の規模にあり生産性の向上に取り組んでいる農業者や農業法人、および統一した意思をもちマネジメントされている集落営農とするべきとし、高関税の逓減による内外価格差の縮小を求めている。また、経済界からは、農産物の高関税のためにWTOでリーダーシップがとれない、FTAが結べないという非難が農業界に向けられている。つまり一般国民・公衆にとって望ましい“農業の担い手”像とは、低い関税の下でも、つまり安い農産物価格の下でも必要とする食料を供給してくれる農業者だろう。それが真の食料安全保障である。それに農業が答えていくためには、規模を拡大してコストを下げていくしかない。
農地は集落で、農業は担い手で
1900年ごろ柳田國男は、「今の我国に於いて患ふべきは農戸の数の減少には非ずして、各農戸が其職業の独立に必要なる地積を占有し能はざるに在る」とし、「予はわが国農戸の全部をして少なくとも二町歩以上の田畑を持たしめたし」と主張した。農業者が1500万人もいた時代の2ヘクタールへの構造改革案である。以来零細農業構造の改善は、東畑精一、小倉武一ら農政のリーダー達の宿願となった。JAは零細分散錯圃の下では集落営農が望ましいと主張している。しかし、柳田は零細分散錯圃の解消のため、農地の交換分合を強く主張した。問題の根本を放置しては事態の解決にはならないと考えたのだ。
集落営農といっても、リーダーや担い手のいない集落営農は機能しない。担い手を集落がバックアップしているのではなく、担い手が農作業を受託しなければ地域の兼業農家の営農活動も行なえない、担い手が集落の面倒を見ているのが実態だろう。集落営農といってもコアとなる担い手が成長しなければ、先行きに赤信号が点滅するだけである。農林水産省「集落の農業の将来展望に関する意向調査」(2005年)によると、集落営農の組織化・法人化にあたっての問題点として「集落リーダーが不在で組織化の体制が整っていないこと」が57.6%で最も高く、また、行政等に期待する支援として「リーダーの育成」が66.0%と最も高い。
農地を集落で維持管理することと農業をどの担い手に行なわせるかは別の問題である。アパートに例えると、農地の所有者はアパートの大家であり、農地を借りて地代を払い農業を営む担い手はアパートの住人である。アパートの住人は家賃を払い、それをもって大家は修繕等の維持管理をする。大家が維持管理をするからと言って、大家がアパートの住人になったら家賃も入らず、アパートの維持管理もできなくなる。稲作兼業農家の農業所得は10万円である。農地を貸して地代を得たほうが得をする。米価を下げれば地代も下がるが、借手に直接支払いを交付すると貸手に払われる地代は増加する。これが経済学であり、EUでも実証されている。“農地は集落で、農業は担い手で”守るという考え方に立つべきである。
具体的な制度の試案
対象農家を、当初5年間、都府県4ha、北海道10ha以上の規模農家とし、規模拡大を考慮し、次期5年間、都府県5ha、北海道15ha以上の規模農家とする。ただし、現在の規模は小さいが規模拡大の意欲と客観的条件が備わっている者、新規就農者については暫定的に対象とする。不可抗力による場合を除き、5年経過時点で、当初は要件を満たしていても上記の規模を維持できなかった者、暫定的な対象者のうち一定期間内に上記の規模に達しなかった者については、直接支払いの全額返還を求める。これは筆者が中山間地域等直接支払制度で採用したシステムである。これによって耕作放棄は100%防止できた。こうすれば、やる気のある者を排除することにはならない。そもそも、あなたはやる気があるかと問われてありませんと答える人はいない。長年農業をやっていれば、やる気は規模等に自から現れていると見るのが妥当なのではないか。JAのように多様な農家を対象とすることは現状を固定することに他ならず、一般国民・公衆の期待に添えないのではないだろうか。
本格的な農政改革を
2003年8月の米・EU合意がなされて以来筆者が度々指摘している(同年6月のバターの支持価格25%削減というEUの農政改革は関税100~125%を意図したものだ)ように、上限関税率を100%とする考えがWTOの主要交渉国のなかで固まりつつある。関税引下げ、価格引下げに対応するための直接支払いは実施しないことになっているが、これでは農林水産省も一般国民・公衆の期待に添えないだろう。「大に改革すべくして少しく改良し、大に進歩すべきして僅に退歩を免れたるのみなるに、『猶全く無きに優れり』と称して、自ら満足し他を慰めんとする者あらば、亦未だ国家のために憂ひて最も忠実なる人とは称すべからず」(柳田國男)ではないだろうか。
2005年10月25日号『週刊農林』に掲載