下からの発意に乏しかった日本の農協

山下 一仁
上席研究員

富裕層を中心に発足したのが原点

農協は本来、直接民主主義に基づく組織であり、農協組合員の意思決定に基づく運営を基本としている。しかし、日本の農協のそもそもの生い立ちを振り返ってみると、必ずしも下からの発意=組合員の意思で始まったとは言えない経過をたどっている。

農協組織の起源は1900年の産業組合法に基づく組織「産業組合」で、これが農協の前身となった。この組織は当初、地主と上層農を中心にした信用組合だった。当初は信用事業と他の事業の兼営は認めず、のちに購買、販売、利用、信用の4つの事業ができるようになったが、ほとんどの組織が信用事業だけを行っていた。しかも当時、零細な農家は加入せず、富裕階層農家を中心として発足した。これが日本の農協の原点となっている。その後、農業恐慌が勃発した。そこで1932年、時の政府は産業組合を使って農業恐慌を克服しようとした。5カ年計画で産業組合に農家を全戸加入させ、信用事業だけでなく、販売、購買、農協施設利用の4種すべてを行わせた。ここに全農家を組織し、かつ農業・農村に関するすべての事業を営む総合農協の原型ができ上がった。

もうひとつの動きに、地主階級が政治運動を行っていた「農会組織」がある。これと産業組合が戦時中に統合されて経済統制団体となった。政治系統の団体と、経済や信用事業を行う団体が、もともと別々だったのを一緒にし「農業会」として生まれ変わったのが1943年である。政府はこれを農産物の供出団体として使った。

農協法は英文直訳だった

戦後政府は、当時の農林官僚、小倉武一氏が農政課長の時代に農地改革と農協法制定を同時に行おうとした。彼のねらいは「農業生産協同組合」の育成だった。つまり、生産を共同で行うという考え方だった。農地改革で農業経営があまりに零細になってしまい、また零細・分散錯圃も解消できなかった。生産性を向上させ、農業生産を効率的に行うため土地利用も含めた生産の共同化で対応しようとした。つまり「集落生産協同組合」的発想だった。嫌がる農家も参加させていく必要があったわけで、全員一致ではなく、いわば強制的に加入させる必要があった。こうした論理で農協法の案文を作った。

ところがGHQがそれに反対した。農協の原則は任意加入であり、加入・脱退の自由を保障した自主的組織であることが協同組合の原理原則だというものだった。

これに対し、小倉氏らは「そうは言っても、農地改革を経て零細な農家ばかりなので生産性向上を図ることはできない」と抵抗したが、結局押し切られ、GHQの英語の案文をそのまま日本語に直して制定されたのが農協法である。

その後さらにねじれが生じるのは、GHQは農協法施行から8カ月以内に農協を設立せよと命じたことだった。農地改革もそうだが、日本の民主化を早急に進めなければならないという強い焦りがあり、猛烈に急いだ。これでは農民による自主的な設立はできない。

一方、農林省は農業会を農協に衣替えし、米麦の供出機関に仕立て上げたいねらいがあった。このため農業会を解散して自主的な組織を作るべきだとのGHQの理想とは逆に短期間で農協設立しようとしたため戦前の統制団体だった農業会の看板の書き換えに終ってしまった。

農協発足当時も建前としては「農協は農業者の自主的組織」として出発しているのであるが、歴史の実態は「上から与えられた組織」としての色合が濃厚だった。

農協法の施行は1947年の12月である。その翌年、1948年3月には1万3000農協が設立されている。わずか3カ月の間に自主的組織としてそんなに発足することが物理的に可能だろうか。常識では考えられないことが起こったのは全戸加入の旧農業会が衣替した実態があったことを意味している。当時、農家戸数600万の時代であり、1農協当たり500戸。これですべての農家の合意に基づくまったくの新たな組織化は無理だった。

日本の総合農協の組合員にとって、自ら組織づくりに参画してきた経験は実質的にはないと言っていい。農村地域に形成されてきた「むら社会」にできた農協の前身である農業会を土台に、“となりも参加するならうちも”といった他動的要因が大きかったのではないか。半面で農協は当初から政府の要望を受け入れ、米麦の供出機関として政府の仕事を代行してきた面がある。昭和20年代、農家の利益になる米麦の統制撤廃に米麦供出機関だった農協は終始反対した。

役職員を養うための組織に変質

農協がいまも各方面から批判される根拠は「組合員の利益に忠実であり続けているか」の尺度で測られるからだ。組織は往々にして、いったん作られると、なぜ組織したのかの原点を忘れ「組織のための組織」に変質する。農協が批判されるのは、組合員のためでなく「役職員を養うための組織」に変質しているとの指摘があるからだ。

典型的な例に肥料価格安定臨時措置法がある。1954年から1986年まであった法律である。5年間の臨時措置法で毎回延長されて長い間生き残った。

制定当時、国内向け供給価格と輸出向け価格が同水準の中、この法律では価格カルテルを認め、肥料メーカーを保護した。ところが1986年の段階で国内価格は輸出向け価格の3倍にもなった。農家にとっては高い肥料価格なのに5年ごとに制度延長を要望したのが全中・全農だった。国内向け肥料価格を高く維持することで手数料収入を維持してきたわけだ。

米については、同法があった当時、食管制度の下で政府買入れを行っており、米価算定にあたり高い肥料コストをそのまま米価に算入してくれる関係にあった。つまり、農協が組合員に高い肥料を売っても政府が米買入価格でその分を手当てしていた。

ところが野菜や果物など価格支持制度がない産物にとって全農の行為は利益に相反することになる。

北海道でも一時、韓国産肥料を国内価格の3分の2の価格で購入する動きがあったと聞いているし、現在ではホクレンは肥料メーカーと直接価格交渉し、全農供給価格を下回る価格を実現している。個々の組合員が肥料メーカーと個別に交渉するのでなく、農協と連合会にまとまり集団取引した方が有利になるのは当然で、農協の共同購入は本来そのためにあるのだ。肥料の例は農協が組合員の組織であることを忘れ、組織維持のために組合員相手に儲けようとしたものである。農協は基本原則を忘れてはならない。

都府県の農協は崩壊の憂き目

都府県の専業農家は農協に頼むより自分で資材調達した方が低コストで購入できる状況になっており、また産直などにより自ら販売努力を行っている専業農家はすでに農協を相手にしなくなっている。

農業経営者が自立し、自己判断で経営展開しなければならないことと関連し、東畑清一博士の言葉に「単なる業主」というのがある。要するに何も自分で考えず農協などに言われるがまま流されるだけの人という意味だ。農家の所得は売上高マイナスコストである。売り上げは販売数量掛ける販売単価である。コストは購入資材である。販売は農協に任せ、資材は農協を通じて賄うというなら自分で決定する部分は生産高を挙げるだけになり、これでは単なる生産者であって経営者ではない。つまり「単なる業主」となる。

いま農業は全体として見渡せば衰退傾向にあり、いわば斜陽産業だ。しかし、そうした中でサクセスストーリーがたくさんある。売上高1億円以上という農家も出現している。そうした農家は農協任せにしないで、自分で資材を調達し、自分で販売している。

都府県の農業は一部の強い専業農家と、零細・高コスト農家の両極端に分かれている。兼業農家に立脚している農協はいずれ立ち行かなくなるだろう。零細農家相手ではロットが小さいため資材価格は高止まりとならざるを得ないし、農産物価格の上昇は難しいから農業関連事業は経営として成り立たない。そうすれば赤字の農業部門は切り捨て、信用事業だけに特化した組織となり、信用事業だけを行っていた産業組合のような、いわば「先祖がえり」の形とならざるを得ないのではないか。

米の主業農家はすでに農協から独立している。主業米農家はいずれ、米専門農協や総合農協以外の組織に集まることになるだろう。

いま総合農協は、購買、販売事業の赤字を信用事業の黒字で補てんしている。今後は信用事業一本にした方が経営的には安定する。いずれ都府県の農協はその方向になるのではないか。すでに都府県の兼業農家を主体とした農協は「農業者の経済的社会的地位向上」という農協法の目的を達成したといってよい。

いまや米兼業農家の年間所得は800万円であり、そのうち農業所得は10万円にすぎない。兼業農家はいまや富裕層になっており、実態は農家ではなく、土地持ち在村労働者となっている。

農協は多様な経営を包含する組織という考えがある。しかし、本当にそうなのか。10ヘクタールの経営体と0.5ヘクタールの経営が一緒の組織で、いまだに1人1票というのは無理だ。農協が本格的に機能した時代は戦後農地改革で農家が一様に小規模であった時代であり、みな同じレベルの零細・弱小農家であったがゆえに機能した。米については兼業農家の数が圧倒的に多い中で、わずか7%しかいない専業農家の声は農協運営に反映されない。専業農家が農協から離れるのは当然だ。多様な経営を結集するというのは運動論としてはきれいに聞こえるが、実態はすでに専業農家の農協離れは進行している。

施設運営、本末転倒あってはならない

こうした事情は北海道と都府県には大きな差があって一概に当てはまらない。

農協は組合員の要望に応えて事業を起こすのが本来の姿。北海道では独自に配合飼料工場、肥料工場を農協あるいは地域で運営しているケースもある。最近ではコントラクターなどの動きも盛んだ。

組合員の利用を前提に作り、運営しているこれらの取り組みは農業生産コストを引き下げ、労働負担軽減のために活用するというのであれば大いに奨励すべきである。ただ、途中から何かの事情によって、コントラなどの組織が成り立っていくことを前提に農家に負担を求めていくように変質していくなら、これは本末転倒といわざるを得ない。

北海道では幸いにして土地価格があまり上がらなかった。離農イコール離村のケースが多く、農業規模拡大につながり、経営規模はいまや欧州を凌駕する水準となっている。北海道は日本で唯一、零細・兼業農家がきわめて少ない恵まれた地帯である。しかし、農家と農協の今後の関係を考えた場合、これまでのように「わたし作る人、あなた売る人」という他人まかせの関係では農業の活性が失われる。

生産者自らが販売の最前線にアンテナを張って市場の動向を直接把握することが重要だ。生産する人間が自らの市場に対する判断で産物の品質改善に取り組むのと、農協の規格に合わせて出荷するのとでは日々の行動も結果も違ってくる。農協の組合員である前に農家は経営者であるべきだ。また、農協のトップは組合員である農家である。農家が農協を指示するのであって農協が農家を指示するようであってはならない。

農業発展と兼業農家温存は一致しない

ここで農協、農業、農家のそれぞれの利益を改めて考えたい。

少なくとも農林水産省は「農業を維持することが農林水産省という行政組織の維持につながる」と思っている。ところが、全中など農協組織は自らの組織維持のためには兼業中心であれ農家の維持を主に考えている。「農業の利益」と「農家の利益」は必ずしも一致しない。農業を育てようとすれば零細・兼業農家はある程度退いてもらい、大きく強い農業経営を育成しなければならない。都府県農協が守ろうとしている農家の利益は多数を占める兼業農家の利益であり、農業の利益とはならず、農業の発展につながらない。農協は自らの組織の効率化のためには合併などにより規模拡大してきたが、農家の効率化のための規模拡大には関心がなかった。むしろ農家戸数の減少による組織維持の困難さを心配していたのではないか。

長い間農林水産省も予算獲得のためには政治力=農家数を必要とした時代があった。このためある程度兼業農家に配慮した時代もあった。しかし、零細・兼業農家を温存しては、角を嬌めて牛を殺すことになりかねない。農業がなくなれば組織が解体されると考えている農林水産省はいま、農政改革で主業・専業農家対策に政策の重点を移しつつある。

そうすると、これまで二人三脚できた行政と農協の関係がどうしても疎遠にならざるを得ない。

状況を固定的に考えずに

北海道の農家は大型・専業が主体となっており、産物は馬鈴しょ、てん菜、加工原料乳など重量品目が多い。そうした中で単協、ホクレンの集荷率を維持している。

時代は刻々と変化し、流通、販売の革新は日進月歩だ。生乳が津軽海峡を50万トンも渡っていくなどかつては考えられなかった。人口集中、産地特化、流通革命が進んでいる。大量の原料型農産物生産地帯であり、消費地から遠いことはいまだ事実だが、現状を固定的に考えていては発展はない。幸い北海道はクリーンな産地として非常にイメージが高い。単協、連合会の機能を発揮し、付加価値を獲得して北海道農業が発展するよう期待したい。また、北海道では道北や道東など人口が少ない地帯に立地する農協もある。こうした農協は地域の社会生活にとっても役割を発揮している。しかし、だからと言って事業部門ごとの収支を曖昧にしてはならない。やはり、信用事業、販売、購買、店舗などそれぞれ収支計算を明確にし、公開する必要がある。総合農協の名のもとに部門ごとの赤字がそのまま放置されては健全経営とは言えない。

2005年7月29日 「日刊北海協同組合通信・役員改選特集号」に掲載

2005年8月15日掲載

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