WTO農業枠組み合意と日本の採るべき方向

山下 一仁
上席研究員

1.WTO農業枠組み合意の評価

農業は市場アクセス(関税や関税割り当て)、国内支持(価格支持や補助金)、輸出競争(輸出補助金や輸出税)の3分野で規律されており、今次交渉でも分野ごとに各国の農業保護を削減し貿易の障害をいかにして取り除いていくのかという見地から交渉されている。今回は交渉のフレームワークを合意したものであり、具体的な削減率等は今後の交渉に委ねられている。

(1)市場アクセス
日本の最大の関心分野である。直接支払いを導入し関税への依存度を低めているアメリカやEUと異なり、米、麦、乳製品等に突出した高関税を持つ日本にとって、直接支払い導入に踏み切らない以上、一定以上の関税は認めないという上限関税率は是非とも回避すべきものであったし、関税引下げについてもこれらの品目については穏やかなものとしたかった。上限関税率はその役割についてさらに評価されることとなり、事実上先送りされた。もちろんアメリカはこれを書き込めたと評価している。

関税率の高さで品目をグループ化し高い関税品目には高い削減率を課すという階層方式が採用されたが、一定の重要品目については例外が認められる。当初の議長案ではその品目数は関税化品目数を目安とすると書かれていた。これでは不満であると日本等は反発しその数は交渉で決められることとなった。しかし、“階層方式の全体的な目的を損なわないように”交渉される(数は抑制されるという趣旨)と規定されており、交渉によって決める場合アメリカ、豪州等輸出国の力が強ければ少なくされる可能性もあるのだから、よほど交渉力に自信があるならともかく原案で満足してもよかったのではないかと思われる。

より問題なのは例外が認められる条件である。例外を要求すればウルグァイ・ラウンドの米の特例措置のように代償を求められる。それがガット・WTOの基本ルールである。今回の合意文書でもそれを示唆する表現がしつこいばかりちりばめられている。重要品目の例外扱いを規定した文章に“実質的なアクセス改善は全ての品目で達成される”、“実質的なアクセス改善はそれぞれの品目に要求され、関税削減と(低税率の)関税割当によって行われる”、“そのような品目全てについて関税割当の拡大が要求され、その拡大は階層方式の全体的な目的を損なわないように関税削減方式からの乖離具合を考慮して約束される。”普通に読めば、重要品目について例外を要求すれば、通常要求される関税割当の拡大以上の拡大が要求されるということになろう。米の特例措置の代償として関税化すれば3~5%ですむところが4~8%のミニマムアクセスに加重されたのと同じである。また、英語の語感として、“実質的”と約されているサブスタンシャルという単語はシグニフィカント(“重大な”と約される単語)よりも程度の大きいものであることに留意する必要がある。重要品目であろうとなかろうと、関税を削減できなければ関税割当で大きく譲歩するなど各品目について目に見える相当程度のアクセス改善が必要だということである。

(2)国内支持
アメリカの最大の弱点は2002年農業法で導入された新しい不足払い、CCPであった。アメリカはこれが削減されないようデミニマス(農業生産額の5%以内の黄色の政策は削減対象外とする)の維持を主張し、EUはデミニマスの廃止を主張した。これはCCPが削減対象の黄色の政策であるという前提のものであったが、昨年8月のアメリカ・EU合意ではこれを削減対象外の青の政策とした。かつて青とされた不足払いと異なりCCPは生産制限が要件とされていない貿易歪曲効果の高いものであり、カンクン閣僚会議ではこれに批判が集中した。しかし、今回の合意では現在の生産制限を要件とする支払いに加え生産を求められない支払いというグループを作りアメリカのCCPを青の政策とした。青の政策は基準年の農業生産額の5%以内とされており基準年のいかんにもよるが、CCPは現在の農業生産額の2.5%程度であり問題は少ない。アメリカはデミニマスと青の政策の2つの箱を手に入れることができた。

AMS(黄色の政策)、デミニマス、青の政策の合計額も階層方式で削減されることになった。緑の政策は貿易歪曲性がないか最小であるという見地から見直す。その際、非貿易的関心事項を考慮するというフレーズが入れられているが、これまでの交渉でこのフレーズが役に立ったためしはない。

(3)輸出競争
EUが輸出補助金を廃止する見返りとして180日を越える輸出信用等も廃止されることになった。EUでは直接支払いの導入により穀物、牛肉の輸出補助金は激減しており、残る砂糖、乳製品についても改革を行うこととしているので、EUにとってこれは大きな譲歩ではなかった。

2.今後の見通し

04年末の交渉期限は延長された。アメリカ政府が議会から交渉権限を与えられているファスト・トラックの期限である07年5月までに終了すればよいという見方が数年前からWTO関係者には存在した。そうであれば、交渉に大きな影響を及ぼすと思われる次期アメリカ農業法(現農業法は07年まで)との関係で06~07年は重要な年になると思われる。次期農業法の内容が06年では明らかとならずアメリカ政府がディールできない、06年にはドイツ、フランスで選挙がありEUもディールしにくいとなれば、実質的交渉期限は07年末まで延長されることも予想される。いずれにしても04~05年には大きな動きはないだろう。有能な交渉者には物足りない、そうでない者にとってはほっとする期間となろう。

3.日本の取るべき方向

(1)消えた日本提案
ア.多面的機能を全面に打ち出した2000年の日本提案はパブリック・コメントを求めるなど国民合意プロセスを経て行われた。多面的機能は農業生産と密接不可分に結びついていることから、生産との切離しを要求している緑の直接支払いの見直しを日本提案のコアとして主張した。過去の交渉と異なり、我が国はOECDでの検討成果をWTO交渉に反映するという戦略的・積極的意図をもってOECDでの多面的機能の検討を開始し、03年に期待通りのレポートを取りまとめることができた。しかし、このレポートは活用されないばかりか、02年以降多面的機能についての提案自体いつのまにかなくなってしまっている。今回の合意でこの主張が認められる余地はほとんどない。

イ.輸入数量制限は関税化されたにもかかわらず輸出数量制限は存続されており、また、輸出税についてはWTO上何らの規律もなく、輸入国と輸出国との権利義務の均衡が図られていない。このため、輸出数量制限を輸出税に置き換えたうえで削減すべきであるという提案を行った。今回の合意では輸出数量制限の規律強化が言及されているのみである。

(2)関税の削減か関税割当の拡大か
関税引下げによる価格低下に対しては直接支払いで対抗できる。しかし、内外価格差を残した中で関税割当数量が拡大されれば国内生産縮小という対応しかなく、食料自給率目標の達成は不可能となる。対外政策と国内政策の間に齟齬があってはならない。食料安全保障を考えるのであれば、関税引下げ、関税割当拡大のいずれかを求められる場合は迷わず関税引下げを選ぶべきだ。農業を守ることとどのような方法で守るかは別の問題である。関税よりも直接支払いの方が政策として望ましいことは国際経済学の定説である。強い農業を実現するため本格的な直接支払いこそ導入すべきであり、これによって関税引下げにも対処できる。これこそEUが採ってきた政策だ。WTO交渉で関税が引き下げられるのを待つのではなく、衰退の著しい我が国農業自体に内在する問題に対処するための改革を行わなければ、農業は内から崩壊する。EUは自らの域内事情から先んじて農政改革を行い、これをもってWTO交渉で関税引下げ、輸出補助金撤廃など積極的な対応を行っている。交渉で関税引下げを約束されなければ直接支払いを導入しないというのはなんとも情けない。農家にプロ農家を説く前に自らも“単なる業主”から脱却する必要があろう。

2004年8月25日号 『週刊農林』に掲載

2004年9月14日掲載

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