1.食料自給率の低下
我が国の食料自給率は1960年の79%から2002年には40%まで低下し,穀物の自給率は82%から28%にまで低下した。
その要因は急速な洋風化による食生活の変化であると説明される。1人1年当たりの米消費量はピーク時の1962年118kgから63kgに減少した。他方、この間、小麦の消費は26kgから32kgへと増加している。この結果、米について約1400万トンの潜在生産力がある中で約450万トンに相当する生産調整を実施する一方、米の生産調整量を上回る約600万トンにも及ぶ小麦を毎年輸入している。また、畜産物や油脂の消費が増加したが、これらを生産するための飼料穀物や大豆は輸入に依存した。1960年の国民1人1日当たり供給熱量2291キロカロリーの内訳は、米1106、畜産物85、油脂105、小麦251、砂糖157であった。しかし、2002年の同熱量2758キロカロリーの内訳は米612、畜産物400、油脂379、小麦321、砂糖210となっている。米の一人負けの状態である。
2.なぜ食料自給率は低下するのか。
しかし、いかなる産業分野でも消費が変化しないものはなく、それぞれに対応してきている。なぜ我が国農業は対応できなかったのか、農政に対策はなかったのだろうか。
これに答えるためには、農業基本法とその運命についての説明が必要である。1961年制定された農業基本法は経済が著しい成長を遂げる中で、農業部門からの労働力流出により農業経営規模は拡大し、我が国農業の零細性という構造問題を解決できると期待するとともに、消費面では、所得が高まるにつれ消費が拡大すると見込まれた畜産、果樹等に農業生産をシフトさせ、食生活の変化に我が国農業を対応させようとするねらいを持って策定された。農業基本法は農業の構造改革による規模拡大、コスト・ダウン、これを前提として、需要の伸びが期待される農産物にシフトするという選択的拡大、あくまでもこれらを補完する安定政策としての価格政策、これらを通じた農工間の所得格差の是正を目的とした。食生活変化への対策はあったのである。
しかし、実際の農政は農家所得の向上のためのコスト・ダウンではなく米価を上げる道を選んだ。米の消費は減り、生産は増え、30年以上も生産調整を実施している。米価が重点的に引上げられたため、米と麦等他作物の収益格差は拡大し、農業資源は収益の高い米から他の作物に向かわなかった。選択的拡大のためには本来なら消費の減少する米の価格は抑制し、消費の増加している麦等の価格を引上げるべきであったが、逆に米の生産を増加させ、麦の生産を減少させる価格政策を採ったのである。これは麦の安楽死政策と呼ばれた。食管法廃止後も生産調整によって米価は維持されている。さらに、兼業化が進み二毛作から米の単作化に移行したことも耕地利用率を下げ、食料自給率を低下させた。選択的拡大をしたのは輸入食料だった。1960年から73年まで、小麦生産は150万トンから20万トンへ、大豆生産は42万トンから12万トンへ減少した。その後穀物危機を契機として国産麦の生産振興にも努めたが、いったん品質の違う外麦に移った需要は戻らなかった。今や讃岐うどんの原料はオーストラリア産のASWという品種である。高度成長期以降の農政は消費者から離れていった。これを端的に示すのが食料自給率の低下に他ならない。自給率の低下は我が国農業生産が食料消費からかい離し、消費の変化に対応できなくなった歴史を示している。国内農業が対応できなかった消費の空白を輸入食料が埋めていった。選択的拡大をしたのは輸入食料だった。
農産物一単位のコストは面積当たりのコストを単収で割ったものだから、品種改良等による単収の向上は農産物のコストを低下させる。しかし、米過剰のもとでは生産調整の強化につながる単収の向上は抑制された。農地の集積も規模の経済を発揮させコストを下げる。しかし、高米価のもとではコストの高い農家も米を買うより作るほうが安上がりとなるため、零細農家が滞留し農地は担い手に集積しなかった。1つの問題にはそれを直接解決する政策を採ることが経済政策の基本なのに、農家所得を直接向上させる政策ではなく価格支持という間接的な政策を採ったため、食料自給率や国際競争力の低下等大きな副作用が生じてしまった。
基本法制定時609万haあった農地のうち農地改革で解放した194万haを上回る230万haが転用・潰廃された。農地法は耕作権の強化等農地改革の成果を固定しようとした反面、農地改革が当然の前提とした農地の所有者・耕作者の義務を規定しなかった。「農地改革は“耕地は耕作者へ”という原則によって貫かれたのですが、この原則の前提には“耕地は有効に耕作されるべきである”というもう1つの原則があったはずです。その自作地なり小作地をその自作農なり小作農なりが休耕しても自由である。自作地ならばその自作地の売買も転用もまったく自由であるとは考えられていなかったのです。土地保有は耕作者の責務を伴うものでした。農地法制定とその後の制度改正において、この責務を立法化することを忘れ法的義務として顕在化する工夫の必要に気づかなかったのです。」(小倉武一)また、農地法による転用規制、農振法によるゾーニングも厳格に運用されず、大きな転用利益と転用期待を生んだ。農地の減少の約半分は宅地などの都市的用途への転用である。農地法制の制度・運用両面での問題も零細兼業農家を滞留させ構造改革を阻むとともに、食料安全保障に不可欠な農地資源を減少させた。農地減少の他の半分は耕作放棄等による農業内的壊廃である。ここでも高米価・生産調整政策の影響がみられる。自給率は低下しても米余りの中では農地は余っているという認識が定着し、農地資源の減少に対し農政関係者の間でも危機感を持つ者は少なかった。農地、水田が余っているのではない。米が余っているだけなのである。これは転用圧力も高めた。戦後の食糧難の時代人口7000万人に対し農地は600万ha存在した。現在人口1億3000万人に対し農地は500万haを切っている。今では国民がイモだけ食べてかろうじて生き長らえる程度の農地しか残っていない。
明治から1960年まで不変の3大基本数字といわれた農地600万ha、農家戸数600万戸、農業就業者人口1400万人は40年間でいずれも大きく減少した。農業就業者人口は280万人へ激減した。フランスでも農家は減少したが農地は減少しなかったため、平均的な農家規模はフランスでは2.5倍に拡大したのに日本では36%(北海道を除くと17%)しか拡大しなかった。また、農業就業者のいないパートタイム的農家が増加したため、今では農業就業者が農家戸数300万を下回っている。逆に第2種兼業農家の比率は3割から7割へ、65歳以上高齢農業者の比率は1割から6割近くへ上昇した。フランスの農業経営者の年令構成は35才未満12%、35~54才51%である。農業衰退に歯止めがかからず、消費者への食料供給にとって憂慮する事態である。
3.誰のための食料安全保障か
農政は戦後の消費者行政から生産者保護行政に転換した。しかも、不十分なゾーニングに加え、消費者に負担を求めながら全ての農家に利益が及ぶ高米価政策をとったことから、兼業農家は利益を受けたが、農業の構造改革は遅れ、食料供給の主体となるべき企業的農家は育たず、農業の体力は衰え、米過剰の一方で食料自給率は低下した。もちろん、いかに食料安全保障が重要だとしても無駄で過大なコストをかけてよいというものではない。国内生産にも効率性が求められる。食料が不足して困るのは消費者であって農家ではないからだ。食料安全保障とは本来消費者の主張であって農業団体の主張ではない。1918年の米騒動で米移送に反対して暴動を起こしたのは魚津の主婦であって農家ではなかった。戦後食料の買出しのため着物がひとつずつ剥がれるようになくなるタケノコ生活を送ったのは都市生活者であって農家ではなかった。近くは1993年の米の大不作、いわゆる平成の米騒動の際、スーパーや小売店に殺到したのは消費者であって農家ではなかった。
これまでの政策は食料自給率向上とは逆の効果を持つものだった。しかし、それでは狂瀾を既倒に廻らすような政策はないのだろうか。
2004年7月25日号 『週刊農林』に掲載