開催日 | 2024年11月7日 |
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スピーカー | 齊藤 誠(名古屋大学大学院経済学研究科 教授) |
コメンテータ | 梶 直弘(経済産業省経済産業政策局 産業構造課長) |
モデレータ | 深尾 京司(RIETI理事長 / 一橋大学経済研究所 特命教授) |
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開催案内/講演概要 | 日本の実質賃金は、新型コロナ禍の終息でV字回復が期待されたにもかかわらず、回復が頓挫した。先進国のうち日本経済だけが回復を果たしていない、その固有の原因を解明し、対策が求められている。本BBLウェビナーでは、日本のトップエコノミストの1人である名古屋大学大学院経済学研究科の齊藤誠教授を講師にお迎えし、実質賃金低下のマクロ経済学的な原因が、第一に日本経済が直面している厳しい国際環境に、第二に新型コロナ禍後の労働市場の深刻な変容にあるとして、解説をいただき、本格的かつ慎重な金融政策や財政政策の正常化に向けた改革の必要性が明示された。 |
議事録
要因①:「交易条件の悪化」
実質賃金の上昇は、金融緩和政策の解除条件や減税政策の目標となっており、実質賃金低下のマクロ経済学的な背景を見定めることは極めて重要です。まずは、国外要因と国内要因について、それぞれ説明します。
国外要因としては、「交易条件の悪化」が挙げられます。輸入に多く支払う一方で、輸出収入は伸び悩み、労働所得に影響を与えます。21世紀に入り、交易条件は著しく悪化しており、新型コロナ禍後も急激な改善の後に悪化へと転じました。輸入コストが急上昇したものの、輸出価格に転嫁できなかったことが要因です。2023年には輸入コストの低下に伴い交易条件が若干改善しましたが、円建て輸出価格の上昇を伴わない「消極的な改善」にとどまっています。さらに、円安が進んだ後も現地価格が据え置かれており、輸出数量も伸び悩んでいます。
交易条件の悪化が実質労働所得の低下につながる仕組みは、GDPデフレーター(財・サービス1単位の生産によって国内にとどまる名目付加価値額)と家計消費支出デフレーター(消費財・サービス1単位あたりの価格)の比率から理論的にも対応関係があることが確認できます。
要因②:「労働市場における超過供給状態の進行」
次に国内要因である「労働市場における超過供給状態の進行」について説明します。人手不足の印象が強く意外に感じられるかもしれませんが、マクロ経済の指標で見ると、新型コロナ禍後の日本の労働市場は全体として超過供給状態にあったのです。
本分析においては、労働市場の動向をより正確に把握するために、欠員率と失業率の関係を可視化しました。すると2022年半ば以降には欠員率が低下しているにもかかわらず、失業率は横ばいとなり、変則的な動きが見られました。求職と就職の割合は新型コロナ禍後も悪化したままで、改善した証拠は見られません。
むしろ、失業プールからの流出先として「非労働力化」が加わっています。特に、新型コロナ禍以降、就業ネットワークの弱い女性や高齢者、介護で離職した人々、雇用保険給付を受けられない労働者などが、ハローワークを通じた求職活動をしないケースが増加し、失業プールから非労働力プールへの流出が加速しています。
仮に2020年から2023年の4年間で62.4万人が非労働力化し、失業プールにとどまっていた場合、失業率は約1%増加したと計算できます。例えば、2.6%の失業率が、実質的には3.5%の水準になっていた可能性が示唆されます。
隠れた供給、非労働力プール
非労働力化した人々の動向について目を向けてみましょう。2022年後半以降、非労働力人口が毎年10万人単位で急減していますが、失業率の増加は見られず、むしろ再び労働力プール・就業プールへの流入が急増しています。2023年1月から2024年8月までの間、20~69歳の人口は45万人減少した一方で、就業者数は54万人増加しました。これは、少子高齢化の進行にもかかわらず、労働意欲の高い層が多く存在することを示す、注目すべき動向です。
失業者の「非労働力化」と非労働力プールからの「再労働力化」が同時に進む背景には、低待遇の求人に応じやすい潜在的労働力、例えば雇用保険給付切れの失業者、雇用保険に守られていないパート労働からの失業者、低年金の高齢者といった人々が、非労働力プールに多数存在することが挙げられます。これにより、表面的な人手不足と裏での超過供給が同時に生じ、失業率の上昇を伴わずに労働供給が維持される現象が発生したのです。
政策の処方箋―国際競争力の向上と労働生産性の向上
まとめると、新型コロナ禍後の実質賃金低迷の主因は、次の2点です。1つは、交易条件の悪化によって名目付加価値の成長が物価上昇に追いつかず、労働所得の原資が減少したこと。もう1つは、労働市場の構造変化でマクロレベルの超過供給状態が生じ、労働者の交渉力が弱まった結果、低賃金労働に応じる労働供給が増加したことです。
政策面では、国外要因には国際競争力の向上が鍵となります。単に輸出数量の増加を図るのではなく、高付加価値の製品を高価格で提供する能力が重要です。一方、国内要因に対しては労働生産性の向上が不可欠です。
そしてどちらの要因に対しても、本格的な経済構造改革が必要ではありますが、金融政策や財政政策には慎重な配慮が求められます。政府や企業が賃上げに強く介入しても、マクロ経済全体で実質賃金を引き上げたり賃金格差を解消したりすることは難しいのです。
また、基礎控除や所得控除の引き上げは低賃金労働者の求職意欲を高め、就業者数の増加や労働時間の延長、つまり正味の手取り増加にはつながるものの、「実質賃金の向上」には直接貢献しない可能性があります。実態にそぐわない減税政策が恒久化しないよう、政策目標を明確に定義した上で進めていく必要があります。
コメント
梶:
過去30年という長期視点では、産業政策により比較的改善が見られており、現在を1つの潮目としてとらえていましたが、新型コロナ禍以降の短期的な悪化の状況や、シンプルな統計には現れてこない実態についてはとらえきれておらず、今回のお話から多くの発見がありました。足元の状況も見つつ、引き続き政策を進めていきたいと思います。経済産業省の政策は、ともするとミクロ政策だけに陥りがちなのですが、マクロ経済を見据えてミクロとマクロを一体化することにも取り組んでまいります。
また、国際競争力と労働市場の2点について、次のような課題感を持ちました。
経済政策の成功には、国際競争力を再定義し、企業のミクロ経済活動をマクロ経済にいかにしてつなげるかが鍵になると考えます。また、労働市場の改善については、持続可能な形で労働生産性を向上させるべきだということです。人口減少という背景を持つ日本の労働市場において、非正規労働者の活用や、労働時間の管理が今後ますます重要になるため、そのバランスを取る政策が必要です。
質疑応答
- Q:
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最低賃金の大幅引き上げという議論についてどう思われますか。
- 齊藤:
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最低賃金の引き上げ自体は物価の上昇を踏まえると当然のことだと思います。しかし、急激な引き上げには慎重であるべきです。もし最低賃金が実質的に大幅に引き上げられた場合、非労働力プールにいる「低待遇でも働きたい」と考えている人々にとって、就業のハードルがかえって高くなります。その結果、非労働力プールからの就業が難しくなり、むしろ「働きたくても働けない」という状態を作り出してしまう可能性があります。
- Q:
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マクロ的に正しいはずの構造的な政策がなぜ実施されないのでしょうか。
- 齊藤:
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いくつかの要因があると思いますが、研究者の立場からの反省として述べたいのは、マクロ経済学者とミクロの現場の政策提案者の間にギャップがあるということです。マクロ経済学者は、経済全体の大きな視点から構造改革が必要だと論じることが多い一方で、ミクロの現場では個別の市場や業界における具体的な状況に基づいて政策が考えられます。マクロとミクロの接合がうまくいかないため、実行可能な政策が見えてこないという状態に陥っている可能性があります。
- Q:
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求人倍率低下と失業率の低位安定のパラドックスの構造は雇用保険給付期間によるタイムラグゆえに生じたもので、労働力の超過供給は極めて短期的にしか作用しないのではないでしょうか。
- 齊藤:
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恒常的にラグが発生するのは事実ですが、失業プールへの流入が加速した新型コロナ禍後にその程度が深刻化したという点が重要です。超過供給状態が失業として顕在化することなく、非労働力プールに潜在化しているという状況がここ3〜4年で進行し、これが実質賃金の低下に関連しているという考え方です。
- Q:
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交易条件と労働生産性の改善のために具体的にどのような政策が必要でしょうか。
- 梶:
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交易条件については、以前から改善の必要性が指摘されていましたが、実際に何をするべきかというのは、非常に難しい問題です。特に企業の価格戦略は、政府が直接干渉しにくい領域です。これまで、企業のマークアップ率を高めるべきだとか、企業経営環境を改善すべきだといった議論がなされてきましたが、それでも十分に進展が見られないのが現状です。改めて問い直す時期が来たと考えています。
- 齊藤:
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交易条件や実質賃金の構造改革の進展度合いを測るには、進捗を慎重に評価する尺度を設けることが重要です。数量だけではなく、相対価格や質的な指標に注目していくべきです。また、労働市場全体の健全な改善を目指す上で、1人あたりの労働時間、労働者数、実質賃金といった要素をきちんと区分けして議論することは、政策の効果を正確に評価するために不可欠です。
- Q:
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実質賃金の低下について、交易条件の悪化に加え、労働分配率の低下も影響しているのではないでしょうか。
- 齊藤:
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確かに労働分配率が下がっているという現状もあります。その原因として、非労働力プールにある潜在的な労働供給余力が影響していると考えています。これが賃金交渉における圧力を弱め、高圧経済の度合いを下げている可能性があります。
- 梶:
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長期的にはIMFが指摘するように、テクノロジーの進展などの影響で先進国では労働分配率が低下しているものの、過去25年ほどの期間で見ると、日本では全体として顕著な変化はありません。その変動よりもむしろ交易条件の悪化の方が影響を与えていると考えています。
- Q:
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中国の過剰生産、市況の低下にさらされ、単価が上がらない状況を鑑みた通商政策についてはどうお考えですか。
- 梶:
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先進国もグローバルサウスも、このことを前提に政策を進めていると理解しています。従って、通商政策においても、産業政策の協調と競争の両立が必要です。中国の過剰生産問題に対応する際には、瞬間的なコスト競争だけでなく、公正な市場を維持しつつ、バリューを評価する形で市場を設定することが求められます。
- Q:
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縦割りに陥りやすい役所がミクロとマクロを統合する際のアドバイスをお願いします。
- 梶:
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全体をマクロで俯瞰しつつミクロに落とし込むことは価値のあるアプローチです。縦割りにならず、異なる視点を融合させながら政策が現場に即した形で効果的に進むためには、学術的なスペシャリストのみならず、さまざまな視点を統合することが不可欠だと思っています。RIETIのような学際的な組織は、この点で重要な役割を果たすのではないでしょうか。
- Q:
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年金を受給しながら働く高齢者数割合の増加が、労働供給の増加に影響していますか。
- 齊藤:
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非労働力プールにいる潜在的な労働者の中で、年金受給水準が低い人がいることは事実であり、労働統計には反映されないものの、実質的な労働供給の増加には確実に寄与しています。これらの労働者は低待遇の求人を受け入れることが多く、経済全体の実質賃金の引き上げを妨げる一因となっているかもしれませんが、その一方で、彼らが労働市場に参加することで日本経済のポテンシャルアウトプットを拡大することに寄与しています。
高齢化が進む中で、非労働力プールにいる就業意欲のある労働者の規模はさらに大きくなります。この潜在的な労働力を有効に活用することが、今後の経済成長にとって重要な課題です。労働統計や政策は、非労働力人口を単に「就業していない人」として扱うのではなく、その潜在的な労働力を積極的に評価する視点が必要ではないでしょうか。
- Q:
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最後にメッセージをお願いします。
- 梶:
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日本のV字回復が他国に比べて遅れているという厳しい事実は真摯に受け止めるべきだと思います。一方で、悲観的になりすぎる必要もないと感じます。30年前と比較すれば、経済は明らかに好転しています。回復の速度や規模については、まだまだ改善の余地があると認識していますので、今後も経済状況を注視しつつ、さらに発展させていくために取り組んでいきたいと考えています。
- 齊藤:
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短期的な課題をしっかりと押さえることが重要だと感じています。われわれは、米国のローレンス・サマーズ元財務長官が使った「長期停滞」という言葉の便利さについ甘えて、四半世紀単位で「長期的な課題だ」と見なしてしまう傾向があります。しかし、2022年から2024年にかけて実際に生じた経済的な深刻な問題は、長期的な停滞議論の枠を超えて、今まさに直面している課題であると認識すべきです。この点に関しては、より切迫感をもって取り組む必要があります。
この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。