開催日 | 2021年4月15日 |
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スピーカー | 大島 春行(経済ジャーナリスト / 元NHK解説委員) |
モデレータ | 渡辺 哲也(RIETI副所長) |
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開催案内/講演概要 | 日本経済はバブル崩壊以降、再起不能に陥ったともいわれる。経済ジャーナリストの大島春行氏は本セミナーで、日本経済がバブル崩壊以降、再起不能に陥った要因を記者時代の経験を交えてひもとき、デフレ体質の恒常化は国と大企業の失敗が重なったために起きたと述べ、とりわけ問題を先送りした失政は看過できないと指摘した。また、ジャーナリストとしての立場から、時代を読み解く目を養うことの重要性についても思いを語った。 |
議事録
1990年代初めから邦銀の凋落を予感
日本の銀行が駄目になったことが分かったのは、1990年代の初めでした。1990年ごろ、シティバンクのジョン・リード会長にインタビューをしたとき、彼は「10年以内に日米の銀行を逆転させてみせる」と言いました。当時、世界の銀行ベスト20のうち13行を邦銀が占めていました。それに対してリード氏は10年後にひっくり返すと言ったわけです。
私はワシントンでの特派員生活を終え、1994年に日本に帰ってきたのですが、当時は不良債権を増やさないために、駄目になった会社を処理していくべきだと主張していました。しかし大蔵省は、金融システムが破綻しては困るので、不良債権の肥大化には目をつむっていました。
その後、私は2000年に現場へ戻り、ニューヨーク特派員に返り咲きました。そして2003年にニューヨークから帰ってくると、日本経済は再起不能の状態になっていました。成長しない経済になってしまったのです。デフレ体質が恒常化し、大企業も自信喪失していました。この失政は見過ごすことはできないと思いました。
2003年、私は、1990年代に旧大蔵省と日本銀行の幹部だった人や銀行・大企業の経営者たちを「破門」しました。こうした人たちと話しても時間の無駄なので、もう会わないと決めたのです。
旧大蔵省と日銀の幹部たちは、問題の先送りをし、不良債権の過剰な肥大化を招きました。その結果、企業・銀行の収益が悪化しました。銀行や大企業の経営者は、グローバル化に失敗しました。世界はみんな競争しているのに、妙な組織の論理で、これからは競争より安定であると判断してしまったのです。
それから、旧通産省(経済産業省)の幹部たちも破門しました。安易な大蔵省追随で、斎藤次郎さん(大蔵次官)・熊野英昭さん(通産次官)の時代の妙な兄貴・弟分関係をそのまま継続させたためです。通産省は本来、大蔵省の財政至上主義のカウンターパートとしての役割があったのですが、あたかも消費税引き上げだけが経済政策のように考え、元の関係に戻しませんでした。しかも、政権が代わるたびに時の宰相に取り入ろうとし、実現できもしない成長戦略を作り続けた罪は重いと思います。
尊敬する通産官僚もいた
しかし、尊敬すべき人もいました。1980年代初め、対米自動車輸出規制がまだ取られていた頃のことです。私は、輸出枠185万台で合意したというニュースをスクープしました。ところが、当日の昼前、米通商代表部(USTR)次席代表と通産相が交渉し、その後のぶら下がり会見で次席代表が「184万台で合意した」と記者たちに答えたのです。
それを聞いて私は驚き、慌てて大臣室に駆け込みました。大臣室ではどうもレクチャーがあったようで、局長以下十数人の関係者が待機していました。昼のニュース直前だったので、私が「次席代表が184万台と言っているが、実際はどうなんですか。ニュースに間に合わないから早く教えてください」と一人一人胸ぐらをつかんで聞いたのですが、皆さん私から顔をそらしました。私は困ってしまい、変な膠着状態が続きました。
そのとき、「大島さんの書いたとおりでいいんですよ」と声を掛けてくれた人がいました。それは、各社に公平に情報を提供する役割がある広報課長の中川勝弘さんでした。私はそれを聞いて部屋を飛び出し、キャップに「(ニュースの内容を)変える必要はありません」と伝えることができました。私はこの一事がある限り、生涯この人と共に天を仰いでいこうと決心しました。
中川さんは通商産業審議官になられたあと退官され、トヨタ自動車に移りました。しばらくしてトヨタが自動車の売上台数世界一になったのですが、米国でトヨタ車のブレーキ事故が発生し、トヨタバッシングが相次ぎました。中川さんから電話がかかってきて、「どうしたらいいんだ。何かアイデアはないか」と言われた私は、即座に3つのことを申し上げました。
1つ目に、トヨタの常識は世界の非常識であるということを早く悟ること。2つ目に、対応が遅れれば負けるということ。3つ目に、世界には自動車産業を飯のタネにしているロビイストやコンサルタントがいて、トヨタがビッグ3の代わりに世界一になってしまったのだから、こうした人たちにも今後目配りをしなければならないということです。これは割と役に立ったアドバイスではないかと思います。豊田章男社長はすぐに米国へ行って涙の行脚を続けました。
中川さんの晩年には、ベンチャーを始めたいという若手の旧通産官僚を私が紹介し、病床から随分面倒を見てくださいました。本当に感謝に堪えない方も旧通産省にはいらっしゃいました。
私がなぜ官僚ばかり破門して政治家は破門しないのかと不思議がる方もいるかもしれません。それは、1990年代の政治家には破門するほどの人があまりいなかったからです。要するに、当時はまだ官僚支配が続いており、政治家は事実上お飾りだったのです。
2003年には、友人のヘッジファンドディレクターが「日本株買いの指令を出した」と言ってきました。日本がりそな銀行まで救済するなら、日本株はどの株を買っても安全だという理由からでした。1980年代には驚異と羨望の対象だった日本が、見下すべき存在になり下がってしまったことを思い知らされました。
せめてもの希望はベンチャー経営者
その中で私のかすかな希望は、もしかしたら新たにビジネスを始めるベンチャー企業経営者に伝えるべき何かがあるかも知れないという点でした。これから台頭するアジアの人たちに何らかのヒントを与えるかもしれないからです。
そこで2004年2月から毎月、ベンチャー経営者を呼んで勉強会を開催します。聞き手は産官学の若手です。それが後に「結社の時代研究会」へと発展しました。結社とは、組織の枠組みを超えて横につながることです。1990年以降、企業も役所も大学も、組織内で改革を提言しても受け入れられない状況となり、それなら枠組みを超えて横につながるべきではないかと考えたのです。
いまだに勉強会を開きながら破門も繰り返しています。真面目は犯罪だということ、凡庸は敵だということ、志が低い人は仲間たり得ないと考えるからです。
では、ジャーナリストはそんなに偉いのかというと、そんなことはありません。政治部や経済部で官庁などを取材している記者は割と上から目線ですし、社会部などの記者は下から目線かもしれません。しかし、ジャーナリストたるもの、上から目線と下から目線の両方を持つ必要があると思うのです。しかも、斜めから見よというのが私の主張です。
米国人と付き合う方法
私は1989~1993の4年間、ワシントン特派員を務めていました。赴任するに当たって、当時ワシントンに最も食い込んでいるといわれた財務官に会いに行きました。すると彼はメモ用紙に、26人の米国人の名前を書きました。これが私の人脈の全てだというのです。
彼のアドバイスは、あらゆる手段でとにかくアポイントを取れというものでした。それから、「一度会ったら昼飯に誘え。昼飯に応じてきたら自宅に呼べ。そうすれば、米国人は人懐っこいから10年来の親友になれる」と言うのです。私が幸運だったのは、当時は貿易摩擦が非常に激しかったため、東京の情報が割と喜ばれたことです。だから、会いたいと言えば大抵は会えました。
それから、日本の省庁間には縄張りがあり、交流も制限されていたのですが、ジャーナリストである私の家であれば問題なく会えるので、組み合わせを考えながら毎月のようにホームパーティを開きました。
私は当時、コメの市場開放を絶対に実現しなければならないと考えていました。カーラ・ヒルズという女性の通商代表へのインタビュー回数は、他の日本メディアの合計よりも多かったです。彼女のテレビ好きに加え、コメ問題に対する私の意欲が非常に強かったことも理由だったと思います。
あるとき、コメ市場開放問題の日本側の動きが止まったことがありました。私はヒルズ代表に会いに行き、「局面を打開するために韓国を使ってはどうか。そうすればさすがに日本も恥ずかしくて動き出すのではないか」とアドバイスしました。しかし、ヒルズ代表は「韓国は小国だ。ここは日本にがんばってもらうしかない」と言いました。大国の威信とはこういうことかと思い、さすがだなと見直したこともありました。
戦後最大の倒産
私は1985年に、戦後最大の倒産である三光汽船の倒産をスクープしたことがあります。メインバンクは東海銀行、大和銀行、日本長期信用銀行の3行であり、この3行を取材しないことには、埒(らち)が明きません。私は取材対象を長銀に絞ることにしたのですが、取材先がなかなか見つかりません。
そこへ年末恒例の長銀のパーティで、隅の方で退屈そうに1人でワインを飲んでいる人がいたので、私はその人に話し掛けました。彼は以前実力会長の秘書役をしていた企画部長でした。翌年の夏まで8カ月間、通い詰めたのですが、彼は長銀の経営体質をあからさまに批判していました。「長銀は投資銀行を目指すべきだ」ともおっしゃっていました。私はすっかり尊敬してしまい、今でもお付き合いが続いています。
ある日、彼が「今日、河本さん(三光汽船創業者)が銀行に来た」と言いました。河本さんは来行の際、商売と政治のけじめを付けるために必ず議員バッジを外すのですが、「今日に限ってバッジを着けたまま頭取に会いに来た。私はとうとうそのときが来たと思った」と彼は言うのです。それは三光汽船から手を離したということ、つまり銀行が融資打ち切りを決め、後の措置を大蔵・日銀当局に投げたということを意味します。
私はその足で日銀担当局長の下へ夜回りしました。すでにマスコミ各社が10人ぐらいいましたが、まだ誰も三光汽船が腹をくくったことを知らないと確信しました。翌朝、私は担当理事の自宅へ朝駆けしました。私の話を聞くと理事は、「でも、何も聞いていないんだよ」と言います。話が終わっても、応接間で粘りに粘りました。すると奥さんが「あなた、電話です」と理事を呼びに来ました。この時間はとても長く感じました。
やがて理事が戻られ、「大島さんの言うとおりでしたよ。明後日、会社更生法を申請します」と言われました。倒産原稿は人間であれば死亡記事と同じで、間違えたでは済まされません。ですから、「どうして明日ではないのですか」と何回も聞きました。そうして、戦後最大の倒産、しかも前代未聞の明後日倒産申請というニュースをスクープしました。ところが翌日、日航ジャンボ機墜落事故が発生したため、報道は事故一色となり、私のスクープはほとんど日の目を見ませんでした。
早見えの失敗
その後、自動車業界を半年間担当しました。当時の経営トップは技術系のエリートが多く、世界に冠たる技術ということで鼻息は荒かったです。でも、各社のトップにいちいち会っている時間はないので、中川さんが自動車課長だったことを思い出し、彼に「誰に会ったらいいか」と聞きました。
すると、日産自動車の企画部長だった塙義一さん、トヨタの新任常務だった奥田碩さん、そしてもう1人はスズキの社長だった鈴木修さんを挙げたので、この3人に会いました。そして、これからの自動車業界は技術の時代から貿易摩擦に対応するような政治の時代に入ると考えました。つまり、「塙&奥田」の時代になると予感したのです。けれども、2人のトップ就任はなかなか実現せず、10年後となりました。
もう1つ、早見えの失敗だったことがあります。ニューヨーク特派員時代、米連邦準備制度理事会(FRB)のエコノミストから電話がかかってきました。「米国人は所得よりたくさん消費している。今年より来年の方が所得が増えるという楽観主義がなければこんな消費行動はあり得ないだろう」と言うのです。
そこで私は「米国がおかしくなっている」と考えて、2000~2003年に「NHKスペシャル」で「通信バブル」「エンロン経営破綻」「不動産バブル」という3部作の特集を作りました。ところが、その後も米経済は依然として空前の好景気であり、「米国がおかしくなった」ことが実態経済に反映されたのはリーマンショックのあった2008年でした。ここでようやく先見の明だと言ってくれる人もいましたが、大半は早撃ちだとして軽蔑されました。早ければいいというものではないということをこのとき学びました。
質疑応答
- Q:
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今日は経産省や霞が関の若い官僚たちが大勢聞いています。大島さんが現役で活躍されていたときとだいぶ変わっていると思いますが、これだけは伝えたいということがあればお願いします。
- スピーカー:
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常に意識しているのは、今が一体どういう時代なのかということです。時代はいろいろ変わっていきますが、変わるということは何かを捨てることだと考えています。平成の時代は戦前の昭和を捨てようとした時代ですし、令和が一体どういう時代かというのはまだ見えていないのですが、どうも見せかけのものを捨てる時代ではないかと思っています。
- Q:
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1990年代は官僚支配の時代とのことでした。今の時代をどのように見ておられますか。
- スピーカー:
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決定的だったのは1990年代のノーパンしゃぶしゃぶ事件です。これ以降、官僚に対するバッシングがものすごく強まりました。やはり政治がちゃんと支配しなければいけないのですが、支配すべき政治家にその力量がないことが最大の問題です。ですから、システムとしてうまくいかない部分が出てきてしまうのでしょう。今のままでは駄目だということだけははっきりしているのではないかと思います。
- Q:
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「志なきものは破門」というのはまったく同感です。「官僚は獅子のたてがみを持て」という考えは古いのでしょうか。
- スピーカー:
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大いに持ってください。マスコミもそうなのですが、大手マスコミはそういうことをしなくなっています。今、それをやっているのは週刊誌メディアです。今は「週刊文春」などががんばっていると思うので、彼らに大いに期待したいと思います。
- Q:
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マスコミは検証と告発をしてこそ社会の木鐸なのではないでしょうか。
- スピーカー:
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本来、新聞もNHKも民放も通信社も、もっとがんばらなければいけません。それができない構図になってしまっているので、現場の記者レベルでそれをひっくり返そうと思ってもなかなかできないのです。取りあえず私は、週刊誌メディアにそれをひっくり返す起爆剤としての役割をしてもらって、大手メディアが立ち直るのを待つしかないと思っています。
- Q:
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日本は同盟国である米国の方針に従わざるを得ないと思いますが、独自の外交方針を持つべきだとも思います。中国と日本の関係をどうご覧になっていますか。
- スピーカー:
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台湾政府が徹底した情報公開で国家を運営していて、中国本土は徹底した情報の非公開で国家を運営しているというのが、一国二制度の本当の姿になっています。でも、中国国民は一体どちらがいいと思っているのでしょうか。情報公開か言論統制かという2択になると、中国本土は民主化の流れの中でもう持たないのではないかと思います。そうすると、大それたことにならない限り、徐々に中和されていくだろうと思います。そこを見ながら、日本は付き合っていかなければならないでしょう。
中国で対日批判がものすごく強まり、日本製品の不買運動が始まったことがありました。中小企業を営む友人で、上海に生産拠点をつくった人が、「うちの社員が中国で反日デモに参加していて困っている」と言うので、私は日本のことをもう1回勉強し直そうと考え、山折哲雄さんという哲学者をお呼びして、吉野で勉強会を開いたことがあります。これは天皇制を再認識することで、中国で起きている反日デモにどう対応するか、もう1回考えてほしいという趣旨でした。
今はあまり軽率に動かないで、じっと見ておいた方がいいでしょう。むしろ日本とは一体何なのかということを勉強しておいた方がいいと思います。そしていざというときに、その勉強は必ず成果として出るはずです。
- Q:
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破門されないために大切なことは何ですか。
- スピーカー:
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やはり志を正しく持ってください。今は官僚受難の時代だと思います。それから、日本自体も受難期に入っていると思います。ビジネスもそうでしょう。志を正しく維持することに尽きるのではないかと思います。
この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。