「多死社会」での新しい仕事、看取り士とは

開催日 2019年11月7日
スピーカー 藤 和彦(RIETI上席研究員)
コメンテータ 柴田 久美子(一般社団法人日本看取り士会会長)
モデレータ 山田 圭吾(RIETIコンサルティングフェロー / 経済産業省大臣官房秘書課長補佐)
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開催案内/講演概要

超高齢化になって久しい日本は、近い将来「多死社会」へ突入する。これは、「長くて緩慢な死」が大量発生する現象が長期間続くものであり、それに伴い、戦後日本で隠蔽されてきた「死」の社会への回帰が予想されるとともに、長らく空白にしてきた死生観について考えることが避けられなくなる。そのような状況で必要となるのは、「望ましい死」という概念と従来の資本主義ではない「母性」を重視した「母性資本主義」である。今回のセミナーでは『日本発 母性資本主義のすすめ 多死社会での「望ましい死に方」』の著者である藤和彦RIETI上席研究員がその著書を基に、多死社会を乗り越えるための事例や提案を紹介した。また、母性資本主義におけるフロントランナーである、日本看取り士会の柴田久美子氏より、その取り組みをご紹介いただいた。

議事録

現在の未来予測の問題点

藤和彦写真RIETIでの3年間の研究成果をまとめた『日本発 母性資本主義のすすめ 多死社会での「望ましい死に方」』は「あらゆる知のなかで自然科学に突出した知識に価値を置く考え方だけでよいのか」という問題意識に基づいて書かれています。未来学者のアルビン・トフラーは著書『未来の衝撃』の中で、「世の中が大きく変わるときに私たちは得てして過去の考えから抜け出せず、直線的にものごとを考える傾向がある」と述べ、「とりわけ昨今エビデンスに基づく判断や評価の重要性が謳われる中にあってこの傾向はさらに強まっている」と指摘しています。つまり、これまでの未来予測の問題点は社会の変化に応じて人間の価値観が大きく変わるという視点に欠けるものでした。

多死社会での「望ましい死に方」

日本は近い将来、超高齢化社会の先にある「多死社会」に突入します。厚生労働省によると2018年の死者数は136万人を記録し、出生数91万人に対し1.5倍となりました。そして、2025年には死者数は約150万人、2040年には約170万人と増加し、この傾向は今後数十年続くであろうといわれています。さらに、2018年度の死者数136万人のうち、高齢者が9割を占めますが、その比率が30年後には95%になっていくと予測されています。過去の歴史を見ると、多死社会は何度も発生してきました。しかし、それは戦争や感染病が原因の若者の不条理な突然死によるもので、これから日本に到来するのは高齢者を中心とする「長くて緩慢な死」が大量発生する現象が長期間続くものです。

戦後の日本社会では、「死」は日常生活から隠蔽されてきました。1977年には自宅死と病院死の比率が逆転し、現在8割程が病院で最期を迎えています。かつての江戸時代以降の日本では、死にゆく人を家で看取る文化がありましたが、現在はその「看取り」の文化が失われているのです。また戦後の日本では、死生観に関する空白状態が生じているといわれています。しかし、これから多死社会を迎える日本では、「死」のプレゼンスが高まっていくと考えられることから、死生観について考えることは避けられなくなります。そのような状況にあって、「望ましい死」という概念を提唱する「看取り士」という新しい仕事も出てきました。命のバトンを受け渡すサポーターということで、注目し本書でも取り上げています。

パラダイムシフトが進む「家族のあり方」

日本では多死社会と同時に単身者の比重が拡大する「超ソロ社会」も出現するといわれています。2040年には、『おひとり様』が4800万人になるとの国立社会保障・人口問題研究所による予測もあり、高齢者数以上におひとり様の数が増える時代が到来します。さらに、同じく2040年からは団塊ジュニアの老後が始まります。第二次ベビーブームの時期に生まれ、就職氷河期に遭遇した団塊ジュニアは、安定した雇用に就くことができなかったために、結婚することを選ばなかった人や結婚をしても子育てを行う余裕がなかった人が圧倒的に多い世代であるといわれています。そのため、2040年には高齢化のピークと超ソロ社会への突入を同時に迎えることになります。少ない現役世代で多くの高齢者を支えなければいけないという社会保障の問題は当然のことながら、多死社会における家族のあり方のパラダイムシフトが生じてくることでしょう。また、それと同時に「孤独死」が飛躍的に増えるであろうと考えられていることから「死」や「看取り」への向き合い方、共同体のあり方も変化が訪れることでしょう。

近年、30代、40代を中心に経済合理性を重視し、独身でいることを選ぶ人が増加しています。しかし、哲学者のヘーゲルが、家族の役割は「看取り」であると述べている通り、多死社会においては、家族の役割は経済合理性だけで図ることができないものになっていくではないでしょうか。さらに今後は、戦後の特異な現象であった血縁家族の呪縛についても変化が生じてくることが考えられます。

遠くない将来にこのような社会を迎える日本への先行事例として、いくつか興味深いものがあります。スウェーデンでは、介護は社会や国家が担うべきものであると考える国民が多数を占め、「国民の家」構想に基づき、1960年以降高齢者介護サービスの充実を図ってきました。そして、興味深いのは、それと同時に、共同墓が普及したという点でした。

また、日本の歴史の中では、縄文時代に、気候変動の影響で共同体である集落を拡大していく必要があったときに、個々の墓に埋葬した遺体を再び掘り起こし何十体もの遺体を1カ所の墓に再埋葬することが行われていました。現代は縄文時代に比べて文明は進化しました。しかし、当時のこの陰の世界、スピリチュアルな世界での動きが現代の共同体のあり方を示すものになるのではと考えています。

人を人たらしめているスピリチュアリティ

このように超高齢化、多死社会が到来する流れの中で、これまでのように人間の価値を「生産性」だけで考える発想だけでよいのでしょうか。高度経済成長以降、世の中は「非効率」または「生産性が低い」といった理由で高齢者を排除してきました。また、現在、国が考えている介護のあり方は、介護のため家庭内にとどまっている労働力を家庭の外に出すことを促すためのものであり、経済合理性の中だけで議論されているものです。多死社会においては、人を人たらしめるスピリチュアリティが中核をなすのではと考えています。

この発想を転換するものとして、スウェーデンの「国民の家」構想の基となっている「人格崇拝」の論理が挙げられるのではないかと考えています。これは社会学者デュルケムが主張した概念で、人間は本来崇拝されるべきで「聖なるもの」が宿っているというものです。

また、高度経済成長以降、効率優先の価値観が蔓延するにつれて認知症が社会問題となっていきました。現在、認知症患者は日本に500万人、世界では5000万人程度であるといわれているため、その1割を日本が占めていることになります。認知症では、確かに言語的記憶は失われてきますが、人間を人間たらしめる非言語的記憶である感情の部分は最期まで残ります。根本的な感情が作るその人らしさということを考えた場合に、そこでもまた人間観が変わっていくのではないでしょうか。

さらに、現在、日本でもQOD(死の質)が問われ始めています。これに関しては、先行事例として台湾における、「終末期医療の合理化」と「臨床宗教師の養成」がありますが、日本は台湾に比べて多死社会がずっと進んでいますが、その取り組みが遅れています。また、江戸時代には「看取り」の役割を地域が担っていましたが、看取りの共同体というものがあってもよいのではと思っています。

介護は多死社会における基幹産業

介護は多死社会における基幹産業となるものです。これまで介護は「3K労働」と言われ、非常に悪いイメージが定着し、人材が集まらないことが課題となってきました。しかし、本来、介護はクリエイティブな仕事で、非常に高い知的能力が求められる仕事です。そして、介護の仕事における一番の問題点は、「死は無価値」であるという社会のパラダイムであり、それが介護へのモチベーション向上を妨げていると考えています。

また、AI化の進展により、これまで見過ごされてきた人間の強みである「身体知」について分かってきました。高齢になり、認知症を発症すると、言葉によるコミュニケーションが取れなくなります。そんなときに、身体知、体と体のコミュニケーションが重要になってきます。アナーキストの人類学者であるデヴィット・グレーバーは、AI時代で重要となるのはケアの提供であるということを述べています。ただ、残念なことにケアの提供は日本だけでなく、世界的に低賃金、低待遇といわれています。私は、ケアが産業としての価値が上がるように論文を書いているところです。

ある経営学者は、認知症の症状は百人百通りであるため、ビッグデータによる分析は役に立たないと述べています。経済産業省でも、介護分野における技術開発を行っていますが、ロボットが食事を提供するような対応系に偏っています。しかし、介護分野へのテクノロジー導入は感知系をメインとし、ケアの仕事は人間がやるべきではないかと考えています。

多死社会に不可欠な母性資本主義と看取り士

本来の資本主義とは、新しい製品を作ってプロダクトイノベーションで需要を掘り起こしていくものでした。しかし、デジタル経済はプロセスイノベーションであり、デフレ化を進展させるため限界があります。

多死社会にあって、今後重要なのものは「母性資本主義」ではないかと考えています。それは、「母性」とは「困った人を助ける」という本能で、女性だけに備わったものではありません。

そして、「母性資本主義」のフロントランナーの代表が「看取り士」ではないかと考えています。これは、日本看取り士会会長の柴田久美子氏によって作られた仕事ですが、命のバトンをつなぐサポーターということで、「抱きしめて看取る」手法、「望ましい死」という概念を提唱する新しい仕事です。

母性の通貨で多死社会を乗り切れ

貨幣とは、本来「譲渡可能な信用」であり、信用の源は「聖なるもの」でありました。多死社会では、陰の経済に適した陰の通貨ということで看取りコインや命コインのようなものがあればいいのではと考えています。

コメント

コメンテータ:
「看取り士」として、人の死に寄り添う仕事を始めて30年が経ちました。20歳から16年間働いていた業界では輝かしい功績を残しましたが、自分自身を振り返ると、心身は壊れ果てていました。そのような状況のなか、「生きるって何だろう」、「命って何だろう」という考えに行きつき、「人生の99%が不幸でも残りの1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものに変わる」というマザーテレサの言葉に出会いました。この言葉に引かれて、私は看取りの世界へ入りました。

最初は特別養護老人ホームや多くの施設で働きましたが、どこでも最期は病院に運ばれていく状況が常で、死において個人の尊厳が守られないことに強い憤りを感じました。その後、病院のない地域では病院に運ばれることがないと考え、600人程の離島に渡りました。しかし、そこでは身寄りのない方や独居の方が島外の施設に運ばれていく現状を目の当たりにしました。そこから、私自身がそのような方々の最期をお世話したいという思いが生まれ、看取りの家「なごみの里」を立ち上げました。そこで10年間、抱いて看取り、腕の中で最後の呼吸をしてもらうということを実践する中で、人間が体と良い心と魂をいただいてこの世に生まれ、体を失うとき、日々積み重ねた魂のエネルギー、いわゆる命そのものを周りの人にバトンをすることができるという学びを得ました。この命のバトンを1人でも多くの方に渡したいという願いから、日本看取り士会を立ち上げ、今日に至ります。現在、看取り士は全国に800人以上、それを支えるボランティアチームであるエンゼルチームが850支部あり、人数にすると5000人を超えています。看取り士、ボランティアチームの皆で、ひとりひとりの命のバトンを渡していくというお仕事をしています。

日本看取り士会の主な業務は、プラスの死生観を伝える相談業務、寄り添い業務、看取り時の呼吸合わせ、家族への看取りの作法の教授、臨終後の命のバトンリレーの5つです。新しく出てきた職業であるため、私たち自身もどのように皆さまにお伝えしていくべきなのか分かりにくい部分もありました。また、看取り士と名乗ってから10年の間、なかなか私たちの取り組みが広がらないことに苦慮もしましたが、看取り士の数も増えていき、また社会における必要性も高まってきて、一歩ずつですが前進しているのではないかと感じております。私たちの命は今生で終わりではなく、次の世代に伝えていくものであり、そのことを1人でも多くの方に分かっていただければと考えています。

亡くなってから30分で霊安室に運ばれる、それが現在の病院での最期です。それでは、お別れ、命のバトンを渡すことができません。それを解決するのが「看取り士」のお仕事です。私たちのお仕事は介護や看護ではなく、看取りのプロとして家族が不安なく、そして旅立つご本人の不安がないように看取り、おひとりおひとりの命のバトンを渡していくことです。今後、この国が迎える多死社会の中で、おひとりおひとりの命に丁寧に向き合っていきたいと考えています。そして、私の30年来の夢はマザーテレサが果たせなかった夢、すべての人が愛されていると感じながら旅立てる社会を作ることです。以前は私だけの夢でしたが、今は全国の看取り士855人の夢です。皆さまのお力添えをよろしくお願いいたします。

質疑応答

Q:

ケアの提供という重要でありながら、低賃金、低待遇という状況について論文を書いているということですが、その論文でケアの仕事をどのように位置付けていくのでしょうか。

A(藤氏):

まず、バブル崩壊後の日本における景気停滞の原因は、社会にお金が回っていないことだと考えています。特に、高齢者がお金を多く所有していますが、それが使われていないというのが現状です。

人生後半になると、人間の価値観はだいぶ変ってくると考えています。若い人は、便利なハイテクな製品というものを必要とします。一方、人生後半期になると、人生の意味やスピリチュアルに関するものが必要になってきます。かつてはそれが宗教だとか、家族、地域コミュニティでした。

資本主義はあらゆるものを産業にします。サービス産業では、家事の補助から始まり、心のケアまで外部化する中にあって、看取り士は究極のサービス産業のフロントランナーであると考えています。

ただ、具体的にどうやってビジネスするか、また成功するかは分かりませんが、これは日本においてプロダクトイノベーションといえるようなものであると考えています。イノベーションというとこれまではプロセスイノベーションがほとんどでしたが、それでは一層デフレ化が進むだけです。本当のプロダクトイノベーションは、皆が見過ごしたものの中にあると考えていますが、その中に看取り士の仕事がありました。これを中心に「死は無価値」という考え方ではなくて、望ましい死などのさまざまな形のフィクションを立てることによって、もしかしたら滞留している日本のヒト・モノ・カネが回るのではないかという期待を込めて論文を出しました。

Q:

人工知能の社会になると、人間の仕事として何が残るのであろう、またはむしろ新たに開拓するべきかということを考えています。その中で、ヒトとヒト、ヒトとモノ、モノとモノなど、こういったものはすべて関係性の中で生きることができる、進化することができるということを学んでします。看取り士という、本当に人間が一番重要としている精神という部分を最大限に重要視したサポートのお話を聞き、今後ぜひ発展してほしいと考えています。私の両親は認知症でした。特に、母は看護師であったため、認知症になりベッドに腕と胴体を縛られたときに、その状態を自分で分かっていて、こんなことはしないでくれ、自分でやりたいと叫び続けました。そのようにしてみじめな最期を迎えた母の姿を見て、こんな世の中は許せないという強い気持ちがありましたので、看取り士のように最期まで人に寄り添い、その人の幸せを大事にするという職業が世に出てきたことに感動しています。

Q:

死生観についてはキリスト教、仏教と宗教によってさまざまで、また人によっては人間は土に還るもの、自然に還るものであると考える方もいらっしゃると思います。そのような観点から見たときの死生観にはどのように向き合っているのでしょうか。

A(柴田氏):

私たちの死生観は私自身が命を抱きしめることで作ったもので、送る者の胎内に戻るということをお伝えしています。ただし、ご本人が持っている死生観というものを否定することはありません。現場ではすべてを肯定するというのが、私たちの基本姿勢です。

Q:

QODであったり、葬儀に関する日本のクオリティの高いサービスというものを広げていくには、政府としてはどのような取り組みを主導されるかについて教えていただけますでしょうか。

A:

例えば、神奈川県を中心に生前の終活サポートを支援する事業が行われていますが、そのような地方自治体における事業の中の1つのメニューに入れていただくことなどを考えています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。