魔の十年を振り返る ―出陣学徒が語る戦争の軌跡―

開催日 2015年9月25日
スピーカー 宮本 四郎 (弁護士/元通商産業省産業政策局長)
モデレータ 関沢 洋一 (RIETI 上席研究員・研究コーディネーター(政策史担当))
コメンテータ 武田 晴人 (RIETIプログラムディレクター・ファカルティフェロー)
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開催案内/講演概要

1931年に満州事変が勃発後、日本はまっしぐらに太平洋戦争への道を歩みました。それは、日本という国を破滅に導き、その国民も、また周辺国の人々をも塗炭の苦しみに陥れることになった「魔の10年」ともいうべき時期でした。宮本氏は1923年に生まれ、東京帝国大学法学部一年生のとき学徒動員で南方に出征して、敗戦後シンガポール沖合の小島で虜囚生活を余儀なくされました。帰国後商工省(後に通商産業省)に職を得て、日本の復興・発展に心血を注ぎましたが、その役割も一段落した今、「魔の10年」を改めて振り返り、自らの過酷な体験を現役世代に伝えるとともに、再び地殻変動期を迎えている国際社会における日本の在り方について皆さんとともに考えます。

議事録

魔法の杖―統帥権干犯問題

宮本 四郎写真 今年は終戦70周年ということですが、この間、日本は1度も戦争をしていません。これは長い歴史の中で、非常に珍しいことといえるでしょう。一方、終戦から77年さかのぼると、ちょうど明治維新になります。その77年間は、大変な日本の苦しみと戦争の時代でした。つまり、終戦前の70年と終戦後の70年の日本の歴史は極めて対照的で、両方の時代をまたいで生きてきた私は、一体何故こんなに違うのかと感じることがありました。

英国の歴史学者イアン・カーショーは、著書『運命の選択1940-41世界を変えた10の決断』において、東京、ワシントン、ロンドン、ベルリンといった第二次世界大戦登場国の主要な都市10カ所を挙げ、どういう指導者が、どういう決断をしたかを客観的にまとめています。その本の冒頭に1940-1941年の大日本帝国とその占領地区が示されたアジアの地図があります。今や満州国はもちろんのこと、朝鮮、台湾、北樺太および千島列島の一部なども日本でなくなり、明治維新以前の状態に戻ったことがわかります。この地図を見ると、私は感慨無量のものを感じます。

話は戻りますが、ロンドン軍縮条約が調印された1930(昭和5)年、統帥権干犯問題が起こりました。この後に続く「魔の十年」は、陰謀と"魔法の杖"の時代でした。この統帥権干犯問題の争いを見て"魔法の杖"と言ったのは、司馬遼太郎だそうです。

国際的な軍縮の動きは、すでに1921年のワシントン会議から始まっていました。当時、英、米、日、仏、伊の5カ国が集まりましたが、海軍の軍縮問題を中心に英、米、日の3カ国の間で激しい議論が行われました。その結果主力艦船の保有比率は10:10:6(日本が6)に落ち着いたわけです。

その後、ロンドン軍縮条約でも、日本は英米の補助艦船に対して6割程度しか保有できない内容で妥協し調印しました。これが国内で報道されるようになると、政府が勝手に統帥権に属する事項を決めるのは憲法違反であるという議論が起こります。それは、議会で野党政友会が政権にある民政党を倒すために出された作戦でした。

明治時代の大日本国憲法第11条(統帥権)には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあります。さらに第12条には、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」と書いてあります。予算と編制の権は天皇にあるということです。

しかし天皇はたくさんの仕事があり過ぎて、手が回りません。では、誰がやるかというと、陸軍は参謀本部、海軍は軍令部にいる専門家の意見も汲んで政府が素案を作成し、内閣が天皇に上げるわけです。ところが条文を厳格に解釈して、天皇が直接されるのだから政府はそういう仕事に手を出してはならないという意味に、憲法を解釈するわけです。この立場に立って、「ロンドンへ政府の代表者が出て行って勝手に決めるとは何事だ」と、北一輝が犬養毅と鳩山一郎に入れ知恵したといわれています。これを受けて政友会の鳩山一郎が議会で民政党政権を攻撃したのが、統帥権干犯問題の発端でした。

当時の浜口首相は、議会答弁において、陸軍については参謀本部、海軍については軍令部と共同歩調をとって、内閣が作った案を陛下へ上げ御裁可を得て交渉しているのだと、外務省の外交問題を例にして切り返しました。その後、この問題は枢密院で裁かれることになり、与党の意見が通りました。しかし、このことで扇動された右翼の佐郷屋留雄に浜口首相が東京駅で狙撃されたのです。浜口首相は、その10カ月後に亡くなりました。

これを契機に、統帥権干犯の問題は何度か起こるようになりました。司馬遼太郎はこれを"魔法の杖"と称したわけです。

「魔の十年」のはじまり

翌年1931(昭和6)年6月には、中村大尉虐殺事件が発生しました。当時、ニューヨークに始まった大恐慌が世界に広がり、日本ではその上に飢饉が続き、社会・経済が不安な状況にありました。もはや頼みの綱は満州だということで、北満州に偵察に出かけた参謀本部の中村大尉が中国の軍隊に捕まり、銃殺されてしまったのです。この知らせが伝わると国内は大騒ぎになり、歌にもなりました。当時、私は小学校2年生でしたが、その歌をいまだに覚えています。「義勇奉公四つの文字 胸に刻みて鞭を揚ぐ 丈夫(ますらお)中村震太郎 行く手は遠し興安嶺...」と続くのです。

もう1つ覚えているのは、「満蒙節」です。「赤い夕陽の満州蒙古 それもそじゃないか日清日露 二度の戦に流した血潮 染めて築いた土地じゃもの...」、これが延々と続きます。私は幼い子どもでしたが、「中村震太郎という人は偉い男だ。それを殺すとは、けしからんことではないか」、とか「赤い夕陽の落ちる満州へ行って働こうではないか」という気持ちは、子どもでもわかりました。そういう時代だったわけです。

魔の十年では、まことに血生臭い事件が続きますが、主要なものを年表から選んで並べておきました。こちらの方は私の次のコメンテータのお話にもありますので省略させていただき、私がどうしても申し上げておきたいと思うことについて意見を述べさせていただきます。まず最初に申し上げたいのは、何と言っても魔の十年後半の二・二六事件の頃から軍部の横暴が顕著になったことです。軍部が政治を押しのけ、政治の上に立ち、内閣が編成できないとか、やむを得ず内閣が総辞職するとか、政治が死んだとでもいうべき状態が出てくるのです。武器を独占している軍部がこうなると手が付けられません。このような状態を招くには相当長い年月を要したのでしょうが、何れにせよこのことが我が国のあの破滅を招いた根本原因だったと私は思うのです。

次に個別の問題を指摘しておきたいのですが、4項目あります。

第1は満州国とリットン調査団についてです。満州事変が勃発し、蒋介石が直ちに国際連盟に日本の行動を訴えました。国際連盟はこれを重要視し、現地に調査団を派遣することにしました。団長は英国のリットンで、米、仏、独、伊の代表計5名で編成され、中国、満州、日本を訪れることになりました。日本政府はその情報を知った頃から一足早く満州国を独立させ、既成事実を作り上げていました。調査団が日本に来て内田外相に会いましたが、内田外相は、この件は国際法令に適合しており、現実的にも満州国ができているのだから、これを承認してもらうほかに道はないと一方的な説明で、けんもほろろの会談だったということです。やがて調査国の報告書が発表されました。満州国は日本の軍事力により一方的に建設されたものと断じ、別途の案を提示しましたが、勿論日本は反対しました。リットン調査団はなすすべもなく帰国し、国際連盟に報告し、議題として討議されました。対日非難ごうごうで松岡代表が弁明しましたが、火に油を注ぐ有様で、採決は42対1(日本)で否決されました。松岡代表は昂然として席を去り、日本は国際連盟を脱退するのであります。誠に残念な外交でした。

第2はなぜ中国の国境を越えて華北に攻めこんだのかです。あれこそ侵略と言われる所以です。それも中原奥深く、蘇州、南京、武漢三鎮まで。何の目的でどうしようとして深入りしたのでしょうか。国境を超えるべきではありませんでした。

第3はなぜ日独伊軍事同盟を結んだのでしょうか。その頃日本の外交を取り仕切っていた松岡外相がアメリカ嫌いでヒトラーに騙されて思い込みのなせる業なのでしょうか。もう少し落ち着いて考えればヒトラーの正体がわかったのにと思います。バスに乗り遅れまいと急ぐのは失敗のもとです。

第4は日米交渉の結末となるハル・ノートについてです。延々8カ月にも及ぶ日米交渉の結論としてはあまりにも一方的な条件が並べられ、これを見た日本の首脳陣は総員直ちに拒否しました。ルーズベルトはその直前チャーチルと大西洋上で会談し、チャーチルから徹底的に太平洋で日本を叩くように唆され、戦う肚を決めていたのではないかと思います。ハル・ノートは挑戦状ではありましたが、中国については「支那」とあるだけで満州を含むかどうか不明瞭でした。しかも国務省の担当が書いた原案には、「支那(満州を除く)」と明記されていたようです。どうしてこの点を取り上げ最後の大一番の交渉をしなかったのでしょうか。

私は残念に思います。以上で終わります。

コメンテータ:
1930年から41年の太平洋戦争開戦までの期間を振り返って、誰が何をしたのか、何ができたのかを考えてみたいと思います。まず、陸海軍です。統帥権干犯問題は、そもそも海軍軍縮問題に端を発したわけですから、もっとも怒りを覚えていたのは海軍であるはずです。ただ、一般的に流布されている昭和史では、悪者は暴走した陸軍であり、それに対して海軍には山本五十六のような立派な提督がいて、基本的に国際派で英米戦争には慎重だったという図式が描かれます。

しかし、暗殺の時代を切り拓く五・一五事件を主導したのは海軍でした。その後、満州事変が進展していく中で、内部の派閥抗争を劇化させながら暗殺などを繰り返し、陸軍が政治的主導権を握っていくのですが、安易に陸軍あるいは海軍悪者説や軍隊悪者説を唱えるのは危険だということを、まず言っておきたいと思います。

次に政党です。大正期に日本で花開いたといわれている立憲君主制的、民主主義的な動きが、なぜこの1930年代の「魔の十年」を止められなかったのか。国政レベルでの政党の役割を考えてみたいと思います。

少なくとも浜口内閣、若槻内閣までは、明確な意思表示をする抵抗勢力であったことは間違いありません。その後、1931年11月に金解禁政策を放棄して犬養内閣が誕生します。ある意味では軍に寄っているといえますが、二・二六事件まで、犬養内閣とその後を継いだ斎藤内閣において、大蔵大臣の高橋是清は軍との強い緊張関係にありました。最初の年、高橋は、軍備の拡張を認めることによって財政インフレから景気回復政策を導き出しますが、2年目以降は軍備拡張に対して非常に慎重になり、そのため、閣議で陸海軍大臣と頻繁に論争しています。

この時点では、閣内での軍事費をめぐる予算の議論の中で、統帥権を表に出すような議論は、さすがに出てきません。軍事費の必要性を強調する説得に対し、財布を握る大蔵大臣は「そんな金はない。このまま行けば日本はインフレで潰れてしまう」と主張しています。この対立が高じ、最後のところで高橋が陸軍に暗殺されるのが二・二六事件です。

30年代の年表を見ると、五・一五事件(1932年)で犬養毅が暗殺され、二・二六事件(1936年)で齋藤実、高橋是清らが暗殺されるなど、頻繁に「暗殺」という言葉が出てきます。1930年代前半というのは、その意味では非常に血生臭い時代になっていくのです。この死への恐怖が植えつけられることによって、気骨あるごく少数を除くと、皆黙らされていったというのが現実です。権力を握った側が、いわば生殺与奪権を持ってしまうという民主主義の持っている限界のようなものが、そこには表れています。

では、日本のデモクラシーや民主的政治決定が完全に死滅したのかというと、そうでもないようです。大正半ば頃から地方レベルで浸透していった合法的な社会民主主義的な左翼政党に対する民衆の投票行動をみると、1936~37年頃までの地方選挙では、それなりの支持を集めています。つまり民衆たちは、諸手を挙げて軍のやり方に賛成したわけでなく、選択できる範囲内で、これは違うのではないかという意思表示をしていたといえます。ただ、国政レベルでは、それが表に出てきていません。つまり36~37年頃までは、まだ合法左翼政党を中心とした抵抗が生きていたのですが、最終的に政府は、治安維持法の弾圧によってその息の根を止めたといわれています。

最後に主権者である天皇の役割についてです。1935年には天皇機関説問題が起こりました。これはつまり、「天皇は内閣の補佐によって国事行為を行う機関である」という考えを潰さなければならない、天皇の力を強めたいという動きがあったのですが、残念なことに30年代前半、昭和天皇は寡黙でした。

当時、最終的に大きく流れを変える力を持っていたのは昭和天皇であったことは、いくつかの事例をみればわかります。たとえば二・二六事件に対し、「あれは反乱軍だ」と言明して鎮圧を命じたのは天皇であり、1945年8月に詔勅を出して戦争を終結できたのも、天皇を表に出してのことです。昭和天皇は、あくまでも自分が権力者として振る舞うというよりは、そうした構造を利用して、内閣なり政治を実際に動かしている人たちの知恵を使って日本を動かそうとしていたと考えられます。しかし、相手がそれこたえずに最悪の道を選んだということになります。特定の権力が集中しているように見えますが、実際には分散していたということでしょう。

質疑応答

Q:

「魔の十年」を経て、宮本さんご自身が出陣学徒として南方へ行き、捕虜となってご苦労をされたわけですが、その頃のお話をうかがいたいと思います。

A:

私は、昭和18年に大学へ入ってまもなく出陣することになりました。半年ほど兵隊として暮らしていたところ、幹部候補生試験を奨められて受験し、合格しました。すると、間もなく見習士官となり、南方の寺内寿一将軍傘下の部隊に行けと命令が出て、国を出ました。しかし途中の東シナ海では、敵の潜水艦が待ち受けており、いつ攻撃されるかわかりません。そこで常時カポック(救命胴衣)を身に着けて行動していました。まずは無事台湾の高雄に着きました。上陸してもすぐに乗船命令で出発しました。バシー海峡では敵の潜水艦に狙われ、後続の船は沈められましたが、我々の船は船長がベテランで、魚雷を避け、ようやくマニラへたどり着きました。もう海は嫌だと思いましたが、またすぐに出航でボルネオに向かいました。ボルネオのミリでしばらく停泊していたときに沖を日本の大艦隊が北上していきました。栗田艦隊の最後の姿でした。その後、国を出て3カ月後にシンガポールに着きました。

ここで再訓練を受け、年を越してスマトラ島の北部にある部隊に配属されました。北部の飛行場の警備の任務です。夜、自転車で飛行場の巡察に行くのですが、トラが出てきても、こちらはピストル1丁と軍刀しかありません。心細いことでした。その後、部隊が解散したので、若干の兵隊を連れてマレーシアのクアラルンプールの部隊に配属になりました。ここでも飛行場の警備の担当でした。私はここで終戦を迎え、毎日英軍との通訳やら使役に使われました。その後英軍将校の検問があって「OK」の一声で貨車に載せられ、シンガポールに送られ、そこから小舟でインドネシアとの中間にある無人島に流されました。携行食料がなくなると、とにかく自活せよとのことで生きることに必死でした。昔ロビンソン・クルーソーの物語を読みましたが、集団ロビンソン・クルーソー物語でした。私は部隊の兵隊を使って塩を焼いたり、魚を獲ったりして部隊に供給しました。他の者はジャングルを切り開き畑をつくり、種を蒔き、食べられるものが出てくるのを待っていました。栄養失調で痩せ衰えるものが次々と出る頃やっと食料が少しずつ配給されるようになりました。1年たってやっと待望の帰国ができるようになりました。我々が住んでいた島はレンパン島という名の淡路島の3分の1くらいの大きさだったでしょうか。ここに何万人かの日本兵が来ると島はすっかり見違えるようになりましたが、何十年も経つ今は元のジャングルだそうです。帰還の船は米軍の船で、1週間で宇品に着きました。国破れて山河ありの気持ちで胸が一杯でした。

モデレータ:

真珠湾攻撃を聞いて、どのような気持ちを持たれましたか。

A:

私は日本軍も凄いなと思いました。しかし、同時にいつまで続くだろうか、何れ敵の強烈な反撃を覚悟しなければならないだろうと思いました。ちょうど高等学校の一年生でした。やがて我々も動員される日が来るだろうと予感しました。予想通り昭和18年10月1日に在学徴集延期臨時特令が公布され、10月に徴兵検査を受け、明治神宮競技場の出陣学徒壮行会があり、雨の中私も参加しました。12月1日に歩兵連隊に入営して、星一つの陸軍歩兵二等兵で重機関銃中台に配属され、生まれて初めて馬の世話をすることとなった次第です。

Q:

最近の日本の情勢をみて、再び「魔の十年」に入るリスクがあると感じられますか。あるとすれば、どのようなところにその懸念を感じますか。

A:

70年サイクル説を考えると、リスクはあると感じています。理由はまず、ジェネレーションの交代が起きていることです。戦争の怖さや教訓を知っている日本人が消え、知らない人々が登場して権力を握っていく中で、考え方が違ってくる恐れがあるのではないでしょうか。さらに、中国、北朝鮮、韓国などの様子を見ても、アジアはやはり世界でも危ない地域の1つだと思います。中東やアフリカでも頻繁に紛争などが起きていますが、それなりに収まることもあり得ると思います。しかし、このアジアではそれを誰がするのでしょうか。米国が横を向いたら、誰もやりません。アジアにはヨーロッパのNATOに類するものはありません。今、安倍さんが必死になって安全保障問題と取り組んでいますが、まだ序の口といえます。ですからこの魔の十年の歴史を反省し、この国が危険に陥らないような段取りをしてほしいと皆様にお願いしたいと思います。

Q:

当時、大蔵省はニューヨークに駐在員を置いています。ですから、1938年頃から日本に対する経済制裁が高まる中、米国の情報は相当押さえていたわけです。一方で、商工省は、エネルギーについて情報を得ていたのでしょうか。あるいは、海外のインテリジェンス機能をどの程度持っていたのでしょうか。

また、軍部は最後まで縄張り争いをして統一できず、海軍と陸軍が別々に戦史叢書を出しています。しかし、外務省は吉田茂の指示によって若手の官僚が中心となって内部で調査を行い、外交的な失敗を検証しています。そこで、通産省は戦後そのような検証をされたのでしょうか。ご存知のことがあれば、教えていただきたいと思います。

A:

私は若い頃、たまたま石油公団に出向し、アラブ、アフリカ、中南米の産油国をしらみつぶしに見て回りました。そして、オイルショックを2回経験しましたが、エネルギー政策がいかに多方面多岐にわたって大事なものであるかを知りました。エネルギーは、政策全般に及ぶ長期的な問題であるため、常にフォローアップできる体制を持ち、独自のノウハウを持っている必要があります。

たとえば、参謀本部や軍令部が大事な作戦をつくるときに、エネルギーをどうするかは常に考えていたはずです。戦前のエネルギー政策に学ぶ必要もあるでしょう。しかし、原子力を包含する現代のエネルギー問題は全く新しいものです。これをどのように適応していくかは、国の最重要課題の1つだと思います。

コメンテータ:

オイルショックの前後となる1970年代半ば、通商産業政策史研究所でレポートをまとめたことがありますが、戦前期、商工省の外局として燃料局を作り、石油行政をどうするかを検討しています。しかし戦後のエネルギー政策の中で、それをレビューした記録はほとんど見つかりませんでした。

戦前の最大のイシューは重油確保でしたが、戦後のエネルギー政策の初期は石炭を中心とした国産のエネルギーで外貨を節約し、民生用のエネルギー供給をするという課題がありました。しかも国際的な石油情勢は大きく変わっていましたので、あまり顧みるという雰囲気ではなかったようです。

戦前、商工省は燃料局を作り、省庁横断的なエネルギー政策を展開しようという構想はあったのですが、陸海軍が自らのエネルギー必要量や、特別輸入という形で独自に輸入・備蓄している量などの情報は一切開示されないため、国としてのエネルギー政策がそもそも立たない状況でした。燃料局ができても、計画経済が進む中で、残った民生用のエネルギーをどう分けるかということに収斂していったわけです。その間、人造石油技術をドイツから輸入しようとするのですが、太平洋戦争勃発後、パレンバン(スマトラ島)で油田が確保された途端、日本政府が予算を措置しなくなり、人造石油の製造計画も頓挫しました。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。