心の健康(メンタルヘルス)産業の振興-認知行動療法を中心に-

開催日 2013年5月30日
スピーカー 清水 栄司 (千葉大学大学院 医学研究院 認知行動生理学 教授・子供のこころの発達研究センター長)
モデレータ 関沢 洋一 (RIETI 上席研究員・研究コーディネーター(政策史担当))
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開催案内/講演概要

心の健康(メンタルヘルス)産業を振興することは、国民の健康増進のみならず企業の生産性向上にもつながり、潜在的な需要は大きい。このBBLでは、認知行動療法に重点を置いて、心の健康産業の育成に向けた取り組みの現状、今後の展望について概観する。

認知行動療法は、考え(認知)が感情や行動に影響を及ぼすという理論に基づいて、考えや行動を修正することによって、うつや不安を軽減する治療法であり、心の病気の治療法としてだけでなく、予防法としての役割も期待されている。このBBLでは、心の健康産業振興の一環として、認知行動療法の普及に向けた取り組みについても取り上げる。

議事録

体の健康産業をもとに心の健康産業を興す

清水 栄司写真健康産業というと、通常、心の健康は含まれていませんが、これからは心の健康産業を進めていく必要があると思います。たとえば、クール・ジャパン(ゲーム・アニメ・マンガなど)とメンタルヘルスのコラボレーションによる新しい産業、ゲーミフィケーションでの楽しい心の健康づくりなどが考えられます。

昨今、体の健康づくりと健康志向が高まっており、 メタボリック・シンドローム(肥満症、糖尿病、高脂血症)といった体の病気を予防するための保健指導(医師・保健師)が行われ、 厚生労働省が許可するトクホ(特定保健用食品) のヒット商品も生み出されています。ウォーキングやゴルフなど、体の健康づくりとしての運動自体が楽しまれ、 「シニア層の健康志向に支えられるフィットネスクラブ」産業は上昇傾向にあるという経済産業省の調査もあります。

こうした健康志向に、心の健康も含めていただきたいものです。バランスのとれた食事(栄養)と同じように、ワークライフバランスも大事です。

うつ病の患者数は増加しており、労働安全衛生法を改正する流れがあります。2010年からは、認知行動療法に医療保険が適用されるようになりました。さらに、心の健康づくりとして認知行動療法自体が楽しまれるために、趣味・娯楽としての認知行動療法として、ゲーミフィケーションとクールジャパンのアニメ・マンガ、スマホのアプリといったIT端末とのコラボレーションの進展が望まれるところです。

少し前に、健康志向の中高年を中心に「脳トレ」ブームがありましたが、なぜか「メントレ」ブームはまだ来ていません。ニュージーランドでは、認知療法を行うゲームソフトの開発が始まっています。ゲームといえば日本の強い分野ですから、欧米各国に遅れないでほしいと思います。

認知行動療法は、うつや不安といった感情の問題について、認知(考え方)や行動の悪循環のパターンを見つけ出し、よい循環に切り替わるようバランスをとっていくもので、生活習慣病と同じような考え方といえます。具体的には、セラピストと患者さんがマンツーマンで話をするセラピーをはじめ、インターネットプログラムを通して話をするセラピー、サポート付きeラーニングが取り入れられています。

私たちも、メントレチェック、メントレ12週間、「ここれん」心の練習5分間といったメニューを用意していますが、やはり専門家であるクリエイター、技術者、研究者集団といった方々に、心の健康産業推進に参入していただきたいものです。

ニュージーランドでは、すでにロールプレイングゲームが開発されていますし、音声感情認識技術やスマホに話しかけると理解してくれる「Siri(シリ)」、ニューロフィードバックといった技術もあります。experience sampling assessment(経験抽出法)といったテクノロジーが医療機器に応用されれば、メンタルヘルスの治療が加速的に進むことでしょう。

なぜ心の健康づくりと職場革新力(セルフ・マネジメント)が必要なのか

なぜ心の健康づくりと職場革新力が必要なのかというと、2つの背景があります。1つめの背景は、うつ病患者数の増加です。厚労省のデータでは、うつ病患者数は12年間で2.4倍増の100万人を超えています。これは外来患者数ですから、潜在的な人数はさらに多いといわれています。そこで厚労省は、がん、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病に精神疾患を加えて「5大疾患」とし、国民に広くかかわる疾患として医療計画で方針を示しました。

心の病気で多いのは不安症(不安障害)と、うつ病です。不安症は、不安が大きすぎて生活に支障が出る病気で、薬物療法より認知行動療法が多く適用されます。うつ病は、気分の落ち込みや興味の喪失が大きすぎて生活に支障が出る病気で、薬物療法と認知行動療法が同程度適用されます。大うつ病性障害の診断基準は、血液検査や脳の画像診断などで明確に診断できる内容ではありません。また認知行動療法のできる人材が少ないため、まず薬を処方される場合が多いのが現状です。

多忙で、他の社員と話をする時間がとれないなど、社内でコミュニケーションのとれない状態を「不機嫌な職場」というようですが、コミュニケーションを増やすための色々な方法があると思います。認知行動療法研修では、傾聴、受容、共感のトレーニングやアサーション・トレーニング(積極的な自己主張)を行っています。

もちろんコミュニケーションは大事ですが、スーザン・ケインは「内向的な人の力」について、「社交的で活動的であることが何より評価される文化において、内向的であることは肩身が狭く、恥ずかしいとさえ感じられます。 しかし、内向的な人は世界にものすごい才能と能力をもたらしており、内向性はもっと評価され奨励されてしかるべき」と指摘しています。

認知行動療法とは、「受容(傾聴、共感)」と「変化」のバランス感覚を備えた、人にやさしい精神療法・心理療法です。医療の場だけでなく、家庭や職場、学校で、多くの人が認知行動療法を身につければ、ストレスにセルフ・マネジメントで対抗し、心の健康を維持できる日本社会に変わることができると思います。

2010年の厚労省の発表では、日本で自殺やうつ病がなくなった場合の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)の推計額は、 2009年の単年度で約2.7兆円 、2010年のGDP引き上げ効果は約1.7兆円 に上っています。こうした結果を受け、2010年度には、うつ病に対する効果が明らかとなっている認知療法・認知行動療法について、診療報酬上の評価が新設されました。

失われた20年

2つめの背景として、1991年から現在までの「失われた20年」を挙げることができます。つまり不況脱出のためのセルフ・マネジメント・アシストの必要性が高まっています。

『失敗の本質 日本軍の組織論的研究 』(中公文庫 戸部良一ら著)では、過去の成功体験へのとらわれが悪循環になることが指摘されています。そしてドラッカーは、知的労働者が企業とともに存在 (成長)し続けるには、「自己の長所を知ること」「自分がいつ変化すべきか知ること」「自分が成長できない環境から迅速に抜け出すこと」が必要と述べています。

過去の成功体験にとらわれ、失敗の連鎖から抜けられない状態が続く悪循環を、いかに同定するかという点で、認知行動療法はビジネスにも役立つのではないでしょうか。

動機づけには、外部からの報酬や罰による「外発的動機づけ」と、内在する好奇心や探索心による「内発的動機づけ」の2つがあります。ドラッカーは、「知識労働者を直接あるいは細部にわたって監督すること(外発的動機づけ)はできない。助力を与えることができるだけである」「知識労働者は、自らを監督しなければならない(内発的動機づけ)。そしてまた彼は、自らの仕事を業績や貢献に結びつけるべく、すなわち成果をあげるべく、自らを監督しなければならない」と、セルフ・マネジメントの必要性を強調しています。

企業の成長にはイノベーションの継続が不可欠で、イノベーションの継続には知識労働者の貢献が必要となるわけですが、管理職の仕事は、部下のセルフ・マネジメントの阻害因子を排除し、自己組織化しやすいようアシストすることかもしれません。認知行動療法の活用は、こういったセルフ・マネジメントにおいても役立つと思います。

感情の日常生活(経済活動)での重要性

オペラントの条件づけでは、外的動機づけについて、報酬を与えられると喜び(快感)の感情によってその行動の頻度が増え、罰を与えられると悲しみ(不快感)の感情によって行動の頻度が減ります。

また行動経済学では、2002年にノーベル経済学賞受賞したDaniel Kahneman教授(プリンストン大学)によると、人の経済行動は、理性だけでなく「感情」によって大きな影響を受け、得られる喜びより失う恐怖が大きいという「損失回避性」が経済活動に影響を与えることが示されています。

最近の脳科学研究では、うつ病状態の脳は長期の報酬予測が期待できないため、なかなかうつ病から脱することができないという結果もあります。扁桃体からうまれる感情は、恐怖に対する「逃げるか闘うか反応」のように、簡便な判断方略(ヒューリスティックス)として動物の生存競争になくてはならないものですが、一方で、人間に理性的でない、誤った判断をさせることもあります。

EQ(感情指数)とは、自分の感情および他人の感情を適切に捉えることができる能力ですが、認知(IQ)と感情(EQ)の矛盾をバランスする能力について、ダニエル・ゴールマン(1996)は、仕事で成功している人は、IQでなくEQが高いと指摘しています。挫折しても、自分の感情をとらえ、上手に内的動機づけを高めて乗り越えていけるため、仕事がうまくいくという研究です。

不安は時間とともに、また練習とともに下がります。認知行動療法では、1回1時間の16回セッションといった回数限定でゴールが定められており、認知や行動の悪いパターンを良いパターンに変えることを身につける反復練習を行います。スポーツのトレーニングに似たところがあります。

認知

認知行動療法では、患者さんが世の中をどのように認知しているかが重要視されています。歪んだメガネで世の中を見ていると恐怖を感じますし、歪んだ鏡で自分を見ていると自己イメージも歪んでしまいます。

考え・思考・信念(認知)の確信度について、どの程度、確かだと信じているかによって100%(必ずそうだと信じている)、50%(半信半疑)、0%(絶対そんなことない、全く信じていない)とすると、たとえば「地球は丸い」ということに対して、皆さんは、どの程度確かだと信じているでしょうか。

認知行動療法では、「どうしてそう信じるのですか」と聞きます。宇宙から撮影した地球の画像を見たから、学校でそう教えられたから、といった意見が多いと思いますが、さらに違う考えがないかを聞いていきます。数百年前まで、人間は世の中が平らだと信じていましたし、たとえば「自分はどうしようもなくだめで、不必要な人間だ」ということを信じてしまう場合もあるわけです。そこで、ディベート(ディスカッション)をしながら、どのような見方があるかを患者さんと考えていきます。

出来事に対する喪失、侵害、脅威といった認知のテーマのレベル(内容特異性)がある一方で、認知の深層のレベルは、自動思考(自分は他人から必要とされていない)、条件つき信念(他人から必要とされるという条件があれば自分には価値がある)、無条件の信念(いついかなる条件でも、自分には価値がない)の順で深くなっていきます。無条件の信念は常に不快な感情を起こすため、条件づけの信念で抑えている場合があります。そのような代償的な戦略をいつもとっているから悪循環から抜けられない、といった分析をします。

バランスのとれた認知(ものの見方、考え方)として、コップに入った水をみて「まだ半分も残っている」と思うか、「もう半分しかないや」と思うか。同じものを見ても、とらえ方が違うことがあります。そのようなバランスをとる作業することによって、うつの悪循環を断ち切ることができます。

うつ病の認知療法の創始者ベック先生は、認知には「自己否定(自分は価値がない)」「世界否定(世界は不公平だ)」「将来否定(将来には希望がない)」という3つのパターンが、うつを起こすとしています。ストレスを感じたときは、自己・世界・未来の認知を尋ねることで「自己肯定」「世界肯定」「将来肯定」を促します。

認知行動療法は心の健康づくりに有用ですが、職場やビジネスにも役立ちます。ストレスからうつ・不安を引き起こす認知、感情、行動の悪循環に気づいてください。そして職場革新力の向上、仕事がうまくいかない悪循環に気づくためにセルフ・マネジメントをしましょう。

質疑応答

モデレータ:

認知行動療法に適用されている保険の算定要件や点数をみると、医師の報酬として低いように思います。実際、認知行動療法を医師が行うことは現実的なのでしょうか。

A:

たしかに、報酬が低すぎるため医師が行えない現状はあると思います。トレーニングは、千葉大学でも先進国である英国のモデルを取り入れて行っています。修得には年数は必要ですが、一番大きな問題は、技術料があまりにも低いことです。ぜひ、適切な対価を設定していただきたいところです。

モデレータ:

マニュアルがあるとしても、医師が認知療法を習熟するためには、どの程度の期間が必要でしょうか。

A:

今のところ、厚労省の研修事業で行っているところは2日間のワークショップを受講した後、スーパーバイザーからマンツーマンで2症例の「スーパービジョン」を受けます。習熟するにはさらに経験が必要ですが、これが最短期間となっています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。