現在の経済危機下における貿易

開催日 2012年10月12日
スピーカー パスカル・ラミー (世界貿易機関(WTO)事務局長)
モデレータ 石毛 博行 (RIETIコンサルティングフェロー/日本貿易振興機構 理事長)
開催言語 英語(同時通訳あり)
開催案内/講演概要

パスカル・ラミーWTO事務局長が、現在の経済環境の中で諸国及び多国間貿易システムが直面している課題について論じる。世界経済の失速、保護貿易主義との戦いにも触れ、国際貿易を論じる際に、RIETIのような研究機関の貢献がもっとも期待される分野を明らかにする。

議事録

パスカル・ラミー写真パスカル・ラミー
東京で開催される国際通貨基金(IMF)年次総会まであと1日となりましたが、私たちは今もまだ経済危機の真っただ中にいますし、危機以前の成長パターンに戻るまでに何年かかるかも分かりません。危機以前から存在する経済改革の課題に、新たな問題が加わっています。20世紀初めに貿易を理解する上で用いられた過去の理論や仮定は、貿易の新しい現実に合わせて見直される必要があるでしょう。RIETIのような研究機関は、世界貿易の新たなパターンに関する理解を広める上で重要な役割を担っています。

先月、WTOは2012年の貿易成長率の予測を、春の時点での3.7%から、2.5%へと当初の予想を超えて、大幅に下方修正しました。最近になって欧米の景況に明るい兆しが見えています。しかし、欧米の巨大な輸出市場の減速のあおりを受け、途上国の経済成長は現在のところ、減速局面にあるようです。一方、日本はいまだ10~15年前の経済成長パターンに戻る道筋を探ろうとしているようです。

以前から知られていることですがこうした状況は、私たちはもはや、経済的に完全につながり、グローバル化した相互依存的な世界で生きているということを裏付けるものです。今やどんな国や地域も、世界金融危機と無縁ではいられません。同様に、ある国や地域でとられた行動が、他のすべての国や地域に直接的な影響をおよぼします。今後、世界貿易・経済政策を共同で策定する上で、相互依存の認識が重要です。こうした複雑な経済の網により適した形でグローバル・ガバナンスに取り組み、今後は経済をグローバルな視点で見る覚悟をよりいっそう強めなければなりません。

経済・貿易面では、新興国の影響が増大し、勢力バランスが変化しています。明らかに、我々がまだ適応できていない、数多くの変化が生じていることを意味しています。従来的な主権の概念は、相互依存の現実に直面し、大きく揺らいでいます。これを問題視するむきもありますが、貿易に影響をあたえる真の要因を見極める1つの機会と捉えた方が良いかもしれません。現在、政治や貿易について活発な議論が行われているのは、貿易の形成要因に関して真剣に議論や検証がなされていることを示しています。経済危機の早い時期に、アジア市場は柔軟な対応を見せました。市場の開放と財・サービスの流れを維持することが、優れた戦略であると明らかになりました。とは言え、アジア諸国も現在の世界金融危機の影響から無傷でいられたわけではありません。日本の輸出が相当な影響を受け、中国の貿易の流れも伸び悩んでいることは、この変化の証左です。

アジア地域の成長に今後も引き続き、影響をおよぼす要因の1つとして、アジアの輸出市場における保護主義政策の危険性があげられます。経済危機が始まって以来、WTOと経済協力開発機構(OECD)は、世界中の貿易政策におこっている変化を追跡しています。調査・分析の結果は、主要20カ国・地域(G20)に報告されています。実際には、大きな保護主義の波は押し寄せていないものの、一部の国では規模は小さいながら、保護主義的な政策が継続的にとられており、世界貿易の流れにとって脅威となる可能性があります。大まかに言うと、過去5年間に世界貿易額の2~3%がこうした保護貿易政策の影響を受けています。最大の懸念はこの期間に蓄積されてきた政策がほとんど撤廃されていないことです。これは深刻な事態です。グローバル・バリュー・チェーン(世界的な価値連鎖)が広がる今日の世界において、保護貿易主義は雇用を保護しないからです。輸出に占める輸入中間財の割合が、20年前の20%から40%に変化した今日、輸出競争力は輸入競争力に左右されることがよりいっそう明らかになっています。保護貿易は輸入鈍化をもたらし、国家経済の競争力低下を招くので、重大な課題として取り組むべきです。

最近では貿易の流れのみならず、その本質も変化してきています。技術進歩によって距離によるコストは大幅に削減され、付加価値が重視されるようになっています。その結果、貿易をコストではなく、付加価値で計測する取り組みが数年前から始まりました。これはうまく機能しており、12月半ばに初めて、WTOは付加価値ベースの世界貿易統計を公表する予定です。対象は40~50カ国ですが、国際貿易の大部分をカバーし、生産の多地域化の認識を深め、世界貿易の最新の動向をいち早く、より正確に把握できるようになるでしょう。私たちは今、21世紀の貿易が直面する真の課題をよりよく見極められるようになるでしょう。WTOの使命は依然として貿易の自由化です。ただし、どういう課題に取り組むべきかを正確に把握できるか否かにかかっています。

現在の経済危機はともかくとして、今日の世界で実際にどのような形で貿易が行われているのかを理解するためには、克服すべき問題の重要性に応じて、システムを構築することが必要です。たとえば、関税と非関税障壁についてです。関税貿易一般協定(GATT)とWTOにおいては、主として輸入関税の撤廃に重きが置かれてきました。しかし今日、企業の関心は関税よりもむしろ非関税障壁にむけられている傾向にあります。関税と非関税障壁の新たな現実に合わせ、WTOのアジェンダを組み直そうとすれば、数々の大きな変更が必要となるでしょう。もう1つの例は輸出規制です。一部の産業においては天然資源へのアクセスをめぐる問題がますます深刻化しており、調査を要します。しかし、今のところWTOとGATTはむしろ輸入規制に力を入れていることは明らかです。以上の例から、WTOは世界経済に現れる変化にもっと適確に対応する必要があると言って間違いないでしょう。

WTOの改革は重要だとしても、だからといってアジェンダの全面的な再構築が必要と考えるべきではありません。ドーハ・ラウンドは主として地政学的な理由でいまだ決着をみておりませんが、一部の学識者はWTOが一から出直すべきであると主張していますが、こうした主張は政治的な意味合いにおいてあまり適切であるとは思えません。現実としては、WTOはいずれどこかの時点で、ドーハ・ラウンドで貿易自由化問題と位置づけられたものと、政府調達や非関税障壁などの新たな問題をまとめて取り扱う必要に迫られることになるでしょう。したがって、明確な決定を下す前に今日のような議論の場を持つことは非常に有益であり、良い刺激になります。

質疑応答

Q1:

非関税障壁への関心は高く、そのほかにもイノベーション、補助金、技術的基準、技術移転など問題が山積しており、こうした問題に関わる貿易政策策定の担当者は難題に直面しています。現況下でWTOはこれらの問題にうまく対処できるのでしょうか。私が所属するJETROにおいては、おそらくWTO単独で成し遂げることは無理という意見が大多数を占めています。むしろ、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)がその役割に相応しいのではないでしょうか?

A:

21世紀の貿易において重視される分野のWTOのルールおよび規律を考える上で、これは重要かつ今日的なトピックです。たとえば、WTOには補助金に関するルールがあります。「補助金及び相殺措置に関する協定(ASCM)」が既にあり、補助金に関するルールが定められ、どういう場合にWTO違反になるかが明示されています。その基準が合意されたのは約20年前も前のことで、その後多くの変化があったと考えられます。したがって、その合意内容を再検討し、見直す必要があるのかという問題はあります。また、現在WTOで係争中の紛争の中には、現行の補助金協定の解釈に関連するものがあります。非関税障壁についてもWTOのルールがあります。不当に貿易を歪めない限り、自国民の健康と安全を保護する権利を認める協定も存在します。非関税障壁に関する紛争もWTOに持ち込まれています。問題は非関税障壁の数が増えたことではなく、ルール相互の矛盾であり、その調和を図る上でWTOが役割を担うべきか否かということです。

TPPに関しては、まだ発展段階なのであまりコメントはありません。TPPは、多国間主義を推進させる、あるいは規制問題に関し公平な競争条件を拡げると見られているようです。TPPが本当に貿易を促進できるかどうかの判断基準の1つは、この交渉が新たな市場アクセスの向上につながるかどうかです。二国間協定が結ばれる理由の1つは、マルチよりもバイの方が容易に市場アクセスを実現できるという考えに基づいています。TPPによって市場アクセスが増加し、この考えの正しさが証明されるのか、現時点では分かりません。

Q2:

今現在、国際通貨基金・世界銀行年次総会が日本で開催されており、約1万人のビジネス関係者が参加しています。毎年こうした機会が設けられるわけですが、WTOの場合、これとは対照的に閣僚会議が隔年に開催されるだけで、WTOが産業界と距離を置いているように見えます。また、産業界はWTOの諸問題への取り組みの速度や視野の狭さに大きな懸念を抱いているようです。今後の交渉を成功させ、WTOの役割を強化するには、WTOと産業界の関係を深めることが必要です。将来的に産業界に恩恵をもたらし、かつWTOを補完するような新たな組織を作る必要があると思いますか?

A:

WTOは政府間組織です。その加盟主体は主権国家であり、条約という形で締結される法的拘束力のある約束を受け入れるか否かを決めるのは主権国家なのです。さらにWTOはOECDなどとは異なるグローバルな組織で、今後も変わりません。WTOの内部では政府、外交官、交渉官が活動していますが、ビジネス界とも関わりを持っています。たとえば、国際商業会議所(ICC)や世界経済フォーラム(WEF)などグローバルな企業や組織とかなり恒久的な協力関係を築いています。このような協力関係が複数築かれているのです。ただし制度化はされていません。なぜなら、貿易交渉については、政府が一手に担いたいからなのです。また、WTOは、北米自由貿易協定(NAFTA)のような地域協定と異なり、企業と国家間の紛争は扱いません。WTOは機関であると同時に制度でもあります。WTOは、交渉の場においては機関ですが、訴訟においては制度です。国際機関における意志決定は加盟国が行うのに対し、制度の場合は加盟国がその決定に従わなければならないのです。

Q3:

紛争解決メカニズムに関するご自身の見解をお聞かせください。

A:

現行のシステムは紛争解決という面で非常にうまく機能していると思います。WTOの加盟国は増え続けており、自由裁量権の行使も今では大幅に少なくなっています。実際、WTOが現在扱っている案件の半数は、途上国間の訴訟です。影響評価について言えば、パネル裁定の95%以上が履行されています。これは多くの国の制度と比較してはるかに高い履行率です。また、訴訟期間も開始から最終的な裁定まで平均2年未満で、大半の国の訴訟制度よりはるかに迅速です。唯一の問題は、WTO加盟国による訴訟にかかるコストが徐々に増加していることです。したがって、訴訟案件の複雑性を慎重に検討する必要があります。今年はWTOに持ち込まれる紛争件数が急増し、財政を圧迫しています。WTOが極めて厳しい機密保持規定と厳格な期限を設けていることを考慮すると、この事態は運営上の深刻な問題と言えるでしょう。

Q4:

WTO事務局長として何を残されるつもりでしょうか?

A:

今はまだ、適切なコメントを出すには時期尚早です。来年8月31日に現職を退く予定なので、来年話しましょう。

Q5:

WTO事務局長としてのご経験から学ばれた最大の教訓は何ですか?

A:

この質問に正確に答えるのも、時期尚早かもしれません。しかし、私はこれまでに多くを学んできましたし、今も学び続けています。65歳にして毎日学び続けられることはこの仕事の恩恵の1つです。難しい仕事をこなすフラストレーションはありますが、私は3つの大きな組織に携わるチャンスに恵まれてきました。まず政治のスタイルは環境により異なることを学びました。また、国際的なレベルで何かを成し得る上で極めて重要な要素も学びました。優れた専門知識を持つ国際機関を率いる中で学んだのです。これはまさにWTOのような機関の比較優位です。さらに国際的な意思決定システムがいかに迅速性に欠けるかも学びました。もちろん157カ国の合意を得るのは困難ですが、WTOはおおむね問題なく全会一致に到達しています。ドーハ・ラウンドが決着できていないのは、加盟国が157カ国であるという事実と全く関係ありません。実際には、EU、米国、中国、インド、ブラジル、日本、オーストラリアの間で合意に達すれば、157の全加盟国のコンセンサスを得ることは可能です。ドーハ・ラウンドが決着できないのは、上記7加盟国・地域のコンセンサスが得られないからです。各国政府がグローバル・ルールの必要性を理解しているとしても、実際に合意する能力を有しているかは別の問題です。なぜなら、政府は本来、国内的な存在であり、国内問題に責任を負っています。「グローバルな選挙区」というものは存在しないのです。どうやってこの問題を解決するべきかという問題はまだ残っているのです。今回の経済危機は、こうした国際的問題に取り組む上で、各国政府の政治的なエネルギーを引き出すことにはなりませんでした。これは今後も引き続き深刻な問題です。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。