【通産政策史シリーズ】20世紀末日本における産業政策のレジーム変化

開催日 2012年6月22日
スピーカー 岡崎 哲二 (東京大学大学院 経済学研究科 教授)
モデレータ 関沢 洋一 (RIETI研究コーディネーター(政策史担当))
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開催案内/講演概要

第二次世界大戦後、通産省は日本経済の復興と成長を目的として、経済に対するミクロ的な政策介入を活発に行った。その主要な様式は、個々の産業をひとまとまりの対象として、それに政策的介入を加えるというものであった。この方式は、1980年代に経済成長の屈折が生じた際の産業調整政策にも当初は適用された。しかし、80年代後半以降、こうした伝統的産業政策は後景に退き、ミクロ的な介入を行う場合にも、産業ではなく、個々の企業や地域を対象とすることが多くなった。そしてさらには、ミクロ的な介入に代わって経済全体の制度設計が産業政策の中心に位置するようになった。

本BBLセミナーでは、先に刊行された経済産業調査会編・岡崎哲二編著『通商産業政策史 3 産業政策』(経済産業調査会、2012年)に基づいて、こうした80年代以降における産業政策レジームの変化の過程を概観するとともに、この時期に行われた介入政策の効果について検証する。

議事録

日本経済と政策当局が直面した問題

岡崎 哲二写真1955年以降の経済成長経路の段階的変化として、石油危機のあった70年代前半と90年代初めに、実質GDPの成長を示したグラフに明らかな屈折がみられます。この屈折は、ミクロの産業にも大きな影響を与えました。

製造業(3桁)の成長率分布をみると、1965-70年の高度経済成長期には、マイナス成長の産業の比率は小さかったわけですが、1980-84年には状況が大きく変わり、マイナス成長の産業は全体の6割に上っています。つまり1980年代前半には、半数以上の製造業の産業がマイナス成長に転じてしまったという問題に政策当局は直面をしたわけです。

このような成長率の下方屈折を象徴的に体現した産業は、鉄鋼や非鉄金属といった一次金属です。成長牽引産業の推移をみると、1960年代後半は一次金属が牽引していましたが、80年代前半には最下位となり、マイナス成長になっています。

また製造業の設備稼働率も70年代前半に大きく下方屈折しており、それと明確に対応するかたちで、製造業のROA(総資産利益率)も低下しています。つまり1970年代、80年代に製造業の生産が減少し、設備の稼働率も下がり、収益率が下がったという実態がうかがえます。

さらに、産業の成長率の低下は企業の資金不足を縮小させ、経常収支の黒字拡大につながります。それが国際摩擦の原因になるという状況でした。それが産業政策のあり方に、色濃く反映されていくことになります。

「伝統的」産業政策:1980年代前半

通産省が70年代末に作成した「80年代の通商産業政策のあり方」では、産業構造政策の役割として、市場機能のみでは「長期的視点から見て望ましい産業構造」の実現が困難な場合は、市場機構を補完するかたちで介入することが認められています。そして、とくに円滑な産業調整の実現が強調されています。

産業調整とは、特定の産業分野を縮小し他の産業分野に転換していくことです。当時、産業調整政策の主な対象になったのは、基礎素材産業でした。1981年には、通産省内に基礎素材対策研究会が設置され、過剰設備と収益率の低下が集中的に起こっていた基礎素材産業について調整の必要性が検討されました。

一方、当時すでに産業政策に対する国際的な風当たりが強くなっており、輸入規制などによって、基礎素材産業を露骨に保護することはやりにくい状況でした。研究会では、業界を再編成し、過当競争を防止するといった伝統的な産業政策が結論として掲げられています。

そして1983年には、特定産業構造改善臨時措置法(以下、産構法)が制定されました。産構法では、産業調整が必要な平電炉業、アルミニウム製錬業、化学繊維製造業、化学肥料製造業、合金鉄製造業、洋紙製造業、板紙製造業、石油化学工業などを「特定産業」に指定し、構造改善基本計画のもと計画的な設備処理等の措置が講じられました。

『通商産業政策史 第3巻 産業政策』では、産構法の効果について定量的にテストしています。製造業120産業の1980~86年にわたる7年間のパネルデータを作成し、産業のパフォーマンス指標(ROA、TFP上昇率、労働生産性上昇率)を用い、構造改善計画が設定されたことの効果をdifference in difference分析によって推定しました。

その結果、ROA、TFP(総要素生産性)上昇率、労働生産性の上昇率のどれに対しても、明確なプラスの影響を与えていることがわかりました。なかでもROAは、指定されない産業よりも特定産業が3%以上高くなっており、相当大きな効果を与えたといえます。

このように産構法は通産省が意図した効果を収めた一方で、別の状況も顕在化してきました。強い産業政策的な介入に対し、外圧が強くなってきたことがそれです。1983~84年にかけて、「産業政策ダイアログ」が日米の産業政策当局の間で行われました。

米国側は、「日本企業による対米輸出競争力は、産業政策による特定産業に対する助成措置(ターゲット政策)によって培われたアンフェアなものである」、「産構法は、衰退産業の温存を図ろうとするものであり、輸入障壁となっている」と主張し、そのまま産構法を継続することは難しい状況になりつつありました。加えて、経常収支の黒字が拡大する中で、国際的な調和という観点からの要請も高まり、産業政策のあり方を環境変化に適応させる必要が出てきました。

外圧と政策変化:1980年代後半

1987年には産構法が期限を迎え、継続の議論もありましたが、環境として難しいということで、産業構造転換円滑化臨時措置法(以下、円滑化法)が制定されました。

この法律は、「我が国の産業構造が国際経済環境と調和のとれた活力あるものに転換していくことが重要であることにかんがみ、特定業者の新たな経済的環境への適応を円滑にするための措置を講ずるとともに、特定地域の経済の安定および発展のための措置を講ずること等により、我が国の産業構造の転換の円滑化を図ること」を目的としています。

政策介入の具体的な仕掛けとしては、特定の産業ではなく「特定事業者」と「特定地域」を対象とすることになっており、これは伝統的な業界を対象とした政策がここで放棄されたことを意味します。同時に、それまで伝統的に通産省が行ってきた独禁法の適用除外規定は行わないことにしました。

こうした新しい政策枠組みが1987年に準備されたわけですが、産構法と同じように、『通商産業政策史 第3巻 産業政策』では、円滑化法の地域経済に対する効果についてテストしています。ただし円滑化法では、政策の対象が産業ではなく地域・事業者であるため、ここでは地域に焦点をあてて検証しています。

3234市町村の1986~89年にわたる4年間のパネルデータを作成し、製造業雇用増加率、製造業実質出荷額増加率を用い、円滑化法に指定されたことによる効果をdifference in difference分析によって推定しました。その結果、円滑化法に指定された市町村は、指定されない市町村よりも雇用増加率が約3%大きく、相当大きな成果を上げていることがわかりました。

円滑化法が産業政策の歴史において持った意味について、1986年6月~1988年6月まで通産次官を務めた福川伸次元さんは、「産構法は延ばさないことにして、地域不況に特別な対策を講ずることになりました。産業構造転換円滑化臨時措置法というのをつくって、業種別の過剰処理ではなくて、事業所ごとの転換対策をいい計画があればそれを助成措置する、こういうことにだんだん変えていきました。業種対策は産構法が最後でした。(中略)産業業種対策をこのころに変えていって、市場経済重視の政策に変わっていった、そういうことだと思うのです」 と回想されています。

産業政策の転換と構造改革:1990年代~2000年代

このような動きをさらに徹底したのが、1995年に制定された「特定事業者の事業革新の円滑化に関する臨時措置法」(以下、事業革新法)です。この法律の対象は業種でも地域でもなく、「特定事業者」つまり個別の企業を対象として、「事業革新計画」 を提出した企業に対して金融的支援を行うというものです。

事業革新法についても、同じように政策効果に関するテストをしています。そこで企業886社の1994~99年にわたる6年間のパネルデータを作成し、企業のパフォーマンス指標(TFP上昇率、労働生産性上昇率)を用い、事業革新法に指定されたことの効果をdifference in difference分析によって推定しました。その結果、TFP上昇率、労働生産性上昇率ともに、かなり大きなプラスの効果を与えていることがわかりました。

以上のように90年代半ばにかけて産業政策の性格が大きく変化したわけですが、90年代後半には、さらなる産業政策の局面転換が生じました。いわば第3期に入るわけですが、この時期の政策は、端的にいうと構造改革政策としての産業政策というべきものだと思います。その変化を最初に提示したのが、通産省による「90年代の通産政策ビジョン」です。

その中では、1980年代末に生じた東欧社会主義圏の崩壊によって、東西対立の影に隠れていた「西側諸国」間の摩擦が顕在化し、さらに国際経済交流の深化によって、経済摩擦が貿易だけでなく、投資、技術、金融からさらには制度、慣行等の構造的側面に拡大すると述べられています。また、日本経済のプレゼンスの増大によって、日本の経済力に対する懸念が強まり、日本の社会構造や文化にまで立ち入った不信感さえ生じていると懸念しています。

こうした考え方に基づいて、90年代における産業政策の新しいコンセプトを、いわばマニフェストとして示したのが、1993年の産業構造審議会基本問題小委員会による中間提言です。そこでは、「21世紀の我が国経済にふさわしい新たな制度的枠組みを構築するという観点から、企業システム、雇用システム、金融・資本市場システムに関連する各種の制度改革を行う」とうたわれています。

その前提となる日本の経済システムに関する認識として、企業については、長期的な量的拡大志向の経営、激しい企業間競争、経営者の自律性の高さ(裁量の余地の広さ)、横並び指向、長期継続的取引などを示しています。また雇用については、ホワイトカラーとブルーカラーに共通の長期雇用慣行があり、それを支える仕組みとして、メインバンクや株式持合いといったものがあると述べています。このように、公的文書として日本的な企業システムを正面から取り上げ、それを前提に制度改革の必要性を提言している点に大きな特徴があります。

産業構造審議会基本問題小委員会は、1994年に最終報告書をまとめていますが、その中で、今後は諸制度・規制等を所与のものとして受け入れるのではなく、ルールや制度そのものを変えることが政策の対象になるという新しい政策手法を提言しています。

橋本内閣と経済構造改革の始動

こういった通産省の考え方の変化が、最初に具体的な形をとったのは橋本内閣の時代だと思います。橋本内閣は、1996~98年にかけて、行政改革、経済構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、財政構造改革、教育改革という「6つの改革」を提言しました。

橋本首相(当時)の所信表明演説では、 「高コスト構造の是正によって我が国を産業活動の魅力ある舞台とし、質の高い雇用機会をつくり出すために、徹底した規制の排除・撤廃・緩和、企業と労働に関する諸制度の改革、人、物、情報の効率的な移動を支える基盤整備などを行います」と言われました。

その背景として、1996年10月に通産次官が産構審の検討事項等を橋本首相に説明した際、 橋本首相は「大きな仕掛け」の必要性を指摘したということがあります。そして翌11月には、橋本首相が通産相に対し、経済構造改革案を通産省が中心となって、各省庁と調整のうえ策定するよう指示をしました。いわば通産省が経済構造改革の中心的な役割を担っていくことが明確になったわけです。

牧野力元通産次官は、「いま経産省でいろいろ進めている構造改革のホールピクチャーをとらえて出したのは、このころでしょうね」と回想しています。また渡辺修元通産次官は、「この時期は経済構造改革を通産省が責任を持ってやれと、これは初めてのことです」、また「通産省が経済構造改革という横割りで各省に球を投げ、その球を経済構造改革という横串で全部受け止めるというのは、今まで無かったことでした」と回想しています。

そして最終的に、1996年12月には「経済構造の変革と創造のためのプログラム」が閣議決定されました。その中には、「これまで我が国の経済発展を支えてきたさまざまなシステムの変革を迫っており、痛みを恐れずに変革に大胆に取り組むことにより、我が国の経済の新たな発展の可能性が開かれる」とうたわれています。そして、日本に新たな産業が生まれてくるような環境基盤を整備することが示されました。

まとめ

1980年前半は、「伝統的」産業政策、業界政策としての産業政策の時代であり、特定の産業全体を対象として護送船団的に業界政策が講じられました。そして、独禁法適用除外という手段が用いられました。

1980年代後半になると、特定産業内の特定企業のみを対象とした政策に移行し、独禁法の適用除外もなくなりました。その背景には、米国を中心とした国際的な産業政策批判がありました。

そして1990年代以降になると、制度改革が産業政策の主要な対象となってきました。その背景として、日本経済の長期的な停滞とともに、経済学研究の影響が反映されていると考えられます。

質疑応答

Q:

かつてはインダストリアルポリシーというと、経済学の論壇の中では極めて異端のように感じられた時期もあって、それを背景に、通産省あるいは経産省の政策は、相当の外圧にさらされたと思います。今日のお話では、3つの法律が少なくとも行政対策として一定の効果を上げ、特定の企業のパフォーマンスを上げる効果があったと推定できるわけですが、このような認識は、国際的な経済学の論壇の中ではどのように評価、あるいは再評価されているのでしょうか。

A:

産業政策については、経済学者の中で今日でもいろいろな議論があります。一方では、政策をやってもやらなくても同じだという考え方もあり、他方で何らかの効果があるという考え方があります。そして効果があるという立場の中でも、効果があるからいいのだという人と、あるからいけないのだという人に分かれるわけです。どういう考え方が主流かというのは、何ともいえないところがありますが、いまだに3つぐらいの立場が併存しているのが現状だと思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。