【通産政策史シリーズ】WTO知的財産システムの構築とその後の展開

開催日 2012年3月13日
スピーカー 高倉 成男 (RIETI上席研究員/明治大学法科大学院教授/鈴榮特許総合事務所・弁理士)
モデレータ 西垣 淳子 (RIETI上席研究員(兼)研究コーディネーター(政策史担当))
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ウルグァイラウンド交渉の結果、1994年に「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)が成立し、これにより、各国が遵守すべき知財のルールをWTOが定め、その遵守状況をWTOが監視し、違反についてはWTOの紛争解決手続を適用するというWTO中心の知的財産システムが構築された。しかし、その後、知財の問題は、環境、エイズ、貧困など他のグローバルな課題を巻き込みながら、論争の場の拡散(レジームシフト)と論点の錯綜を招いている。

このBBLセミナーでは、日本の通産政策の立場からTRIPS交渉を振り返るとともに、その後のレジームシフトの背景を探り、今後の交渉のあり方について考える。

議事録

TRIPS交渉を振り返る意義

高倉 成男写真昨年11月に通商政策史第11巻(知的財産編)をとりまとめました。そのうちの第2章「産業財産権制度の国際化への対応」を中心に本日お話させていただきます。

よく登場する用語として、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS:Agreement on Trade-related Intellectual Property Rights)があります。なぜ、「貿易関連」かというと、このルールづくりを国連機関である世界知的所有権機関(WIPO)ではなく、貿易機関であるWTO(当時のGATT)が扱うことの正当性を内外に示す必要があったからです。

TRIPS協定自体は20年以上前に合意されたものですが、その交渉を今振り返ることの意義として主に次の2つがあります。

1つは、1980年代の日米の関係は、現在の日アジアの関係とよく似たところがあるからです。80年代前半の米国は、日本とドイツの急激な追い上げと過度のドル高による貿易赤字の増大に直面していました。同じようなことが、いままさに円高で苦境に立たされている日本についても起きています。

また、当時の米国はベトナム戦争での敗北、アフガン戦争、イラン革命などもあって、国際社会での発言力が相対的に低下していました。米国が総じて元気を失っていた時代。そうした時代背景からレーガン大統領の「強いアメリカの回復」というスローガンが出たわけですが、その「強いアメリカ」回復の過程において、貿易問題が単なる企業の問題ではない、国家の問題、大統領アジェンダだとして取り扱われるようになったのです。それ以降、過度のドル高の是正とハイテク分野における知的財産ルールの確立が戦略として推進され、80年代の知的財産権保護の強化と1985年のプラザ合意という一連の動きが出てきましたが、そこから日本が学べる部分は大きいと思われます。

もう1つは、WTOというパッケージ交渉のなかでTRIPS交渉は先進国の主導で1つの合意に達したわけですが、その成功がここにきてマイナス要因になっていると私は見ています。それが現在の膠着状態の要因であるとすると、その交渉過程を検証することで打開策が見えてくると思われます。

知的財産が経済的な財としてだけでなく、多国間交渉の交渉カードとして価値のあるものとなったために、近年は途上国がなかなか妥協に応じなくなり交渉がしにくくなったということがいえます。さらに、知的財産の保護範囲が生命、環境、インターネットに絡む部分にまで拡大し、その交渉に特許当局など特許の専門家だけでなく、NGOや市民団体まで巻き込むようになったことがいえます。その結果、2000年を境にWTOの交渉が極端に進まなくなったのです。そしていま、多国間の条約を中心とするハードロー(hard law)から、共通の利害を持つ少数複数国間の条約、あるいは互恵的なガイドラインのようなソフトロー(soft law)へのシフトが顕在化しています。

1980年代の知財問題の背景と米国の思惑

1980年代の知財問題の背景として、主に経済のグローバル化、産業・製品の知識化、情報通信(IT)の発展、の3つがあります。こうした新たな状況を背景に健在化した問題として、途上国の不十分な保護、各国の法制の違い、外国特許取得のコストなどがありますが、これを国連の世界知的所有権機関(WIPO)ではなくGATTのウルグアイラウンドで交渉することを米国が提案し、欧州と日本の賛同を得た結果、1984年の閣僚総会において、従来の12分野に加えて「知的財産」、「サービス」、「投資」の3つの新分野が交渉の対象に加わることが決定しました。

それまでは水際の関税撤廃で貿易が伸びると思われていましたが、関税が殆どゼロになった状況でさらに貿易を拡大するには国内の非関税措置を是正する必要があるとのことで、この3分野が選ばれたのです。「貿易に関連する知的財産権の側面をWTOが扱う」というのがGATTの大義名分でしたが、本音では「先進国主導のルールづくりをしたい」という思惑があったといえます。この背景として最も大きかったのは、やはり米国の知的財産戦略が極めて貿易指向になってきたということです。

1984年に貿易赤字が1000億ドルとなったのを境に、米国は知財戦略とドル高是正に重点を置くようになりました。最初はバイでの交渉が中心で、短期間に大きな成果をあげることはできました。しかし、相手国に大きな不満を抱かせるという問題が生じました。「自国のルールで相手国に法改正を迫るのはおかしい」という声が各国から出た結果、「そうなら多国間のルールを作ろう」ということで、米国がGATTにおける新しいルールづくりに着手するに至ったのです。つまり重要な点は、本来はバイでやりたかったというのが米国の思惑だったということです。というのも、世界100カ国が集まってルールづくりをすれば、欧州型のルールになってしまうということに気づいていたからです。

戦後から1970年代までの米国は、敗戦国である日本とドイツを自由主義陣営に取り込むために国内市場を開放してきた歴史があります。それが80年代に入り、貿易赤字に苦しむに至って、自国の利益を追求するように変わってきました。そうした「自由主義国の盟主」からの転換期が、やはり80年代であったと思われます。特に、医薬・物質関係の特許とコンテンツ(コンピューター・プログラム、映画など)の著作権の2つが焦点とされました。この時代の米国のもう1つの特徴がマルチとバイの使い分けです。「バイが無理ならマルチで、マルチが駄目ならいつでもバイに戻る」という強気の姿勢が、途上国にとって一種のプレッシャーとなり、途上国をしてハイレベルな知的財産ルールを受け入れさせた1つの要因になったと思われます。

ただ、結論からすると、ドル高是正にしても、知的財産保護強化にしても、米国は完全には成功していません。ドル高は是正されても、日本企業による対アジア投資とアジアの対米輸出が増え、米国から見た輸入量は結局減らず、また知的財産のルールができ上がっても貿易赤字はたいして解消しませんでした。その反省もあって、90年代以降の米国は、「製造業こそ国力の源泉である」という認識に立ち返り、日本の経営手法も取り入れながら国内製造業の改革に取り組みました。

また、イノベーション政策が重視されるようになったことに伴い、90年代後半からITやバイオのベンチャーが急速に増えてきました。その結果、米国経済は「ニューエコノミー」といわれるように急速に成長力を取り戻し、また、そのころを境に米国はTRIPS協定の見直しをあまり口にしなくなりました。ドル高を是正しても、途上国における知的財産保護を強化しても、それだけでは不十分で、むしろ国内におけるものづくりの改革によってこそ、経済成長力の急速な回復が実現したということは、注目に値すると考えています。

1994年マラケッシュ合意~2001年ドーハ閣僚級会合~ポストTRIPSのレジームシフト

「知的財産の保護強化が公正な自由貿易を促進し、世界経済を発展させる」というのが米国の一貫した主張でしたが、途上国は「知的財産法制は国内の問題」として最後まで納得しませんでした。それでも何とか1994年のマラケシュ合意、すなわちGATTの包括合意という政治決着が見られたのは、15分野一括合意だからというのもありますが、知的財産に関しては途上国に対して長い猶予期間が与えられたという要素があったと思います。

それから、途上国の側でも、アセアンや台湾、さらには中国(オブザーバーとして参加)がWTOでのルールづくりを肯定するなど多様化が進んだことに加えて、冷戦以降は「ロシアカード」という切り札が使えなくなったこともあって、一枚岩で先進国に反発できない状況がありました。しかし、合意の過程において、特に医薬特許に関しては、国によっては2016年1月1日までという非常に長い、しかも延長可能な猶予期間が設けられる一方で、バイでの一方的な措置がとれなくなったため、米国としては実質的に動きを封じられる形となりました。しかし、不満はあったものの、90年代以降の空前の好景気もあって、米国はTRIPSの見直しを提案するには至りませんでした。

むしろ、最近では途上国の方がTRIPSの改定を積極的に提案するようになってきています。2001年を境に、知財を含めて、世界貿易をめぐる風向きががらりと変わってきたのです。ドーハラウンド閣僚会議があった2001年は、9.11の同時多発テロもあり、米国の途上国に対するスタンスが大きく変わった年でした。かつての米国はどちらかというと途上国支援に消極的でしたが、この年を境に「途上国の貧困解消なくして米国の安全保障はない」と考えだしたのです。それが医薬特許、特にエイズ医薬の特許に関して、それまでの10年間と比べてかなり途上国に融和的な閣僚レベルの合意ができた背景にあると思います。

さらに「ドーハ開発アジェンダ」において、途上国のウルグアイラウンド合意実施を支援するための措置として、技術移転促進措置、生物多様性条約、地理的表示をTRIPSに組み入れる議論が活発化しました。

このように、ポストTRIPS協定、特に2000年以降は、知的財産の問題が他の分野で議論されるようになり、途上国やNGOからもさまざまな提起がなされるようになっています。「議論の場の拡散(レジームシフト)」といわれますが、医薬特許に関してはWHO、農業特許に関してはFAO、生命特許や倫理に関してはOECD、著作権に関しては文化多様性に絡んでUNESCOといったように、さまざまな機関への働きかけを通じてWTOのルールを緩和する動きが出てきています。

その背景として、前述のように、知的財産に関するTRIPS交渉が成功したために、交渉カードとしての知的財産の価値が非常に高くなってしまったことと、知財の保護範囲が空間的に非常に広がったために、従来は関係性が少ないと思われていた倫理、人権、農業、環境などの分野と新たな抵触関係ができてしまい、論点の錯綜を招いてしまったという状況があります。基本的な価値観を異にするものが一緒になってしまったがために、調整がつかなくなってしまい、結果、WTOを含めてマルチの交渉全体が暗礁に乗り上げてしまったのです。

そうした状況から、最近では主に2つの流れが健在化しています。1つは、ハードローからソフトロー(CBBボンガイドラインなど)への流れ。もう1つは、多国間から二国間・複数国間(FTA、TPP、ACTA)への流れです。この流れは必ずしも一方的ではなく、そこから多国間のハードローに還元する動きが出てくる可能性はありますが、いずれにしても、ルールづくりの多様化がいえると思います。かつては政府が国内の意見を集約して、それを国際的な場に持っていって、そこでの結果を国内に持ち帰って調整をするというプロセスでしたが、いまやプレーヤーは政府だけではありません。これからの国際交渉においては、政府と企業と大学とNGOが意見を交換しながら柔軟に政策を形成していく、オープンで価値多元的かつ分野横断的で発展的なアプローチが求められていると思います。

質疑応答

Q:

ハードロー、ソフトローの先に、ソフトの無償提供など純粋な協力関係があると思います。むしろソフトローといっても、協力に近い形のものが成功していて、ハードローに近い形のものはあまり成功していない、むしろそうしたソフトローは知財の規範形成には殆ど寄与していない印象です。また、各国の特許制度の調和もこれからの課題です。

A:

私も成功例としては日米特許審査ハイウェイしか思いつきませんが、これもお互いの利益が明らかに見えていたから実現したものです。ガイドラインはもともと妥協的なものです。それ以上踏み込んだルールを作ろうと思うと、やはり共通の利害を持つ数カ国、おそらく先進国同士で集まってスタートするのが現実的と思われます。それに新興国を中心に途上国を段階的に取り込んでいくのが、日本にとっても最も望ましいと思われます。特許制度の調和についても同様のことがいえると思います。

Q:

最近の中国と東南アジア諸国の模倣の問題は、やはりエンフォースメントの問題が根本にあると思われます。国を超えたリージョナルあるいは世界共通の単一特許機関ができるのが将来的には望ましいのではないでしょうか。

A:

たしかにエンフォールメントに関しては、TRIPSでは深堀ができませんでした。それは、各国の民事・刑事の法律にも関係し、調整が困難であったからです。世界共通の単一の特許機関ができれば、多国籍企業にとっては理想的ですが、これには数十年以上かかると見られます。というのも、言語と司法の壁が非常に大きいからです。統合が進んだ欧州ですら、単独の特許機関の設立については、手続言語が英・仏・独ということにイタリアとスペインが反発し、いまなお実現に至っていません。

Q:

知的財産の世界がかつての日米欧の3極から日米欧中韓の5極に移行するなか、日本だけが2000年代に入って特許出願件数のシェアが大きく後退しています。今後の世界における日本の知財のあり方とこれからの経済回復について、米国の復活ストーリーと絡めて、お考えを伺えたらと思います。

A:

世界全体の特許出願総件数に占める日本のシェアが減っている分、中国が増えているといえますが、日本企業の特許件数は、国内での出願件数が減っているだけであって、海外での出願件数は減っていません。リーマンショック後も減っていません。かつては国内で出願した特許の一部を海外に持っていくのが一般的でしたが、最近では最初から国際特許として出願するグローバルな知財戦略に企業の方針が変わってきています。これから大事なことは、知財をもっと有効に活用することです。日本企業は多くの特許を持っていても、原告となって争うことは皆無です。この傾向はとりわけ電機メーカーに顕著に見られます。特許をとった以上は、それを使って新しいモノを作って売る、そしてきちんと権利を主張するという考え方に切り替える必要があります。米国が90年代に復活したのも製造業の底力があったからです。知財と製造業の力の両方が必要です。日本も製造業の力をベースに知財活用をもっと戦略的に進めれば、復活できる可能性は十分にあると思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。