【通産政策史シリーズ】ナショナル・イノベーション・システムの変遷

講演内容引用禁止

開催日 2011年6月16日
スピーカー 沢井 実 (大阪大学大学院 経済学研究科 教授)
コメンテータ 福島 洋 (経済産業省 産業技術環境局 研究開発課長)
モデレータ 西垣 淳子 (RIETI上席研究員(兼)研究コーディネーター(政策史担当))
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戦前・戦中・戦後のナショナル・イノベーション・システムの変遷を長期的視野から考える。

取り上げるトピックスは、(1)戦前の軍・官・産・学連携体制の実態、(2)戦時期の科学技術動員と戦後改革・日本占領はナショナル・イノベーション・システムのあり方にどのような影響を与えたのか、(3)技術者の軍民転換の実態と戦後復興期における研究開発体制の特質、(4)高度成長期における共同研究の役割、(5)1980年代以降の通産省におけるナショナル・プロジェクトをめぐる議論などである。こうした歴史的経験の中からナショナル・イノベーション・システムのあり方を検討する。

議事録

※講師のご意向により、掲載されている内容の引用・転載を禁じます

はじめに

沢井 実写真戦後期の日本には「戦後復興」というナショナルゴールが、高度成長期の日本には「キャッチアップ」というナショナルゴールが共通の認識として存在していました。ではポスト高度成長期のナショナルゴールとは何なのでしょうか。本日はこの点を念頭に話を進めていきたいと思います。

戦前の産官学連携の実態

日本の産官学連携を考える上での1つの始点となるのが第1次世界大戦です。

日本は、日露戦争の規模・深度をはるかに超える戦争が欧州で起きている状況をみて、1918年4月に軍需工業動員法を公布します。この法律の考え方は、一言で言えば「徴発から動員へ」です。日露戦争時の日本は主として持てるストックを活用して、つまり徴発物件で戦争を行っていました。しかし第1次世界大戦はストックでは対応しきれません。戦争が長期化する中では、前線を支える銃後で生産を拡大しない限り、戦争を維持できません。そこで、銃後をどう形作っていくかという観点からの「動員」が日本で初めて議論されるようになり、内閣軍需局の設置(1918年4月)へとつながったのです。

また、第1次世界大戦では、航空機や戦車、化学兵器といった新兵器が登場していますが、明治以来の陸海軍の研究開発体制ではそうした兵器に対応しきれなくなりました。そこで、陸軍には陸軍技術本部が置かれ、その下に陸軍科学研究所が設置されました(1919年4月)。航空機に対しては、陸軍航空本部(1925年5月)と陸軍航空技術研究所(1935年8月)が設置され、海軍でも海軍技術研究所(1923年4月)や海軍航空廠(1932年4月、1939年4月に海軍航空技術廠に改称)が設置されました。

戦前期の産官学連携を考えるにあたり重要となるのが、指定メーカーが果たした役割です。たとえば鉄道省は指定工場で生産された鉄道車輛のみを購入し、鉄道省の自工場では修理が専ら行われるという形での棲み分けが行われました。当時の日本では、優等生を選び、そこに資源を集中投入する仕組みの下で、トップテクノロジーの開発が進められたのです。

共同研究の推進も重要な要素です。1922年に鉄道省が組織した車輛研究会には、鉄道関係者のほか、民間の指定工場、満鉄、台湾・朝鮮官設鉄道、地方鉄道、電気軌道関係者などが参加していました。研究会では1~2年スパンでの研究課題が設けられ、研究成果を年2回の会議で報告し、可決された成果をすぐに実行に移す仕組みが整えられました。これは、戦前の日本の鉄道車輛技術をアップグレードする上で有効な方策でした。航空機に関しては風洞水槽研究会が同様の機能を担っています。

戦時期の科学技術動員

戦時期には陸海軍が急膨張し、それに応じて陸海軍に所属する試験研究機関も急拡大しました。

陸海軍は、特定の大学の教員や機関を研究分所、研究分室として囲い込む形で科学技術動員を行います。そうした中、企画院で科学技術新体制の議論が活発に行われるようになり、1941年5月27日には科学技術新体制確立要綱が閣議決定されます。それまでの科学技術行政は商工省、文部省などの各機関により部分的に進められ、政策全体を統括する機関が欠けていました。そうした状況の是正を狙ったのが同要綱であり、このときに初めて「科学技術」という熟語が日本語に生まれました。科学と技術の一体化を図る中で新しいナショナル・イノベーション・システムを作り上げる意図が込められたのです。こうした動きを受け、技術院が1942年2月に開庁となり、戦時中の特許行政や規格統一は技術院が専ら担当することになりました。

産学共同研究が盛んになったのは戦時中の重要な動きです。日本が持てる資源が戦争相手国に比べ劣ることは自明の理です。そうしたとき、日本ができるのは、今ある資源を組み直すことです。組み替える、つまり共同研究をすることで、資源制約を突破しようとしたのです。共同研究は大日本航空技術協会や研究隣組といった場で進められ、同様の場は、戦時研究員制度や学術研究会議、日本学術振興会によっても提供されました。こうした共同研究の経験は、戦時期が戦後期に残した重要な遺産の1つとなりました。

戦後復興期のナショナル・イノベーション・システム

戦後、米国の占領下に置かれた日本では、陸海軍試験研究機関が解体され、軍事研究が禁止となります。

GHQは、日本は基礎研究に力を入れる状況にはないと考えました。戦後復興を急がなければならないため、まずは応用研究に力を入れるべきだと考えたのです。文部省を中心とした研究費配分が是正されたのもそのためです。昭和20年代には大阪府立工業奨励館や大阪府立産業能率研究所のような公立の試験研究機関、いわゆる公設試が決定的に大きな役割を果たしました。

科学技術者の軍事部門から民間部門への大移動が戦後に起きたというのも大切な点です。陸海軍に勤務していた科学技術者は、主要な民間企業に、あるいは、国鉄、建設省、鉄道技研といった国立機関に移ることになりました。そうした人の中から新幹線技術が生まれたというのは有名な話です。兵器開発に従事した研究者が通産省の機械試験所に移り、カメラや時計の技術指導にあたるという事例もありました。

戦後、特に戦後復興期には、時計、ミシン、自転車といった「軽機械」の開発が盛んに叫ばれましたが、機械試験所をはじめとする国立研究機関は軽機械の研究開発に大きく貢献しました。

1950年代のナショナル・イノベーション・システム

そうした研究のための資金については、日本学術会議が1949年9月22日付で「工業技術開発金庫について」を内閣総理大臣に申し入れ、工業技術開発金庫から研究資金を供給する構想が提案されました。

運輸省の造船関係については、甘利昂―運輸省船舶局長が1951年12月4日の造船技術審議会で「戦前海軍に依存していた様な気分で造船能力を維持しようとする事は勿論不可能で、輸出船建造以外に途は考えられない」と発言し、その4~5年後に日本はブロック建造法という技術に支えられる形で世界一の造船王国に駆け上がっていきます。ここでも、ある種のナショナルゴールは明確だったと思います。

当時の日本では、雇用を維持しながら「中進国」日本が向かうべきは労働集約的な軽機械・機械の輸出ではないかとの考えに基づく政策が次々に展開されました。

1950年代、日本はモデルとして米国のほかに英国にも目を向けていたようです。英国では研究組合(Research Association)という制度が第1次世界大戦の頃からあり、さらに第2次世界大戦後には、科学と産業を架橋するものとして新技術開発公社(National Research Development Corporation)が設立されていました。日本はこれらに注目し、政策成果に均霑することが難しいとされていた中規模企業を対象とした、研究組合という共同研究の仕組みが必要であると考えるようになりました。そこで、鉱工業技術研究組合法が制定され、新技術開発事業団が誕生することになります。このようにして日本は高度成長期へと向かうこととなりました。

おわりに

戦時期の経験は戦後の日本に何をもたらしたのでしょうか。1つには、産官学の垣根が低められた点を挙げることができます。また、戦時中には、高等教育機関の拡充を通して、高度成長期が必要とする人材の供給システムが作り上げられていました。とはいえ、水準の高い軍需技術が民間部門に普及していったという理解は単純すぎます。遺産が遺産として正当に継承されたのは戦後改革という大きな変化があったからです。これは見落としてはならない大切な点です。

戦後復興期から高度成長期にかけて、ナショナル・イノベーション・システムの統括者としての役割は、鉄道技術研究所や電気試験所、あるいは機械試験所といった国研がその一部を担ってきました。同時に、民間企業は、自主開発、技術導入、共同研究といったさまざまな手段を組み合わせつつ、技術的立ち後れの挽回という目標に向かって邁進しました。

その作業が一段落したのが高度成長期の終盤で、ポスト高度成長期には民間企業での研究開発活動が活発になり、1980年代後半には第2次「中研」ブームが起こるようになりました。1980年代の特徴として、ナショナルプロジェクトの比重が1960年代に比べ低下し、サンシャイン計画やムーンライト計画といった野心的計画の切迫性も石油価格との連動によって規定されていた点は否めません。

日本は1980年代以降、フロントランナーになっているわけですが、フロントランナーには見るべき師匠の背中がありません。その不確実性を引き受けることを鼓舞する産業技術政策の条件の1つに、プロジェクトの「失敗」に寛容で(それが具体的に何を意味するのかは別の議論として)、失敗した者に次の機会を与えることのできる制度設計があります。また、研究資金の受け手の側からいえば、マルチファンドはありがたいですが、マルチファンドではマルチファンドであるが故に研究を自主的に進めていく動機と研究資金の獲得が無理なく結びつくことが難しい場合もあります。マルチファンドに関してはこの問題の解決が求められています。さらに、研究組合の政策意図は中小企業間の共同研究の活発化にありましたが、現実に担ってきたのはナショナルプロジェクトの受け皿としての機能です。改めて、中小企業政策の枠を超えた中小企業間の共同研究のあり方、あるいは中小企業による不確実性の受け入れを支援する政策のあり方を考えるべきです。

大震災を経た現在は、「第1の開国」、「第2の開国」に匹敵する開国・建国の時期です。今こそ、日本がどのようなナショナルゴールを設定するべきなのかを考える必要があります。

コメント

福島 洋写真コメンテータ:
リーマンショック以降の日本の研究開発では、民間企業による支出が8割を占め、残りを国が占めるようになっています。企業の研究開発の約9割は既存技術の改良に充当され、国が俗に言う長期的研究開発への支出は1割にも及んでいません(2010年に約700社に対して行ったアンケートでは4割以上の企業で短期的研究開発が増加)。

そうした中での国の技術政策に関しては、予算の制約もあり、「失敗」に寛容な政策がとりにくくなってきており、国の研究開発プロジェクトでも小粒化、近視眼的傾向が強まっています。とはいえ、長期的な研究開発への投資の額をみると、国の負担割合が企業の支出を上回るなど、10~20年後の産業を担える政策の決め手は国となっています。

欧米の技術へのキャッチアップが目指された大型工業技術研究開発(大プロ)は総じて成功を収めたのではないかと考えています。医療福祉機器技術研究開発でも現在の少子高齢化を見越した研究が行われ、材料等の新しい研究が必要との認識に立った次世代産業基盤技術開発も進められてきました。産業科学技術研究開発では、基礎研究ただ乗り論を背景に、官民ともに、基礎的・独創的研究を加速してきていましたが、なかなか産業に結び付けることができませんでした。2000年に通産省が経済産業省になって以降は、研究政策自身、足の短めな研究開発プログラムへとシフトしてきています。

エネルギー分野では、新エネルギー開発(サンシャイン計画)と省エネルギー技術開発(ムーンライト計画)が推進されました。これらの取り組みでは、計画が比較的長期にわたっているということに加え、政策的にも導入補助金が付けられたり、省エネ法が制定されたりしたこともあり、エネルギー政策と研究開発の一体的運用が一定の軌道に乗っています。

今後については、国としての明確なメッセージ、産業界でのユーザーの巻き込み、出口戦略(産業政策との一体性)といったことについて、どういった産業政策が望ましいのかを、過去の研究や諸外国(欧米、中国、シンガポール等)の政策をみながら検討を進めているところです。

質疑応答

Q:

オープンイノベーションへの関心が強まる中、日本は諸外国、特に中国とどういった関係を築くべきなのでしょうか。

A:

たとえば軍事技術の拡散を防ぎつつ、極東の旧ソ連地域とどう付き合うのかという議論は、1990年代初頭にソ連が崩壊した際に日本でも行われ、国研による研究者の受け入れ等の仕組みが随分と議論されました。日本のオープンイノベーション、あるいは他国との共同研究が長く続かない理由の1つに、言葉の違う国の研究者との間で心底仲良くなれる仕組みがない点が挙げられます。そうした仕組みがない限り、相手との関係はプロジェクトの終了とともに終わってしまいます。中国とどう付き合うのかという問題提起では、国益と国益のぶつかり合いという議論がすぐに沸き起こりますが、その前の段階で、つまり国単位での利益に話を持っていく前に、家族ぐるみで付き合えるような仕組みが現在の日本でどこまで整備されているのかというような問題を1つひとつ具体的に考えていくことの方が先だと思います。警戒しながらの国益の議論に入っても、結論が見えた議論で終わってしまいます。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。