クラウドコンピューティングによる新しい世界 -Smarter Planet-

開催日 2009年12月10日
スピーカー 岩野 和生 (日本アイ・ビー・エム(株)執行役員 未来価値創造事業)
モデレータ 冨田 秀昭 (RIETI研究コーディネーター)

議事録

企業が今日抱える問題

岩野 和生写真「ムーアの法則」の予言通りに集積回路密度が1年半毎に倍増してきた結果、コンピュータの性能は法則が提唱された1965年当時と比べて80億倍も向上しました。それはコスト(=価格)が80億分の1になったことを意味します。コモディティ化と価格破壊を受けて、IT業界ではサービス化への移行が進展しています。また、ITインフラ全体が複雑化した(complexity)結果、(1)メンテナンス負荷の増大と(2)予測不可能性・不透明性という課題が顕著化しています。

IBMの新しい取り組み

1.自律型コンピューティングと分散型システム
IBMは2001年に「オートノミック(自律型)コンピューティング」というコンセプトを提唱しました。個々のコンピュータでは対応しきれない複雑な事象を部署単位で自律的に管理するという考えです。具体的には、コンピュータが一定のポリシー(knowledge)に基づいて外界の状況を自動的に判断し、アクションを起こしていく社会をイメージしています。すべての物理的コンポーネント(人間を含む)やデジタルコンポーネントの自律的な目的達成と離合集散を可能にする、「フェデレーテッド(分散型)システム」が最終的な目標です。当初は主に企業内での適用を想定していましたが、ここにきて地球全体の問題がにわかに緊急性を帯びてきたため、それに対する解として「Smarter Planet」というコンセプトを2008年11月に発表しました。

2.データ量増大と社会的アカウンタビリティへの対応
IBMは2012年までにスパコン SEQUOIAをローレンス・リバモア国立研究所に納入する予定です。計算速度は20P FLOPS(2万兆回/秒の計算処理速度、人間の頭脳は10P FLOPSといわれる)です。また、300億個以上(1人当たり5個以上)のタグを通じて、人間だけでなくシステムそのもの(全体系)やありとあらゆるものがサービスの受け手や発信者となる時代が来ます。さらに、データ量が爆発的に増えるため、データ利用とそれに関するガバナンスがますます重要となります。人類有史以来のデータ蓄積は、コンピュータ以前は20EB(エクサバイト、1EBは10の18乗)といわれていますが、2011年までに1800EBにまで膨らむ見通しです。

IBMが毎年おこなっているCEO Studyで世界のCEOに「これからの企業・組織にとっての存続条件は何か」と聞いたところ、データ管理、サービスのアカウンタビリティ、気候変動問題への取り組みといった「社会へのアカウンタビリティ」が非常に強調される結果となりました。

Smarter Planetで目指す世界――インフラ融合による「全体系」の管理

インターネットの進化によって、物理的、デジタルを問わずありとあらゆるコンポーネント(要素)が情報の発信源となる世界が誕生します。人、モノ、カネ、ソフトウェアなど、つまり森羅万象が動的にネットワークを作って活動する結果、それらの流れをリアルタイムに捕捉するだけでなく、社会やビジネスの価値観や目的に応じてデータを解釈・最適化することが可能となります。そのことは、社会生態系、ビジネス生態系など「全体系」に対して影響を与えることを意味します。物理インフラとデジタルインフラの融合が実現することで、さまざまなサービスの提供の可能性が開けてきます。

米政府も2005年以降、CPS(Cyber Physical Systems)というイニシアティブの下、こうした物理世界とサイバーの世界の融合に大規模な投資をしています。働き方や生活の方式が変わる中で、新しいインテリジェンス、すなわち社会的アーキテクチャー・サービスを提供する仕組み「ダイナミックインフラストラクチャー」としての役割を、クラウドコンピューティングが担っていきます。そうして、水、電力、交通網などのあらゆる物理的インフラがセンサーネットワークを通じて相互に影響を与える仕組みができつつあります。

どのような社会を目指すかという「価値観」は社会全体で決めるものですが、それ以前に世の中には無駄と非効率が数多く残っています。たとえば、データセンターは100投入したエネルギーのうち冷却に50を消費し、計算には3しか使わないといわれています。電力に関しても、特に米国は送電系統の問題から40~70%の電力が送電中に失われています。小売業のサプライチェーンでも、情報伝達の不備による機会損失が北米だけで9.3兆円に上ります。渋滞による社会的損失は日本だけで38億時間、GDPの2%に相当します。すべての車のカーナビが同じ迂回経路を指定すると今度は迂回経路が渋滞してしまうという例からも、全体系の管理がいかに難しいかがわかります。

Smarter Planetの先駆的事例

1.電力(スマートメーター)
イタリアENEL社はスマートメーターを3000万世帯に配備し、家庭内の電力使用量データを15分毎に携帯電話網を通じてホストに送信しています。将来的には、家庭内の家電製品使用状況がすべて捕捉できる予定です。電力使用パターンの分析から柔軟な料金プランを設定し、ピーク時間の使用量を5%シフトすることで沖縄全体に相当する電力が節約できます。また、Energy Orbなどを通じて各家庭にリアルタイムで料金帯を通知して節約を呼びかける試みが各社で行われています。

マルタ共和国では、国全体の電力と水をスマートメーターで管理する試みを今年2月から構築にむけてプロジェクトが開始されました。生活用水を海水の淡水化で供給しているため、電力管理は水管理にもつながります。

2.港湾・河川管理
アイルランド政府とIBMの共同事業として、ガルウェイ湾にセンサー群を設置し、水質やプランクトン量や流れの速さといった情報をリアルタイムで収集し、全体系をコントロールする試みをしています。情報が流れるまま処理する技術「ストリームコンピューティング」は、情報を瞬時に判断してアクションを起こす必要がある株取引などでも使われます。

3.都市
2050年には世界の人口の70%が都市に住むと言われています。都市がある一定の価値観によって運営される時代がもうすぐ来ます。その先駆的な取り組みとして、Smarter Cityというコンセプトが世界各地で展開されています。治安、教育、電力、水、文化、交通といった都市機能を、その都市の価値観に応じてセンサーネットワークでつなげ、最適化を図る世界が現実となりつつあります。

たとえば、IBMの箱崎オフィスビルには約1万人が働いていますが、電力使用量は従業員数が4000人だった10年前よりも半減しています。また、CO2排出量をリアルタイムで可視化する試みを通じて、日本IBM全体として1990年度比 66%CO2の排出削減を実現しています。

東京都では来年から1300の大規模事業所でエネルギー管理が義務化されますが、その際にもSmart City技術がベースとなります。米国でもコロラド州ボールダー市で風力発電、太陽光発電、電気自動車などを連携したスマートグリッドを運用する実験的試みが進行中です。他にも、アラブ首長国連邦・アブダビにおけるカーボンフリー都市の構築(投資総額2兆円)があります。一方、渋滞課金を導入したストックホルム市では、センサー群を使って市内に入る車種や量を把握しています。これは都市の価値観として住民投票でもって共有した上で実施されています。このように、どのような価値観を目指すかによってセンサー群の利用方法も変わります。

こうした都市運営を支えるものとして、多様なワークロード(コンピュータに対する負荷)に応じた最適化されたシステムデザインが必要ですが、それを可能にする社会インフラ・社会サービスがクラウドコンピューティングなのです。

クラウドコンピューティングがもたらすパラダイムシフト

クラウドコンピューティングは今日の日本では専らグーグルやアマゾンといった限定的なコモディティ化された限られたアプリケーションを安く早くスケーラブルに使う点が強調されがちですが、実は社会的・ビジネス的な「仕組み」を変える、すなわち新しいパラダイムシフトを起こすものとして米国では注目されています。コモディティ化されたアプリケーションを早く安く使う発想からは出てこない世界です。2014年にはIT投資の66%はクラウド化するという推計もあります。人々がクラウドサービスを買うようになると、SIer(システムインテグレーター)などの仕事は殆ど無くなります。クラウドにはこうした産業構造転換的なインプリケーションもあります。

過去にも、電話会社、製造業、銀行においてそれぞれ自動交換機、ロボット、ATMが導入されたことで、効率化・コスト削減とサービスの均質化が実現しましたが、同様の動きがITサービスでも起きるといわれています。先進国経済の70%を占めるサービス業の工業化――その流れの中でクラウドコンピューティングがITサービスのデリバリーの工業化を担うといえます。そのパラダイムシフトの焦点となるのが、サービスや業務プロセスの標準化です。今でもグーグルやアマゾンのような「パブリッククラウド」はありますが、それらとより個々のニーズに応じた「プライベートクラウド」との使い分けが重要となります。

全体として世の中が「作る」方向から「使う」または「シェアする」方向にシフトしています。1990年代以降、クライアントサーバーモデルが非常に流行り、PCやワークステーションの性能が飛躍的に向上しましたが、2000年代に入って設備とデータの量が飛躍的に増え、複雑性が増した結果、セキュリティ、データ・サービス管理といった新たなニーズにメンテナンスが追いつけない状態となっています。「持つ」ことのリスクに企業が耐えられなくなっているのです。その解が、クラウドコンピューティングです。その本質は仮想化、標準化、自動化となります。リソースを仮想化して効率よく共有化すること、業務プロセスを標準化して、それを標準化されたクラウドサービスとして、それをATMのように自動的に配備し、コストを削減するとともに、サービス品質を自動的に担保するのです。

クラウドは、戦略的提携のほか、ガバナンスや社会に対するサービスのアカウンタビリティを担保する上で鍵を握るツールとなります。従って、導入の際にはその戦略性を踏まえたロードマップが非常に重要となります。

クラウドは、ある種の得意分野(sweet spot)に導入すると、顕著な時間とコストの削減が実現します。その例がウェブアプリケーション、コラボレーション・ツール、開発・テスト環境などです。特に開発環境に関しては、これまで価格などの理由で世界標準ソフトウェア開発ツールが使えずにいた中小企業などがクラウド環境を使うことで産業全体のR&Dレベルが飛躍的に向上します。また、ガバナンスの観点から構築する「デスクトップクラウド」は、ノースカロライナ州立大学のほか、各国の金融機関などでも導入されています。さらに、クラウドコンピューティングにはリソースを「シェア」する機能があります。たとえば、スパコンはこれまで利用できる人が極めて限定されていましたが、クラウド環境を使うことで多くの学生がコンピュータサイエンスだけでなく宇宙工学などの実験に携われるようになります。

クラウドコンピューティングの今後

今日の主流は限定的なアプリケーションを安く早く使う「パブリッククラウド」ですが、これからは高いセキュリティ要件でヘテロなワークロードをサービスし信頼性を担保する「プライベートエンタープライズクラウド」(企業内クラウド、企業グループ・業界クラウド)もますます重要視されると見ています。そうして産業界の仕組み自体を変えていく、共有サービス化する動きが現に起きています。その例がサプライチェーン横断型の廃棄物管理やCO2削減管理です。クラウドによって標準的で均一化された質の高いツールやプロセスを皆が使えるようになると、それらを組み合せる新しいサービスが誕生します。クラウドコンピューティングは新たな時代の人材育成にも非常に向いていますし、国や社会のレベルで地域の価値を高める共通基盤の構築も可能するなど、さまざまな可能性を秘めています。

Smarter Planetについて冒頭で述べましたが、物理的インフラとデジタルインフラが融合した世界で社会サービスを展開していく動きがこれから一挙に起きてきます。それに応じてクラウドの新しい発展形態も出てきますが、その際にアカウンタビリティやガバナンスを担保できるサービスレベルマネジメントの技術が鍵になってくると見ています。

質疑応答

Q:

「専有」から「共有」への流れが1つの大きなテーマとなっていますが、そのあたりの制度・ものの考え方がバリアとなっている印象です。たとえば、霞ヶ関クラウドの構想が出ていますが、むしろすべての自治体と省庁を統合するオールジャパン・クラウドが必要ではないでしょうか。クラウドといっても、今のところ個別のデータセンターに留まっている印象です。そうしたことも踏まえて、クラウドコンピューティングがもたらすパラダイムシフトについてもう少し詳しく説明していただけますか。

A:

「共有エコノミー」という面で、ITリソースの仮想化やサービスの標準化・自動化は世の中の動きにかなり連動しています。つまり、クラウドコンピューティングはクラウド的な発想で世の中の仕組みを整理する動きとセットになっているといえます。

実をいうと、クラウドコンピューティングは、2003年以降のグリッドコンピューティング(仮想組織を作って組織横断的にサービスを共有化する仕組み)とサービスオリエンテッドアーキテクチャー(会社・業務を標準化し、コンポーネント化し再構成する仕組み)から連綿と続く「仮想組織」の流れの延長にあります。ビジネスプロセスのコンポーネント化という考えが定着したところで、今のクラウドコンピューティングによるサービスの自動化が起きています。それがさらに発展したところに、Smarter Planetによる物理的世界とデジタル世界のコンポーネント化とそれらの融合があります。そうしたパラダイムシフトに至る流れが日本では抜け落ちている印象です。

パラダイムシフトが起きるかは、社会を成り立たせているサービスの仕組みをいかに整理するかにかかってきます。その意味で、クラウドコンピューティングは政策運用者次第で上手く誘導できる分野ともいえます。

Q:

クラウドコンピューティングの時代が求める人材像とは。大学にはどういう役割が期待されるでしょうか。

A:

クラウドの「プロデューサー」的機能を担う人材、社会デザインができる人材が必要です。そこでは価値観というものが非常に鍵となるため、哲学などを含めた教養ないし素養が問われます。異なる価値を結び合わせる上ではコミュニケーション能力も非常に重要となります。さらに、サービス化する社会においてサービスの本質を理解する人物が必要です。日本人はSaaS(Software as a Service)といった目に見える、わかりやすい、または使い勝手の良い分野にすぐ飛びつく傾向がありますが、それらのサービスを成り立たせている要因を見る感覚を養う必要があります。また、日本のエンジニアが世界に通用する人材となるよう、国内にアカデミッククラウドを設けることも考えるべきです。そうして、世の中の動きを捉えられる肌感覚を持つ人材を育成するのが大切と考えます。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。