最低賃金は有効な貧困対策か

開催日 2009年9月9日
スピーカー 川口 大司 (RIETIファカルティフェロー/一橋大学大学院経済学研究科准教授)
モデレータ 鶴 光太郎 (RIETI上席研究員)
ダウンロード/関連リンク

議事録

民主党のマニュフェスト

川口 大司写真民主党はマニュフェストで最低賃金の引き上げを公約に掲げています。具体的には、「最低賃金の原則を『労働者とその家族を支える生計費』」とし、「全ての労働者に適用される『全国最低賃金』を設定(時給800円を想定)する」、全国最低賃金を超える額で各地域の地域最低賃金を設定する、「中小企業における円滑な実施を図るための財政・金融上の措置を実施する」ことなどを約しています。地域最低賃金は3年程度かけて段階的に引き上げ、全国平均を時給1000円にすることを目指しています。

現状と政策的議論

現行(平成20年10月8日)の最低賃金は東京で766円、青森で630円、沖縄で627円となっています。最低賃金は地域の賃金格差を反映する形で決められていますが、近年になって最低賃金が低すぎるのではないかとの議論が活発に行われるようになっています。

2008年7月1日から施行されている新最低賃金法では、最低賃金で一定時間働いている人の所得が生活保護を受けている人の所得を下回ることが問題視され、生活保護の基準額との整合性を保つ形で最低賃金を改定する必要が述べられています。このような形で最低賃金引き上げのための法的枠組みは既に整えられています。

最低賃金の引き上げを貧困対策とすることに関しては古くから論争があります。最低賃金とは価格の統制ですが、Stigler(1946)をはじめとする多くの経済学者は、価格操作で資源配分に影響を与えることに強いアレルギー反応を示しています。労働価格である賃金の床を決める政策が望ましくないとされる大きな理由としては、(1)最低賃金労働者の多くが中所得者以上の世帯員であること(典型的には主婦のパートタイム労働者や大学生のアルバイトなど)、(2)最低賃金の引き上げは中小企業の倒産件数増加につながり、結果として雇用の減少をもたらすこと――の2点がStigler (1946)により指摘されています。

他方、日本では最低賃金は市場の賃金に比較して低すぎるので、そもそも関係ないのではないかという意見があります。ただこれは東京都にかなりのバイアスのかかった見方で、実際、沖縄県や青森県の最低賃金は沖縄県や青森県の賃金水準を考えるとかなり高く設定されています。そのため、沖縄県や青森県では最低賃金または最低賃金の近傍で働いている人が多くいます。

Kambayashi, Kawaguchi and Yamada(2009)は1994年から2003年を対象に、最低賃金と賃金分布の関係を賃金センサス個票を用いて検証した研究では、東京に関しては、1994年、2003年共に、最低賃金は賃金分布にひっかからないところで設定されています。従って東京での観察を基にすれば、ファストフードのアルバイト店員でも最低賃金(766円)を上回る時給をもらっているので、最低賃金はほとんど関係ないというのは正しい議論になります。しかし、青森の場合、2003年の時点で最低賃金で働く男性労働者の数(正規+パート)は無視できる大きさではありません。同様に、青森の女性労働者についても、1994年時点で、最低賃金の近傍で働く人は非常に多く、2003年に至ると、最低賃金がかなりの割合で賃金決定に影響を与えていることが明かになっています。

こうした賃金分布の研究からは、日本では最低賃金が政策的役割を果たしていることが明らかとなりました。次に、その最低賃金が貧困対策として望ましいのかについてKawaguchi and Mori(2009)の共同研究の事例から実証分析を進めていきたいと思います。

最低賃金労働者になりやすいのは?

最低賃金以下で働く労働者が就業者数に占める割合(最低賃金労働者比率)を「就業構造基本調査」のデータを使ってみてみました。対象年は1982~2002年、対象は約44万世帯、15歳以上、約100万人を対象としたマイクロデータです(不規則に働く労働者はサンプルから脱落(約12%)、自営業者、内職労働者は除外)。

データ収集の制約上、得られた数値には誤差がありますが、大きな傾向として、中・高卒、女性、若年・高齢者層、地方で働く労働者、卸売・小売業、飲食店・宿泊業で最低賃金労働者比率が高くなっていることが明らかとなりました。また、ほとんどの層で1982~2002年の期間に最低賃金労働者の割合は増加しています。これは日本が貧困化したからではなく最低賃金水準が過去20年の間に増加したためと考えられます。

誰が最低賃金労働者か?

日本は欧州と非常に似た政策課題に直面していますが、その前提は少し異なります。

最低賃金労働者のうち、年収200万円以下の貧困世帯の世帯主の割合は約10~14%とさほど高くなく、むしろ、最低賃金労働者の半数近くが年収500万円以上の中・上位所得世帯の世帯員であることがわかりました。最低賃金上昇の恩恵を受けるのは必ずしも貧困世帯の人々ではなく中所得以上の世帯の配偶者や子供であることの方が多いようです。このことから最低賃金は貧困層のターゲティングとしては適切ではない可能性が示唆されます。

また、最低賃金労働者には低学歴労働者や中高年女性労働者が多いこともデータから読み取れました。

最低賃金と雇用

最低賃金が貧困層をよくターゲットした政策でないとしても、最低賃金の引き上げにより雇用が失われないのであれば、それは有効な貧困政策であるという可能性は否定できません。では最低賃金の上昇は雇用の喪失につながるのでしょうか。

理論的には、最低賃金の上昇が雇用の喪失につながることはなく、むしろ、雇用が増加したり維持されたりする可能性はあります。カギとなるのは労働市場で労働者に交渉力があるか否かです。たとえば同じ労働市場の中に雇い主が多くいる場合は、相場より安い賃金で人材を雇用しようとしても、誰も集まってきません。そうした状況では最低賃金の上昇が雇用の喪失につながります。

他方、雇い主の方により強い賃金交渉力があって、労働者の選択肢が限られている状況では、雇い主は雇用の量を縮減することで低賃金で人材を雇用できるようになります。賃金を上げないと人をたくさん雇えない状況では、逆に、雇用の量を減らすことで賃金を下げて、労働コストを下げることができる可能性があります。そうした状況で最低賃金制度が導入されると、雇用主は雇用の量を減らして賃金を下げることができなくなるので、雇用の量を減らすというインセンティブはなくなります。ですので、最低賃金を上げるとかえって雇用が増えるという一見不思議な現象も理論的には起こり得ます。

米国のNeumark & Wascher (2008)は特定の産業や州を対象にしたケーススタディ的研究から労働市場全体への影響を結論付けるのは危険とし、長期パネルを用いて適切なモデルで分析した研究では最低賃金は雇用に対して負の効果をもつ傾向にあると結論付けています。一方、Card & Krueger (1994)は最低賃金が上がっても雇用は必ずしも失われないと主張しています。このように米国でもさまざまな研究がなされおり、議論はまだ決着していません。

日本での研究でも確定的な結論は得られていませんが、Kambayashi et al. (2009)が1997~2002年の県別パネルデータを用いて行った分析では、最低賃金が増加すれば中年女性の雇用が減少するとの結果が出ています。Kawaguchi & Yamada(2008)は消費生活に関するパネル調査を用い、最低賃金の影響を受ける個人は次の年の就業率が有意に下がることを示しました。

これら先行研究の対象年をより長くし、サンプル数を100万人単位まで拡大した調査で回帰分析を行った結果、以下の点が明らかとなりました。

最低賃金の上昇は、
1. 男性若年労働者の雇用に負の影響を与える。
2. 既婚中年女性の雇用を減少させる。
3. 男性・女性高齢労働者の雇用には影響を与えない。

こうしたことから、最低賃金は必ずしも望ましい貧困対策ではないということができます。

何が望ましい貧困対策なのか?

では、何が望ましい貧困対策なのでしょうか。まずは貧困世帯を政府が正確に把握し、貧困世帯に対してピンポイントで所得移転を行うことです。問題はどういう形で所得移転を行うかです。現在の生活保護制度はインセンティブ設計上問題があります。というのも、収入が最低生活費に満たない部分を保護費として支給する制度では、収入が最低生活費以下にある限り、収入が減少しても手元に残るお金に変わりはないからです。

一方、勤労所得税額控除を上手く設計すれば、実質的な賃金補助を行うことが可能になります。そうすれば賃金率を上昇させることで就労のインセンティブを刺激することができるようになります。実際、米国や英国では貧困対策としての勤労所得税額控除の成功事例が報告されています。ただ、労働供給が増加することで賃金下落の圧力がかかるため、政策効果が労働者ではなく、賃金コスト節約を通じて企業に帰着する可能性がある点には留意すべきです。

BBLセミナー写真

質疑応答

Q:

英国では最低賃金の水準が引き上げられていますが、失業率は相対的に低くに抑えられています。この点についてどうお考えですか。また、民主党のマニフェストにあるような財政・金融上の措置を最低賃金の引き上げと共に実施することの経済学的意義はどこにあるのでしょうか。

A:

Neumark & Wascherが行った国際比較では、最低賃金の水準を平均賃金で割った数値が高い国で若年層の失業率が高くなる結果が出ています。ただ、国際比較で難しいのは、規制の強さや賃金決定の方法が国により異なる点にあります。実際、Neumark & Wascherは最低賃金の水準と雇用の関係は、そういった制度との関係によって変わってくることも指摘しています。おおざっぱに言えば、Kaiz指標の高い国の若年雇用率は低いことが指摘されています。

2000万円程度の中小企業対策費を最低賃金の引き上げとセットにするという民主党の政策が報道されていますが、最低賃金の引き上げに伴う労働市場の歪みを所与のものとすれば、そういった政策を正当化することも可能だと思います。ただ、望ましいのは、最低賃金をそれほど引き上げず、金融・財政措置でも市場を歪めるようなことはしないことです。中小企業に対する金融・財政措置では、中小企業に流れる資金がどこかから取られていることになるので、その部分で資源配分の歪みが生まれています。労働市場と資本市場の設計を同時にして、最適化を目指すのはなかなか難しいのではないでしょうか。

Q:

英国の最低賃金の引き上げには、生活保護世帯に労働インセンティブを与えるという政策目標があるのだと思いますが、民主党が公約に掲げるような形で最低賃金を上げた場合、同じような効果を期待できるのでしょうか。

A:

労働インセンティブへの刺激として最低賃金を引き上げることはあり得るとは思いますが、勤労所得税額控除でも、税還付後の賃金率を上げることは可能です。ですので、雇用喪失という副作用を防ぐ観点からは、その部分は税額控除でやった方が望ましいと思います。労働供給が増えたときの賃金率の変化については、労働需要曲線がフラットな状況、すなわち賃金が下がれば雇用が大幅に増えるような状況では、供給曲線が右にずれても賃金率はほとんど変わりません。これはケース・バイ・ケースで、実際にやってみないことには、何が起こるかはわかりません。ただ、労働需要曲線の傾きの大きさに関しては、コンビニエンスストアやファミリーレストランのように、最低賃金労働者が多い産業では、コストに非常に敏感になりながら雇用の量を決定しています。従って、賃金が少しでも下がれば、雇用が大きく増えるといった関係はある程度は予想できます。労働供給が増えれば賃金率が下がるという副作用の影響については、実際はそれほど大きくないのかもしれません。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。