日本の合理性

開催日 2007年9月18日
スピーカー 林 晋 (京都大学大学院文学研究科現代文化学専攻情報・史科学専攻教授)
コメンテータ 中馬 宏之 (RIETIファカルティフェロー/一橋大学イノベーション研究センター教授)
モデレータ 尾崎 雅彦 (RIETI研究コーディネーター)
ダウンロード/関連リンク

議事録

「日本人論」に基づく議論の危なさ

『能力構築競争』の著者、藤本隆宏氏は日本のソフトウェア分野が弱い理由として「日本はインテグラル型製品に強く、モジュール型製品に弱い。ソフトウェアはモジュール型である」と説明しています。藤本氏はまた、日本人は情報を書き込みにくい媒体(自動車の鋼板等)を相手にしたときは強いが、ソフトウェアの媒体(CDやDVD)のように書き込みやすいものを相手にする産業では十分力を発揮できない、と説いています。

しかしこうした説はいずれも「日本人論」に基づく産業論――「日本人は~だからしょうがない」とか、あるいは逆に1980年代によく聞かれた「日本人は~だからすばらしい」といった、変化を許さない議論――であり、私は藤本説とはまた別の見方を持っています。1980年代の「私は日本人である。故に本来的にもの作りに優れている」といった一見心地よい議論も、環境が変われば、「私は日本人である。故に本来的にもの作りしかできない」といった議論に転換する危険も孕んでいます。ダーウィンは「最も強い種は最も能力の高い種ではなく、変化に最も順応できる種だ」といったとされていますが、私はこれを実感しています。

「日本=もの作り」?

日本人は本当に他と比べて本来的かつ格別にもの作りに秀でているのでしょうか。

欧州は、米国が1980年代以降に日本を扱ったのとまったく同じ構図で、18~19世紀に米国を世界の工場として扱っていました。今は日本がそれと同じ構図で中国を論じようとしています。このように変化は継続的に起きていて、日本が永遠に「もの作り」の位置にいる訳ではありません。

「もの作り」と「ソフト作り」を対比する態度にも疑問を感じます。情報産業の中心は今後急速に「ソフト作り」から「サービス作り」に移行するというのがソフトウェア関係者の多くの見方です。

線形から非線形へ

S.Klineのリニアモデル(「科学」→「研究開発」→「営業」→「販売」)と同じ構造を持ったソフトウェアの開発モデルがウォーターフォールモデルです。同モデルは「顧客」が始点と終点にくる円環の形になっていますが、最近になってようやく、「顧客」の次にくる「要求仕様」を誰が書くのかという点が大きな問題となり始めました。このウォーターフォールモデルを批判したのがB. Boehmで、彼のスパイラルモデルは2000年代になってアジャイル(Agile)と呼ばれる方法論に進化しました。スパイラルモデルでは線形開発が螺旋状に繰り返されるのに対し、アジャイルでは、要求とプログラムが、常に動的に変化するネット状の関係で結び付けられています。ネットワークのどこかで矛盾が生じたら、それを修復しながらシステム全体が進化するという形です。

アジャイル方法論

アジャイルとは機械関連の生産工学(IE)や医療の分野からソフトウェアが輸入した言葉で、1980年代に米国が日・独の競争力に注目して行なった研究から生まれた概念です。ソフトウェアに輸入されたアジャイルはアジャイルアライアンス(ソフトウェア開発法の連合)に参集する人たちが信奉する、精神・思想として捉えられています。その中で有名なものを挙げるとすれば、Lean software development、Scrum、eXtreme Programming (XP)、Crystal等があります。

これらはいずれも「日本型思考」に基づきます。たとえばLean software developmentの教本はトヨタ生産法の説明で始まり、Ohno、software kanban、mudaといった言葉が見受けられます。Scrumは野中郁次郎経営学からヒントを得ています。eXtreme Programming (XP)については提案者であるケント・ベック氏が2003年のXP の集会で自分の方法とmudaの考えがどう関係するのかの議論を行なっています。Crystalの提案者は宮本武蔵の五輪の書を引用してソフトウェア作りを説明しています。

現状理解

理論的裏づけは弱く、仮説の段階ですが、私はこうした現状を次のように理解しています。

  1. ソフトウェアは論理的存在である。合理的存在といった方がさらに良い。その合理性には社会学者マックス・ウェーバーの合理性理論における「実質合理性:形式合理性」という一対の合理性が深くかかわっている。ウォーターフォール、アジャイルという流れは、ソフトウェア開発において実質合理性の重要度が増加していることを示す。
  2. この一対の合理性は相補的性格を持ち、特に環境の変化が激しいときは、十分な実質合理性に支えられない限り形式合理性は機能できない。また、実質合理性のみでは巨大システムを動かすことはできない(アジャイルは20名程度以上のチームでは機能しないともいわれている)。
  3. 日本社会は伝統的に実質合理性の発揮に巧みらしい。自動車や家電製品といった比較的安定した「自然物ともいえる形式」を持つ製品の生産に実質合理性が十分発揮されたのが、トヨタ等の1980年代までのケースである。
  4. 日本は形式合理的巨大システムの運用が苦手らしい。これは藤本氏がモジュール型と呼んだものに対応する。一方で「自然に」形式が与えられたとき(すなわち、「そうあるべきだ」という規範に議論の余地がないとき、枠が決まっているとき)に、それを運用することはむしろ日本は上手だが、それは柔軟に実質合理性を発揮するからだろう。
  5. 「合理的形式」を作り上げる、たとえば、神学や哲学のような膨大な思想のシステムを作り上げるということは、日本は弱いらしい。
  6. しかし大野耐一たちがトヨタ生産方式(TPS)という方法と思想のシステムを作り上げたことは確かである。
  7. これらの合理性は実は日本特有のものというよりは、西洋社会も本来持つ、普遍的な合理性の1つであり、明治の開国以来の西洋文明の一要素を日本が完全に消化しきり、さらには「実質合理性の運用に秀でる」というローカルな特性を活かすことにより、それを次の段階にまで進めたのだと理解した方が良い。(ジャスト・イン・タイム(JIT)の大野の実現法は米国のスーパーマーケットにヒントがあった。自働化等のTPSの多くの要素は大野が語っているように豊田織機以来のものであり、戦前の繊維産業は日本を代表する輸出産業、つまり、国際競争にさらされた「近代への窓」であった)。
  8. 日本がソフトウェア分野に弱いことは確かなようだが、その意味を理解し、産業構造、社会通念、自己イメージの改革を推し進めれば、決して弱いままではないだろう。日本にも形式合理的巨大システムを作り上げる能力を持つ人々は存在する。その人たちを育てる(潰さない)努力をすべきである。そのためには「産業構造」の改革も必要だろう。
  9. これらの合理性に関する能力は一種の技術であるが、「理系」、「文系」という分類からすると、むしろ「文系」の能力といえる。現場のチームリーダーたちが強調する情報技術者の能力が「文系」的な文章力やコミュニケーション能力であることは、その1つの現われである。
  10. 中馬宏之氏の「サイエンス型産業におけるイノベーション・プロセス調査」でも同様の傾向が見て取れるように、この傾向はソフトウェア産業のみならず、多くの他の産業でも起こりつつある、あるいは起こる可能性があるらしい。
  11. その理由はまだよく分からない。あるいは、ソフトウェア産業のようなシーケンシャルイノベーション(sequential innovation)、チェインリンクドモデル(chain-linked model)、アジリティ(agility)等を要求する産業での競争力の最大の根源は、急速に消費される製品にではなく、次々と新しい製品を作り出すシステムにあるからなのかもしれない。
  12. そうならば多くの製造業は、むしろ音楽産業や映画産業、教育産業、医療産業、出版業、サービス産業のようなものになっていくのだろう。ソフトウェア産業内部でもその傾向がみえる。米国の現代の花形ソフトウェア技術者の中にはxxxxx evangelistという職名で企業に在職するものもいる(evangelist=福音伝道者。xxxxxは企業が社内外で広めたい技術・アイデアの名前等)。彼らの生活形態は作家や音楽家、医師、弁護士、経営コンサルタント、教育者、あるいは宗教家等に近づきつつある。
  13. そのときには特許等の産業社会の基本的構成要素でさえ無意味になるだろう。Bessen-Maskinの「特許制度がシーケンシャルイノベーションに悪影響を与える」という議論はその現われの1つだろう。

質疑応答

コメンテータ:

形式合理性と実質合理性はコンプレキシティが高まれば必ずしも分離可能ではないという状態も出てくると思います。そういう状態になれば日本も再度勝負にでられる気もしますが、どうお考えですか。また、変化する環境のどういう要因がリニアコンビネーションの規律を変えていくのでしょうか。実質合理性に最も秀でて、それを重視するのが日本人で、その極に位置するのがインドであるという話を以前お伺いしたことがあります。そういった際、われわれは外省的に与えられているものという形で話をします。ところが先程は、それは意外と内省的であったりもするというお話がありました。内省性と本日の話はどのように関連するのでしょうか。

A:

形式合理性と実質合理性は相補的なものです。たとえば法学の場合、ウェーバーは形式合理的な法体系を、「今ある法体系を実質法上も理論上も崩さないで動かすことを志向する態度」と位置付けています。一方、実質合理性は、法を「情」等で柔軟に運用する、つまり皆で共有すべきものを比較的無視する態度とされています。形式合理性と実質合理性の態度、どちらが重要になるかは状況や局面により異なります。私が危惧するのは、日本人には形式合理性が殆ど無いのではないかという点です。

2つ目の質問に関しては状況如何だと思います。日本が「和」や実質合理性を重んじるのは、地政学的な状況、つまり、島国として閉じていて、比較的均一的社会であったという要因が強い、形式が自然法的に存在するからだという説明があります。しかし何も無いところでは形式合理性は、自ら打ち立て、設計するしかありません。現在の状況は、冷戦構造の足かせがグローバル化によって無くなることで、自己増殖的な近代合理性という社会メカニズムの回転速度が増していると理解できます。

最後にご指摘の点に関連して、私は京都の人たちが伝統をまったく捨てていない点、自分たちの生き方が世界の中心だと考えている点に学べると思います。実はそうした人たちの方が変革を容易に行なっています。なぜならば、自己と伝統が一致しているからです。自分のすることが伝統になるからです。かの任天堂や金粉技術をナノテクに応用した会社も京都の会社です。内面的なものは自分が主体的に変わったときに自分そのものになりますし、メンタリティは常に変化するものです。

Q:

日本の法律は形式合理主義(成文法)から実質合理主義(慣習法)までの範囲でどこに位置するとお考えですか。憲法第9条を抱えながら、その規定に矛盾した行動をとる日本社会をどのように判断されますか。

A:

ウェーバーは自身が説く合理性について一般的な定義を与えていません。代わりに、「経済における形式合理性とは」とか「法律体系における形式合理性とは」といった形で説明をして、そこから各自が意味をつかみ取り定義することを求めています。私自身は法律に関してははっきりとしたことはいえませんが、たとえば日本の商法は実質合理主義で業界優先に過ぎるという意見はあります。

私は個人的には自衛隊は憲法第9条違反だと考えています。ただ、自衛隊が存在するのは実質合理的だと思います。ですので、自衛隊を廃止して第9条を堅持するか、第9条を改正するかのどちらかが合理的に正しい立場になります。どちらを選ぶかは民主的な環境で国民が政治的に決定していくことであり、どちらが正しいかは数百年後、歴史的にしかいえないと思います。日本流の「形式合理性」(国民が最低限守るべき憲法や基本法といった形式的ルールを「形式的」には保持していると主張しながら、実質的には全く遵守しないで、末端でうまく動かすという態度)は、この合理的立場に関する判断をうやむやにしてきたことで助長されてきたのだろうという気はします。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。