『日本株式会社』の昭和史

開催日 2007年4月12日
スピーカー 小林 英夫 (早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授)
モデレータ 川本 明 (RIETI研究調整ディレクター)

議事録

日本の将来の方向性を考えるにあたっては、これまでの日本が辿ってきた道、さらに具体的にいえば満州国、あるいは日本の植民地であった朝鮮や台湾での経験や営み、日本人の叡智を振り返ることが重要な仕事になります。我々はともすると、現在の日本は日本国内でのみ発展してきたかのように錯覚してしまいます。しかし過去の歴史を遡り、将来への正しい解を見いだすには、日本のみならずアジア地域にまで視野を広げることが不可欠です。

経済システムについても同様です。東アジアの連鎖の枠で問題を捉えなければ、正しい解は得られません。そこで近年高い注目を集めるようになっているのが、先にも述べた1932~1945年の満州国です。なぜ満州国なのか。1950~1980年代の日本の経済成長を牽引し、推進したシステムを「日本株式会社」と呼ぶとすれば、その原型は満州国にあったからです。そしてその原型にいたるアイデアを生み出したのが、世界でも最大級の国策シンクタンクであった満鉄調査部ロシア班長の宮崎正義です。

宮崎のアイデアは関東軍参謀石原莞爾や商工省の岸信介、大蔵省の星野直樹といった官僚に引き継がれ、さらに、満州での経験は1980年代にいたるまで、戦後復興や高度成長の政策担当者に引き継がれていきました。日本の官僚システムで脈々と受け継がれてきたこうした伝統を考えることなくして、現在の諸問題を理解できるのか、というのが私が投げかける問いです。

「日本株式会社」の起源

「日本株式会社」の起源を語った本には2つあります。1つは野口悠紀雄著『1940年体制』(東洋経済新報社。1995年)です。野口氏は米の配給制度といった、官僚による経済成長政策の起源、すなわち「日本株式会社」の起源を1940年の日本のシステムに見いだしています。もう1つはチャーマーズ・ジョンソン著(矢野俊比古監訳)『通産省と日本の奇跡』(ティビーエス・ブリタニカ。1982年)です。両書共にすばらしい内容ですが、残念ながらいずれも満州国が視点から抜け落ちています。とはいっても彼らを責めることもできません。先にも述べた通り、我々はともすれば、日本のシステムは日本国内でのみ作り上げられてきたとか、あるいは、欧米のシステムの下で発展してきたと信じ込んでしまうからです。本日はそのような落とし穴に陥らないための話をしたいと思います。

1920~1930年代前半の日本

1920~1930年代の日本の状況を概観してみると、間接金融の割合は1935年で約30%でした。1984年でこの数字は96%です。企業の役員構成を見てみると、内部昇進者は1935年で36%でした。1992年では93%です。離職率は1927年で4.3%、1992年で1.5%です。1920~1930年代の日本は、グローバル化、西洋化された経済の中にあったという点で現在の日本と非常に似ています。日本的な伝統や慣習とは無縁の時期で、人は自由に動き、株主の意向で経営者は変わる、株式配当を意識しながら企業経営が行なわれる等、状況は現在ととても似ていました。

1930年代後半の日本とアジア

ところが1930年代後半になると状況は大きく変わります。日本とアジアの関係の大きな変化です。この変化は大きく政治的な要因によります。国家改造運動が大々的に展開されるようになったことです。また、各国経済は1929年の世界恐慌を経て自由経済からブロック経済へと移行しました。日本もこうした流れの中で、1932年に日満経済ブロックを形成しました。1930年代後半にかけては、現在の「日本株式会社」の原型になる終身雇用制度や年功序列制度が整備され、企業内組合や間接金融、官僚機構による行政指導も広がっていきました。こうしたシステムの基盤となったのが、宮崎正義が立案した「満洲産業開発5カ年計画」(1937年~)に基づく計画経済体制です。

「満洲産業開発5カ年計画」と宮崎正義

ロシアのペテルブルグ大学に留学していた宮崎は1917年に2月革命を目にしています。これは日本人としては非常に珍しい体験で、その後の宮崎に大きな影響を与えたのではないかと私は考えています。事実、宮崎はロシア革命談として「非常に大きな衝撃を受けた。国家とは変わりうるものなのだ」との認識を示しています。また宮崎は「2月革命はロシアだからこそ遂行できたことである」と述べています。つまり宮崎は、日本を変えることは可能だが、ロシアと同じことをしても失敗すると考えたのです。そこで宮崎は、ロシアが全産業を国家統制にしたのに対し、満州国では国家統制するのは軍需産業のみにして、その他重要産業は官僚統制に、それ以外の産業は自由競争にするという経済システムを構築することを目指しました。宮崎の提案は、抵抗勢力が無く、新たな試みにオープンな満州で積極的に受け入れられました。提案は満州国の経済方針となり、これを満州で実施したのが星野直樹、岸信介、椎名悦三郎等の官僚です。

宮崎はその後1933年に東京に移転し、石原莞爾と共に国策立案機関の設立に奔走します。1935年には日満財政経済研究会を組織しています。そして1935年の「満洲産業開発5カ年計画」立案にいたる訳です。同計画は1937年の日中戦争勃発で縮小を余儀なくされ、当面の戦争に役立つものに資金を注ぎ、基礎産業力育成の予算は減らしていくという物資動員計画の方向へ修正されていきました。これには石原や宮崎から大きな反発がありました。5カ年計画というのは日本の基礎国力を作るためのものであり、そのためには10年間の平和状態が大前提となると考えたからです。ただ、統制の精神、あるいは統制のツール、すなわち官僚による産業別統制や間接金融といったプロセスはその後も受け継がれていきました。

戦時下の日本経済統制

1937年には企画院が誕生し、物資動員計画が実施されます。この時期に、満州で統制の経験を積んだ人々が日本に帰国し、官僚による計画経済を推進しようとしています。しかしそこで彼らを待ち受けていたのが財界からの反発です。ともあれ、そうした問題を経験しながらも、官僚が財界をコントロールするという経済システムが戦時下にできあがりつつありました。また、産業報国会と日本的労使関係も戦時下で確立しています。

戦後日本と官僚指導体制の確立

1949年にはドッジラインが実施され通産省が設立されました。1946年から続いていた経済安定本部は1952年に廃止されました。この経済安定本部は満州国で経済統制を経験した人々で占められていました。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」との判断が示されました。1950年代は行政指導と法律での官僚指導体制が進められた時期です。戦前からの「日本株式会社」の手法が引き継がれ、1955年体制になると、岸信介と通産省による高度成長が突き進み、間接金融や日本的労使慣行、官僚による行政指導が復活し、それが伝統として定着するようになりました。

新しいシステムを求めて

宮崎のアイデアの原点はソ連にどう対抗していくかという考えです。宮崎が生み出したシステムが半世紀にわたり存続する前提には、東西対立の産物としての「日本株式会社」の流れがあると私は考えています。よって、東西対立が終焉を迎え、グローバル化が広がる時代にあっては新たなシステムが必要になります。現在はシステムの改変期ですが、終身雇用を含め、古いシステムで残すべきものを峻別しながら新しいシステムを作っていくことが、今後の大きな課題でしょう。

1930年代には英国を中心とした超大国のシステムがあり、戦後~1990年代には米国を中心とした世界システムが形成されました。「日本株式会社」のシステムができたのはこのはざまの時期です。今後21世紀には米国と中国が協調と衝突を繰り返しながらシステムを作っていくと予想されます。そうしたシステムの形成期に、日本はどういうシステムを作るのか。英国的システムから米国的システムへの移行期に作られた日本の古いシステムは大いに参考になります。

質疑応答

Q:

満州国のシステムが戦後に引き継がれるとき、評価、峻別は行なわれたのでしょうか。あるいは惰性的に引き継がれたのでしょうか。

A:

戦前の満州国での経験は戦後、東南アジアでの賠償問題や経済開発問題で活かされています。岸信介自身、総理就任後初の外国訪問先に東南アジアと豪州を選んでいます。これは戦後の大きな変化であり、特徴です。日本は東南アジアを市場圏に戦後高度成長期を走りました。戦前と戦後で地域的変化(満州国→東南アジア)はありましたが、システムの方向性に変わりはありません。強いていえば、岸信介がナショナリズムに関する認識を変えたことでしょうか。「抑圧」に基づく戦前ナショナリズムから、国民国家を認めながら経済進出を目指す戦後ナショナリズムへの転換です。

Q:

新しいシステムを今後形成するにあたり過去の歴史から得られるヒントや方向性、考え方があれば教えてください。

A:

1930年代までは英国を中心とした世界システムがあり、1930~1945年までは覇権競争の時代です。1945年以降は米ソによる東西対立の時代で、2000年に入ってからは米国の一極覇権が続いています。今後日本は存在感を増す中国と米国の間でどういったスタンスを取るのかという問題に直面することになるでしょう。1930年代の日本から学べるものがあったとして、何が学べるか。1930年代の日本は安定した経済システムや生活システムを求めて新たなシステムを模索していました。そういう意味では現在、グローバル化が進む中で大きな格差を生み出すシステムは若干修正の必要があるのではないでしょうか。

Q:

1990年代から始まった日本のシステムの変化で評価できる点、評価できない点はありますか。

A:

日本的システムの最大の良さは安定性にあると思います。安定性は今後とも不可欠なものとして求めていかなければなりません。問題点は、内部競争や内部における相互刺激の少なさです。切磋琢磨するという点で1980年代までシステムに問題があったのは事実です。競争を維持しながら安定を追求するという、難しいバランスの問題を克服することが今後日本が大きくなる秘訣だと思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。