フェローコンテンツ: 検証:日本の通商政策

第一回「二つの鉄鋼交渉物語」(5)(6)

今野秀洋
客員研究員(2004年3月31日まで在職)

5.変化をもたらしたもの

二人の共和党大統領によってとられた鉄鋼輸入措置が、対照的といってよい経過をたどったのは何故か。

鉄鋼業をめぐる経済状況が大きな変化を遂げていたことはいうまでもない。1984年当時、輸入が急増したといっても米国内市場シェアは20%台だったが、1998年には40%に近づき、輸入鋼材は米国の産業生産に不可欠の要素を構成するにいたっていた。数量制限ではなく関税引き上げ措置をとったのは、その事情を反映したものと考えられるが、それでも米国内のユーザーに打撃を与え、強い反発を呼んだ。

政治的には、1984年当時日本政府にとってレーガン大統領の声明に対する最適解は自明のように見えた。そのころの対米通商政策の基本には、「強者は忍び足で歩く」とする「商人国家論」の考え方があった。日本の経済は躍進を続け、米国の経済は病んでいる。日米同盟関係に亀裂が入ることを避けながら、なお日本経済を伸ばしていくには、病人の枕元をそっと歩く配慮が不可欠である。こうした摩擦調整型の通商政策思想のもとで、すでに1981年から自動車の対米輸出について自主規制が行われており、鉄鋼についても1983年の山中通産大臣とブロック通商代表の合意にもとづく定期協議のもとで、「秩序ある輸出」が試みられていた。レーガン声明の不公正貿易論は耳障りではあるが、しょせん「建前」のことであり、日本としては米国鉄鋼業の再建に力を貸すという発想で貫けばよい、と考えられた。1984年12月日本政府は、このような対米協力の思想をうたった前文を盛り込むことで、自主規制の枠組みに合意した。

日本の鉄鋼産業にとっても、この選択に強い抵抗感はなかった。日本の主要高炉メーカーは、日本国内で「秩序ある競争」を標榜しており、米国市場についても秩序指向が強かった。長年にわたり米国は600万トン前後の鋼材輸出の安定的受け皿であり、しかも最も利幅の大きな文字通りドル箱市場だった。そこでダンピング提訴などに悩まされるよりは、むしろ数量規制に協力したほうがよいとする考え方が支配的だった。

輸入規制には経済学でいうレントが生ずる。関税引き上げの場合には、輸出品生産に伴うレントは輸入国政府に帰属する。これに対して数量規制にあっては、そのレントが輸出国または輸入国の企業に帰属する。輸出自主規制は、輸出国企業にとってレントを独占しやすいという旨味がある。輸出国のなかではさらに、メーカーと商社との間でレントの奪い合いが起こりうる。1984年日本政府は、早々とメーカー割り当ての方針をきめ、規制問題の最大の当事者である鉄鋼メーカーの協力を固めた。

しかし今日ゲームのルールは根本的に変化した。1995年発足した世界貿易機関(WTO)では、その紛争処理了解において、WTO協定違反の認定および対抗措置の決定は、紛争処理了解の手続きに従わなければならないと定めており(第23条)、米国通商法301条に代表される一方的措置が実質的に禁止された。同時に、セーフガード協定において輸出自主規制もまた明示的に非合法化された(第11条)。ブッシュ政権は、301条を振り回すこともできなければ、それを梃子にして自主規制を要求することもできなかった。このため、米鉄鋼業界の包括的保護の要求に応えるためには、通商法201条にもとづく本来のセーフガードに戻らざるを得なかったのである。

そのセーフガードもまた、WTOにおいて規律の強化が図られていた。GATT時代には、セーフガードについて紛争解決パネルの判断が示されたのはわずか1件にとどまっていたが、WTO発足後における累次のケースの積み重ねによって、輸入増、因果関係、対象産品のくくり方などについて、ルールが精緻になってきた。さらに、セーフガード協定第8条には、輸出国側の対抗措置の発動について、事前にWTOの紛争処理手続きを経ることを求めつつも、その第2項に輸入の絶対的増加がない時にはその限りではないとの趣旨が盛り込まれていた。これが日本とEUにとって恰好のレバレッジとなった。

日本の通商政策もまた、大きく変化していた。1980年代半ばからの10年間、日本の通商政策は、米国の対日批判が品目別の不公正貿易批判から日本経済体制そのものの不公正論へとエスカレートするのに対して、一方で輸出自主規制や輸入促進策でその場をしのぐのに苦渋の汗を流しながら、他方でウルグアイ・ラウンド交渉の場で、米政府が検事と裁判官の二役を演じるようなユニラテラリズムを封じる道を模索してきた。1995年WTO発足直後に行われた日米自動車交渉は、その成果の最初のテスト機会だった。米政府が自動車部品の購入などについて数値目標にコミットするよう求めて301条の制裁発動を決めたのに対し、日本は初めて米国をWTOに提訴してこれを抑え、マルチラテラルなルールの有用性を実感していた。

欧州の立場にも変化があった。欧州委員会(EC)は、域内各国間の条約によって成立し、各国政府との関係におけるその権限も条約その他の取極めによって強化されてきた。その欧州委員会にとって、GATT/WTOルールは域内各国政府に対して指導力を発揮する重要な拠りどころであり、このため本来対外的にもルール重視の行動をとる傾向が強い。1980年代までは欧州産業界に保護主義が根強く、ECの行動にも不透明なところが多かったが、欧州統合の進展につれて産業界が国際競争力に自信をつけるに伴い、ECも国際自由貿易体制を前提とした動きが顕著になってきた()。

このなかで日欧関係も変貌を遂げた。戦後長期にわたる差別的対日輸入規制などによって日本には欧州に対する不信感が強かったが、ウルグアイ・ラウンド交渉やその後の新ラウンド立ち上げのための協議を通じて日欧通商当局間の接触が深まってきた。また、カナダ自動車(オートパクト)事件、米国1916年アンチダンピング法事件などWTOの場で争われた個別のケースにおいても、国際ルールを駆使して欧州の利益を追求するECとときに利害が一致することを経験してきた。

今回の日欧の協調行動は、このような流れの中で実現した。日本政府とECは、米国の鉄鋼セーフガード発動に対してあい呼応してWTOに提訴するとともに、担当者間で密接に法律論のすりあわせを行いつつ、セーフガード協定第8条にもとづいて対抗的に関税譲許の停止措置をとった。日欧双方にとって、協調の成果は大きかった。日本は国内意見を統一するためにも国際社会のバックアップを必要としていたし、欧州委員会にあっても、ひるみがちな加盟国政府を説得する上で日本との同一歩調が大きな支えになった。

なお、日本政府とECが第8条にもとづき関税譲許の停止措置に踏み切ったのは、将来のセーフガードの乱用に歯止めをかけるうえでも重要な行動だった。これなしでは、米国がWTO提訴されてもその結論が出るのは1年以上先のことであり、それまでには中間選挙が終わって米国内政治上の目的が達成された後になる。WTO上疑義のある措置でも、当面のコストがゼロで発動できるという前例は、各国の政治家にとって悪しき誘惑となるおそれがあった。

韓国についても、今回の行動は前回と対照的といってよい。84年の交渉時には、日本不公正論に共鳴する気配の強かった韓国だが、今回は日本と協調行動をとった。この背景には、日本の非関税障壁が事実として低下したことだけでなく、1998年の金大中大統領の訪日を契機とする日韓関係の劇的改善がある。今や自由貿易協定すらアジェンダに載る状況において、日韓間のコミュニケーションには昔日の感がある。

6.おわりに

今回の鉄鋼セーフガード問題は、まだ決着に至ったわけではない。多くの品目が除外されたとはいえ、いまも米国の関税措置は続いており、ジュネーブでは紛争処理のためのパネル審理が続けられている。その結果とその後の交渉の展開しだいで、どの国がモラル・アンダードッグの立場に追いやられるか、なお予断を許さない。

だが紛争がジュネーブを舞台に続けられていること自体、通商交渉環境の大きな変化を象徴している。むき出しの政治とユニラテラルな圧力から、国際ルールと手続きに則る交渉の方向へ国際社会は進化した。日本もこのなかでプレーする方途を身につけはじめた。 しかし、歴史の歯車はすでに次のフェーズへと回転しつつある。これまでほぼ1世紀にわたり先進国経済を追いかけてきた日本は成熟経済国の仲間入りをし、代わって中国がstatus quoへの挑戦者として登場した。しかも中国は、早くもWTOルールをレバレッジとして使いはじめている。鉄鋼の世界でも中国は、米国のセーフガードに対応する形でセーフガードを発動した。急速に成長する中国市場における輸入抑制措置のインパクトは、米国の措置以上大きなものがある。日本にとっても国際貿易システムにとっても、あらたな試練がはじまっている。

2002年12月16日

脚注

ちなみに、ECは301条事件(United States-Sections 301-310 of the Trade Act of 1974,WT/DS152, panel report adopted on 27 January 2000)において301条のWTO協定整合性を正面から争い、結果的に「敗訴」したものの、その過程で米国から今後通商法301条はWTO協定に整合的な形でしか運用しないとの確約を引き出すことに成功している。

2002年12月16日掲載

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