フェローコンテンツ: 検証:日本の通商政策

第一回「二つの鉄鋼交渉物語」(3)(4)

今野秀洋
客員研究員(2004年3月31日まで在職)

3.ユニラテラリズムの時代へ

レーガン大統領の鉄鋼プログラムは、米国民が聞きたいストーリーを語ることにより、政治的に目覚しい成果をあげた。そのレトリックの成功は、米国の通商政策の歴史にユニラテラリズムの時代の幕開けをもたらした。

周知のとおり301条は、1974年通商法(Trade Act of 1974)に最初に現れたもので、外国の「不当な」(unjustifiable)または「不合理な」(unreasonable)輸入制限に対して制裁措置をとる権限を大統領に与えたものだが、当初行政府はGATTの手続きを経ないでこの権限を行使することには慎重であり、1984年までの10年間に実際に制裁措置が発動された例はほとんどなかった() 。

ところがレーガン大統領は、1984年の鉄鋼プログラムにおいて初めて、行政府自ら職権で301条を発動することを示唆した。そして、対外交渉で迅速に所期の成果を得るとともに、国内的にも自由貿易の旗手という名声と国内業界の保護という政治目的を同時に達成するという奇跡的成功を収めた。米国の対外政策の底流をなす道義主義に棹差すこの手法の魔力に手を染めた米政府が、これを通商政策の主流に据えるのに多くの時間はかからなかった。

同じ年の10月30日、レーガン大統領は1984年通商法(Trade and Tariff Act of 1984)に署名した。そこには、1974年通商法のタイトルⅢを強化して、USTRに外国の貿易障壁について毎年調査することを命ずるとともに、職権で301条調査を開始する権限を明示的に付与する条項が含まれていた。鉄鋼問題の検討と平行して議会審議されたこの法案は、9月18日の大統領決定と裏表の関係をなすものだった。

レーガン政権期における通商問題は、同政権のマクロ経済政策の綻び部分(soft belly)をなしていた。大幅な減税、財政赤字、規制緩和とドル高の組み合わせによって、経済は活性化したが、これには対外経常収支の悪化が伴わざるを得ない。むしろ対外経常赤字(資本収支黒字)によって過少貯蓄下の財政赤字を支える経済政策が、レーガノミクスだったとすらいえる。1984年の貿易赤字は史上はじめて1000億ドルの大台を突破したが、それでもレーガン大統領は1985年の夏まで、ドル高賛美の発言を繰り返していた。

産業界と議会の不満は、激しい対日批判という形で現れた。3月には、日本製乗用車の対米輸出規制枠が230万台に拡大されたことをきっかけに、上院で対日報復決議が全会一致で可決された。電子通信機器の調達、通信衛星購入、自動車電話の基準認証、ソフトウェアの著作権、背高コンテナの規格、弁護士業務開放など、摩擦分野はとどまるところを知らない勢いで拡大した。

この時期、筆者は複数の米議会スタッフから、対日批判の本当の狙いはレーガンの経済政策の転換を求めることにある、との説明を聞いたことを記憶している。レーガンのドル高政策がこのまま続けられたら、アメリカの産業基盤が失われてしまうという危機感が広まっていた。

1985年9月、ついに政策転換が発表された。22日、通貨調整に関するプラザ合意。翌23日、レーガン大統領が議会・経済界代表に対して貿易問題に関する「新経済政策」を説明。その中でレーガン大統領は、「土俵が平らでなければ、自由貿易はない」「自分は外国の不公正な行為によって米国の産業が傷つくのを座視しない」として、韓国の保険事業規制、ブラジルのハイテク製品規制および日本のタバコ販売差別の3案件に対して、職権による301条の調査開始を宣言した。外国不公正論を中核とする1年前の鉄鋼プログラムの成功が、ここで実際に301条調査の職権発動に結びついた。

1980年代末から90年代前半にかけて米国通商政策の主要手段となったス-パー301条およびスペシャル301条は、これまで述べてきた流れの論理的到達点ということができる。1988年通商法(Omnibus Trade and Competitiveness Act of 1988)は、301条を拡充強化して、USTRが外国貿易障壁をリストアップし、そのなかの優先項目についてこれを除去させるべく交渉を行い、一定期間内に除去されない場合には報復措置をとるよう定めた。このように期限を定めて一方的な報復措置発動を行うことによって、米通商法は本質的にGATTの紛争処理体系と整合しないものになった。米国は自由貿易の国であり、貿易問題は諸国の不公正行為に因る、というレトリックの自然な到達点ではあった。

4.2002年鉄鋼セーフガード

翻って2002年3月ブッシュ大統領が決定した鉄鋼輸入セーフガード措置は、1984年の鉄鋼プログラムと酷似しているように見えるが、実は多くの点で対照的な経緯をたどっている。

まず、今回の措置は、あくまでも通商法201条にもとづくストレートな輸入救済であり、301条の発動ではない。米政府の発表文の中には、外国の補助金など不公正行為に対する言及はあるが、これについては多国間でのルール作りが提唱され、一方的な制裁は提起されていない。

また、輸出側の諸国が、相次いでWTOに提訴する道を選んだ。日、EU、韓国、中国、スイス、ノルウェー、ニュージーランドおよびブラジルが22条協議を要請し、そのうち6月に日本、EU、および韓国が紛争処理パネルに移行した。さらに、7月には全8カ国の共同の紛争処理パネルが設置されることになった。

輸出国政府が相互に協調して対応する姿勢をとったことも、今回の特徴である。1984年当時は、日本はまっさきに米政府と二国間交渉を開始し、韓国政府は規制枠の取り合い心理からか、ワシントンで日本の非関税障壁批判をささやき歩いた。今回は、日本とEUが共同歩調をとっただけでなく、日韓間でも同日付で足並みをそろえてパネル設置を要請するなど、協調的行動がとられている。

しかしなにより異なっているのは、前回ホワイトハウスに翻っていた錦の御旗が、今は輸出国側に移って見えることである。確かに米国の高炉製鉄業は、ベスレヘム、LTV、ナショナル・スティールなどの倒産が相次ぎ、危機的状況を迎えてはいたが、これは三分の一以下のコストで生産するミニ・ミルが急速に国内市場シェアを伸ばし、5割以上を占めるに至った構造的な変化を反映したものであり、加えて景気後退のなかで、レガシー・コストといわれる年金債務の重圧に企業が耐えきれなくなった面が大きい。輸入は、アジア通貨危機の前後に急増したが、相次ぐダンピング提訴によって1998年をピークに減少していた。このような状況のなかでとられた関税引き上げ措置に対して、輸出国側はWTOルール上のセーフガード発動要件が満たされていないとして提訴した。さらに日本とEUは、米国の措置が輸入の絶対額が増加していない品目を含んでいることに着目して、WTOセーフガード協定第8条2項にもとづく対抗措置をとる姿勢まで見せた。

米国内の論調も今度は批判的だった。米市場における鋼材価格が急上昇し、鋼材を日本から空輸する自動車メーカーも現れるに及んで、共和党保守派寄りといわれるウォールストリート・ジャーナルをふくむ主要全国紙は、ドーハ・ラウンドでリーダ-シップをとるべき米政府が、露骨な選挙対策に手を汚しているのを批判する社説を掲げた。

守勢に立たされた米政府は、国内ユーザーの要望にこたえる形で個別品目の関税引き上げ除外を拡大することで、内外の不満を収めようとした。こうした状況の下で行われた二国間協議は、1984年当時のものとは逆に、輸出国側がモラル・アッパーハンドを握る形で進められた。その結果、2002年8月末平沼経済産業大臣が、絶対的輸入増が認められないことを理由とする対抗措置の実施を見送る旨発表したとき、当初のセーフガード措置対象の日本からの対米輸出鋼材のうち、半分近い55万トンが適用除外となっていた。

2002年12月16日

脚注

制裁発動例としては、2例(1980年のカナダ国境放送問題および1982年のアルゼンチン獣皮問題)があるが、何れもGATTとの整合性が大きな問題になる性格のものではなかった。

2002年12月16日掲載

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