外交再点検

特別編 援助協調の新時代:ベトナムにおける日英協力の始動

北野 充
コンサルティングフェロー

石井 菜穂子
財務省開発機関課長

世界の開発援助を巡る潮流は、非常に速いスピードで変化しつつある。その中でも、ここ数年における顕著な進展は、開発途上国とドナーとが開発目標と開発戦略を共有する傾向の強まりである。二国間援助も、二国間(バイ)の問題であるとともに、多数国間(マルチ)の色彩が強まっている。このような中、援助協調にどう対応するかは、日本の援助の有効性を高め、日本の援助をステップ・アップしていく上で避けて通ることのできない課題になってきている。ここでは、ベトナムを舞台とするイギリスとの協力の事例から、援助協調を巡るさまざまな側面をレポートしたい。

Ⅱ 日英協力の発端と展開

2002年11月。ハノイ。

それは、一冊のレポートから始まった。

「結合を作る:貧困削減のためのインフラ」

タイトルにはそう書かれていた。

「イギリスの国際開発機関(DFID)が最近まとめた報告書よ。インフラの役割に光をあてようとしているのは、あなた方、日本だけではないわ。」

ハノイの世銀事務所リードエコノミストのニーシャに手渡されたレポートの内容は、印象的なものだった。貧困削減のためには、地方インフラの整備だけでは十分ではなく、主要インフラが地方インフラと結合するように整備されることが重要である。国際的な援助コミュニティーでは、インフラ支援は時代遅れの、信頼を失った援助の形態と思われている。この報告書は、それに変革を求めることを目的としている・・・。

それは、日本の主張そのものといってよく、ドナーとしてのイギリスのイメージを変えるものだった。イギリスのDFIDというと、貧困重視、社会セクター重視、財政援助重視であって、成長促進、プロジェクト援助、インフラ支援に重きを置かないことがその基本政策と思っていた。近年、国際的な援助コミュニティーの中で繰り広げられてきた援助哲学、援助モダリティについての論争において日本の対極に立つのがイギリス、とのパーセプションがあった。

協力の可能性があるかもしれない。そう思った。当時、日本側は、ベトナムの貧困削減戦略文書(PRSP)である「包括的貧困削減成長戦略」(CPRGS)に、大規模インフラが成長をもたらし、それを通じて貧困削減に貢献するとの役割が十分に書かれていないことから、CPRGSを拡大していくべきとのイニシアティブをとろうとしていた。DFIDのベトナム事務所長のアランに話しを持ちかけると、アランはこの構想を支持してくれた。

2002年12月の対ベトナム支援国会合でCPRGSの拡大が決まった後、アランに会って礼を述べると、アランは、こう言った。

「大規模インフラの役割については、実際に日本と協力したい。さらに、来年の4月には、東京で、日本とイギリスとのハイレベルの政策協議が行なわれることになっている。それに向けて、お互いにいろいろな論点で議論をして見たらどうだろうか」

興味深い企画だった。「大規模インフラ」は、是非、協力してやっていこう。援助モダリティが議論になる「援助手続きの調和化」では、お互いの考え方とアプローチは異なっている。しかし、だからこそ、対話することに意味がある。そう応えた。

ところが、「対立の構図」となるかと思われた「援助手続きの調和化」についての議論も、予想外の展開となった。

2003年1月。ローマで開催されるハイレベルフォーラムの準備のため、ハノイで開催されたアジア地域ワークショップ。日本は、「オーナーシップの尊重」「国別アプローチ」「ドナーの援助モダリティの多様性の尊重」を含む調和化の原則を提案した。会合の第1セッションで、欧州ドナーを中心とする援助理念の似通ったドナーグループLike-Minded Donor Groupの代表のアランは、冒頭、日本の提案に賛成であると言い切り、予想された日本対欧州ドナーの対立の構図は、どこかへ雲散霧消してしまった。東アジアの現実を見れば、援助モダリティの多様性を認めることは当然、との立場に立ったのである。このワークショップの結論が、ローマのハイレベルフォーラムの結論文書にも反映されたのだから、その意味は大きかった。

こうした協力関係をベースに4月に東京で開かれる日本とイギリスとの政策協議に向けた意見交換を行った。貧困削減と経済成長。大規模インフラの意義。援助手続きの調和化。初等教育。地方道路整備。個々の問題で、それぞれの援助のやりかた、アプローチは同じでなかった。それでも、双方とも、「援助の有効性の向上」という共通目標を持っていた。そこから、今後の協力のメニューがいろいろと出てきた。それに、日本が重視する経済成長やインフラの重要性についても、共通の認識を作ることができた。

議論しただけで終わらせるには、もったいなかった。議論した結果を「共同の討議サマリー」というペーパーに取りまとめることにした。そして、東京での政策協議のベトナム・セッションでは、そのペーパーを共同でプレゼンしよう、と構想が発展した。

DFIDからはアランが、日本側からは、JICAベトナムの天津邦明氏がそれぞれ、ハノイから東京に出張することになった。われわれは、代表団を送りだすような気持ちで、2人を送りだしたのだった。(北野)

Ⅲ 日英現地チームの共同プレゼンテーション

2003年4月。東京。

4月7日、8日の両日開かれた日本とイギリスとのハイレベル政策協議において、私(石井)は、ベトナム・セッションについてのコメンテーターの役割を引き受けていた。

日本側は、吉川元偉外務省経済協力局審議官をはじめとする関係省、機関のメンバー、イギリス側は、DFIDのマーティン・ディナムアジア局長をはじめ、東アジアの各事務所長、本部関係者が出席する全体会合。そこで、日英現地チームの共同プレゼンテーションが行われた。

それは、控え目に言っても、画期的な企てというべきものだった。

本国からの代表者が集まるマルチの場での議論は、えてして現場を忘れた不毛な「イデオロギー闘争」になりがちである。しかし現場では、「援助の有効性の向上」という共通目標の下で、日本とイギリスとが協働できる機会がこんなにある。それを実際に示したのが、この共同プレゼンだった。

日本は、援助の有効性向上のために、「オーナーシップの尊重」「国別の取り組み」「ドナーのモダリティの多様性を認めた中での整合性」の確保が重要と主張してきたが、ベトナムは、それを見事に結実させた事例といってよかった。すなわち、主体性を持ったCPRGSが策定され、それが実施に移されようとしていた。ミレニアム開発目標(MDG)はベトナムの状況に合わせて国内化され、CPRGSの中に取り込まれた。ドナーがそれぞれの援助モダリティを保持しつつセクター計画・戦略に自分のプログラムを整合的に合わせる動きが進みつつあった。

そのようなベトナムにあって、日本とイギリスの現地チームの協働は、一見異なる援助哲学とモダリティの選好を持つドナーが、援助の有効性向上の共通目標のためにどのように柔軟にかつ効果的に協働できるかの「生きたショーケース」といってよかった。こうしたケースを、マルチの場にフィードバックして、不毛な「イデオロギー論争」を打ち止めにしたい。そう思わせるものがあった。

更に、それだからこそ、もっと進んだ具体的な成果を期待したくなった。双方が、初等教育、農村道路といった個別セクターで更なる一歩を踏み出して、具体的にどのような成果をあげて行くか。それを興味をもって見守りたい、と思った。

私は、コメンテーターとして、こうしたことを述べた。

このベトナムの両国の現地チームの共同作業を画期的と見たのは、私だけではなかった。共同議長である、吉川審議官、ディナム局長の二人をはじめとし、多くの人が「ベトナム・モデル」という言葉を使った。両国のベトナム・チームの努力は、多くの人から評価された。そして、多くの人が、私と同様、「評価」だけではなく、「更なる期待」についても共有したのだった。(石井)

Ⅳ 援助協調の意味

2003年5月。

「援助協調」は、国際的な援助潮流において、とみに重要性を増している。開発途上国とドナーとが開発目標と開発戦略を共有する傾向が強まり、協調によってどのように援助の有効性を強めていくかについての議論がこれまでにないほど活発化してきている。その一方で、日本の納税者の援助に対する見方が益々厳しくなる中、日本のODAは、難しい相克に置かれている。

即ち、国内では、ODAが持つ意義が厳しく問われ、「顔の見える援助」、「国内」と結びついた援助を求める声が強いが、国際的には、セクターへの対応を幅広い開発パートナーと討議する中で効率性の高い援助を行うことが求められているのである。

この相克を解く鍵があるとすれば、日本が「声」によって自己主張することを更に推進していく道であろう。ここで「声」とは、開発について真剣に取り組む中、考え抜かれた援助哲学、きちんとした分析、経験に基づく知恵、開発についての主張のことである。日本がそうした自分の「声」を乗せて援助を行なうことは、国際社会への貢献であり、自己主張である。

さらにこうした相克が克服されるためには、「顔」に替わって「声」が重要であるという、援助に対する価値観の変更が日本国内で起こることが必要である。これは、日本の関係者の間で、日本の「声」を発していくことについての重要性について理解が深まるかにかかっている。

日本の「声」が聞こえる援助を進めるためには、どのようにして「声」を出し、それがどのような意味を持つのかを示す実例をひとつでも多く作っていくことが求められているが、ベトナムの事例には、これを具現化する期待がかかる。「CPRGSの拡大」にしても、「援助手続きの調和化」にしても、日本が自己主張を明確にしたからこそ、それに同調するかたちでの「協調」が成立した。そこには、日本の「声」があった。

なぜ他のドナーと協調するのか?

その答えは、ひとつではない。日本自身の開発援助の哲学(日本の「声」)があって、それを実現するプロセス上にドナーコミュニティが存在するから。自分だけでやっているのではないから。世界が抱える問題は、自分たちだけでは解決できないから。学ぶところがあるから。自分の援助を良くするため。味方を作るため。影響力を拡大するため。その全てが答えであり得る。

開発援助は、複雑で多様であるが、確実に言えることもある。現地の状況にあった効果的で質の高い援助を行なっていくためには、「個別案件を被援助国と討議して援助する」形態から、「セクターへの対応を幅広い開発パートナーと討議して援助する」形態への脱皮を図って行かなければならないことである。効果的で質の高い援助を行なうことができなければ、援助は、開発の観点からも、外交の観点からも、意味を失ってしまうが、そのためには、「協調」を避けて通ることはできない。

協調をするということは、多様な関係者と対話するということである。そして、それは、自分の「声」で語ることから始まる。(北野・石井)

きたの・みつる

東京大学文学部卒。ジュネーブ大学(国際問題高等研究所)修士。昭和55年外務省入省。内閣法制局参事官、外務省経済協力局有償資金協力課長などを経て、2002年9月から現職。経済産業研究所コンサルティングフェローを兼任。

いしい・なおこ

東京大学経済学部卒。昭和56年大蔵省入省。IMFエコノミスト、世界銀行東アジア・太平洋地域ベトナム・プログラム・コーディネーターなどを経て、2002年7月から現職。著書に「政策協調の経済学」、「長期経済発展の実証分析」など。

2003年12月25日掲載