外交再点検

第8回 経済協力は何を目指すべきか(その2)

北野 充
コンサルティングフェロー

経済協力の今後のビジョンを探るため、外務大臣の諮問機関として有識者の参加を得て組織された「第二次ODA改革懇談会」は、2002年の春、最終報告を発表した。その中に、次のような一節がある。

「アフガン問題への取り組みは、日本国民のODAに対する関心を高めるとともに、ODAが日本外交の手段として重要な役割を演じることを再認識させた」

ODAを「外交の手段」と捉えて、アフガン問題をその意義の再認識のきっかけと捉えようとした文章であるが、これに対して、共感を持って読む読者、ODAが「外交」の文脈だけに置かれてしまうことに居心地の悪さを感じた読者の両方がいたのではないか、と想像される。

確かにODAは、我が国の外交において重要な役割を果たしている。ここで「外交」とは重要な国益を担った対外関係の対応、という意味であり(本稿全体として「外交」をその意味で用いることとしたい)、ODAにはそのような役割が認められてきたからこそ、これまで予算の面でも配慮されてきたと言える。

一方、ODAが「外交」の文脈だけに置かれてしまうことには、違和感を覚えるとの声があり、また、「外交」の観点からの援助といっても、これが的確に行われているのか、との疑問も提起される。例えば、次のようなものである。

  • 開発援助は、「外交」によってゆがめられるべきではない。要人往来を理由に、供与すべきでない案件に協力している例があるのではないか。二国間関係を踏まえるべきことに異存はないが、開発援助は、「外交」という定義のできないものによって振り回されるのではなく、あくまでも「開発」に立脚したものであるべきだ。
  • 「外交」の観点から行われる援助は、往々にして、相手国の要請や期待に応えるとの方向性に向かいがちである。援助額が多ければ、相手国から評価を得られ、その国との関係にプラスであるといった安易な考えになっていないか。そのようにして行われる援助に、日本の国益に合致していないケースがあるのではないか。中国に対する経済協力がその好例ではないか。

こうした問題提起をどう考えたらよいのだろうか。誰しも、国民の税金や公の資金を原資とする援助が「外交」として有効に機能して欲しいと思っている。一方、援助は、「開発」にもきちんと役立って欲しいとも思っている。この2つは、どのようにすれば両立可能になるのだろうか。

そもそも、援助において、「外交」の面での価値が認められるのは、どのような時であろうか。確かに、「外交」というのはわかりにくい。開発上の効果のように、それを把握するための手法があるわけでもない。だとすると、具体的な事例に則して考えてみるのが近道かも知れない。援助が「外交」の面で価値を発揮した例を見てみよう。

  • 日本と相手国との間の二国間関係が大きく様相を変えようとするときに、経済協力を供与することが、それを具体化させる「核」の役割を果たす。
    (例)1979年、中国は、それまでの自力更正的な政策から、「改革・開放」政策によって、西側の資金と技術を導入しての開発に大きく舵を切ろうとした。これは、中国の日本、西側社会との関係を質的に大きく変えるものであった。日本は、これに対応して、中国への経済協力を開始したが、これは、「革命志向の中国」から、「より西側にとってつきあいやすい中国」に変わる方向を支援する意味とともに、新たな中国との関係の「核」を作る意味があった。
  • 国際的な緊張の発生や、紛争の緩和など、国際社会が注目し、支援が期待される状況の中で、日本として貢献を行う。
    (例)2002年1月、我が国は、米、EUとともにアフガン復興支援国際会議を開催し、国際社会の支援をとりまとめるとともに、我が国自身の支援方針を表明した。この会議は、タリバン政権崩壊後の新生アフガニスタンに対しどの程度の国際的な支援が行われるかが焦点であり、世界の主要ドナーとしての日本の対応が注目されていた。
  • 平生の状況の中での経済協力で、「外交」としての意義を発揮する。

上記の2つのケースは、ある意味で、変化が兆し、状況が緊張している時の対応である。しかし、通常の状況の中では、「外交」としての意義をどのように発揮していけるのだろうか。

在外公館で仕事をしていると、時には相手国に難しい折衝を持ち込まなければならないことがある。それは、ある時には、日本の電力供給の3割を占める原子力発電のために放射性物質を運搬する船舶が近隣を通過することに理解を求めることであったり、日本が国際会議で行おうとする提案に支持を得ようとすることであったり、国際機関の選挙で支持を得ることであったりする。いずれも、種類は異なるものの、それぞれ我が国の国益に関わるものである。

こうした局面においては、相手国が日本との関係をどれだけ大事なものと感じているかが否応なしに計られてしまうが、このような仕事を通じて感ずる実感は、援助による繋がりがある国と、ない国との関係の大きな違いである。援助の繋がりがある国との間では、二国間関係に「芯」が通っていると感じられる。そうでない国との間では、他によほど強固で意味のある関わりがない限り、二国間関係は希薄なものになりがちである。国と国との関係の緊密さというのは、植木に水をやって育てていくことに似たところがあるが、援助は、資金を通ずるものであれ、人的協力によるものであれ、日本として相手の国と一緒になって、一生懸命、植木に水をやる行為なのである。

「文芸春秋」の2003年2月号に掲載された前タンザニア大使の佐藤啓太郎氏の事例はそれをよく物語るものといえる。佐藤氏は、タンザニア大使の時、政府の高官とだけつきあうのではなく、「普通のタンザニア国民との接点を求めていきたい」との気持ちで、援助案件の式典には、どんな山間僻地へも出かけて行き「タンザニアで最も庶民的な外交官」と呼ばれ、離任に当たっては、同国政府から、史上2人目の「永久歓迎客」との称号を授与された。佐藤氏はこういっている。

「しかし、私は決して私個人が名声を得た、とは思っていません。私の背後には日本という国があり、政府、外務省がタンザニアへの援助に尽力したからこそ、タンザニア国民は大使たる私に声援を送ってくれた。端折ったいい方をすれば、『日本が適切かつ効果的におカネを出したから』ということになりますが・・・」(「文芸春秋」2003年2月号より)

この佐藤氏の事例は、日本の援助が、個々のプロジェクトの意義を越えた関係をタンザニアの政府と多くの国民との間で持ったことを如実に表している。平生の状況における、外交としての意義の好例と考えられる。

一方、先ほどの、佐藤氏の発言の中に、「適切かつ効果的に」という言葉があったことにも注目したい。援助によって、二国間関係に「芯」が通るといっても、外交の観点から見て、「多ければ多いだけよいのだ」ということにはならない。二国間関係は多面的であり、援助実施に伴う相手国の評価以外にも、考慮すべきことは多々ある。それらを視野に置いた上で判断するのでなければ、対外関係において国益を推進するという「外交」の仕事をしていることはならないだろう。

援助を行うことが、本稿の最初で述べたようなマイナスを生むことなく、かつ、外交の観点から持ちうるこのような価値を拡大化するためには、何を考えればよいのだろうか。

第1、「相手国が喜ぶことをすること」イコール「外交」ではない。このことをきちんと押さえる必要がある。

具体的なプロジェクトとして要請されているものが、開発の観点から支持できない場合は、いくら相手国のハイレベルからの要請が強くてもこれに応えるべきでないことは改めて論じるまでもない。それ以外に、相手国の状況、二国間関係の全般的な状況を考えたとき、援助を増やすのが、我が国にとっての国益なのかを考えるべき状況は生じうる。たとえば、相手国のとっている政策なり方針で、日本にとって歓迎できないものがあるときにどうするか。更に、相手国のとっている政策が全般として芳しくないような状況で、援助の対応をどうするか。

これらは、いずれも単純に割り切れない問題である。

全般的な政策環境の点についていえば、開発援助の世界では、援助がどの程度有効となるかは、相手国の制度・政策がどの程度優良かによって大きく左右されることが広く知られている。世銀は、現在、このような考え方の下、マクロ経済、構造改革、社会面、ガバナンスといった視点から制度・政策を評価し、その「成績」次第で援助の増額・減額を考えるという方針をとっている。 これは、「開発」の観点から普遍的な価値の実現を目指す国際機関ならではのアプローチであり、二国間援助のよって来るところが、国としての広い意味の国益である以上、必ずしも同じ仕組みを考える必要はない。一方、二国間援助についても、「開発」の観点はもとより、「外交」の観点から見ても、相手国の国民の共感を得られる援助になるかを考えれば、全般的な政策環境に無関心であってよいわけではない。

日本にとって歓迎できない政策や方針が目の前にある場合、これを援助とどのように関連させるかも、難しい問題である。関連させるとすれば、一種のリンケージ戦略である。「品」がよくない、援助を行っている「徳」を損なうという視点もあろう。一方、場合によっては、1つの戦線で、懸命の戦いを繰り広げている中で、別の方面ではひどく寛容に振る舞うのは、相手に間違ったメッセージを送ることになってしまう場合もあろう。個々の事例に則し、相手国のとっている「日本にとって歓迎できない政策や方針」が、日本の国益に照らしてどの程度重いのか、それは二国間関係上の重大な事案といってよいのか、「リンケージ」に踏み出すことはその国との中期的な関係へどのように影響するのか、などを考え判断するべきであろう。

これまで述べてきたことは、援助額が多ければ、相手国から評価を得られ、それでその国との関係でプラスといった安易な考えは成り立たない、ということである。即ち、援助を行うのは、「植木に水をやる」のに似たところがあるのだが、実際に「植木に水をやる」場合と同じく、ただ多くやればよいのではない。分量もタイミングも考えなければ、本当の意味で植木を育てることにはならないというべきであろう。

第2、外交上の価値は、近視眼的に見るのではなく、中長期的な視野に立って見なければならない。前述の佐藤氏は、日本がこれまでアフリカ諸国に対し、反対給付を求めずに支援を行ってきたことが日本に対する共感と支持を生んできたことを語っている。この点は、上記で述べた、「相手国が喜ぶことをすること」イコール「外交」、ではないということとあわせ考えなければいけないことではあるが、国造りへの、地道であっても、真剣な支援の継続的な努力が、日本に対する評価を作っていくことは実際にあるのである。このコラムでも以前に触れたことがあるが、1974年に田中角栄首相がアセアン諸国を歴訪した際に起こったような反日暴動は、その後は起こらなかった。その背景には、日本が、その後、一貫してこれらの諸国との関係を大事にし、その開発努力を支援してきたことがあったと言ってよい。こうしたことに現れる日本への評価は、日本企業の受注や、懸案の解決といったすぐ目に見える効果は持たないとしても、日本の国益であることは間違いない。

第3、日本の援助の全体としての姿が、日本の行おうとする「外交」の全体像との間で整合性のとれたものでなければならない。

援助の仕事というのは、個々のスキームにおけるプロジェクトの積み上げからなっている。いわば「ミクロ」の集積である。そこで、ミクロの集積として作り出されるものが、全体としての「マクロ」の視点から適切であるかは、常に意識してチェックする必要がある。これは、ある被援助国を1つとってみたときについてもいえるし、また、各国への供与を全て総覧した日本の援助の全体についてもいえることである。

日本の援助の過半は、東アジア諸国へ供与されている。これは、日本として、近隣アジア諸国との関係を緊密化してこれら地域の安定に貢献し、更に、日本経済にとって関わりの深い東アジア経済の発展に寄与するとの意図が背景にあろう。個々のプロジェクトの検討に際しても、こうした「マクロ」の観点も考慮に入れられて検討されている。

一方、「マクロ」の状況にも、時々刻々の変化がある。新たな地域に援助ニーズが生まれることもある。あるセクターへの対応がクローズアップされることもある。貿易、投資、民間ビジネスなど、関連する分野の動向によって、援助に新たな課題が求められることもある。

援助の仕事が、「ミクロ」の集積でできあがっているだけに、「マクロ」の視点から見て、適切な姿になっているか、そこに、「外交」が適切に反映されているかを不断にチェックしなければならない。

第4、「ミクロ」のプロジェクトのレベルでも、「外交」の視点を考える必要がある。

日本の援助は、相手国の要請を前提として実施するという意味で、要請主義といわれている。これは、援助が相手国の開発努力を助けるためのものであるから、相手国が実施する意欲と用意があるプロジェクトでなければ実施すべきではないとのオーナーシップ尊重の考えに立つものである。しかし、この考え方は、「何もせずに黙って座っていて、相手国が提出してくるプロジェクトの中から、実施すべきものを選択すればよい」と言うことを意味するものではない。日本の立場からすれば、こういうものを実施したらどうか、という問題提起をしつつ、政策的な協議を行うことは、何らオーナーシップに反するものではない。

援助である以上、相手国の開発課題に対応するものでなければならないことは、いうまでもない。一方で、「相手国にとって、個別の案件・セクターがその国の開発にどういう意味を持っているのか」を考え、もう一方で、「日本はどうしてその国を援助するのか」「個別の案件・セクターを日本が援助することの日本側にとっての意味は何か」ということを考えながら、援助をしていく姿勢も求められる。

第5、日本と相手国との間の二国間関係が大きく様相を変えようとするときや、国際的な緊張の発生や、紛争の緩和など、国際社会が注目し、支援が期待される状況においては、機動的で柔軟な対応が望まれる。その際、援助が開発援助として行われる以上、「開発」の観点から支持されるものを行っていくべきことはいうまでもない。

こうした局面での対応は、日本が国際社会や、相手国にどのように関わっていくかという姿勢が問われるときである。適切なタイミングで、中身の良い対応をとることで、日本が何を考えて行動している国かを示すことが可能になる。

大事なことは、そのメッセージの中身である。多くの場合、「金額」が最も注目される。「金額」は、重いメッセージであるが、全てではない。それ以外の方法で、魂の入ったメッセージを送ることが重要なケースもある。開発援助とは別の文脈ではあるが、湾岸戦争の際の90億ドルの支援への国際的な評価から、我々はそれを学んだはずである。ただ、「金額」以外の方法で、魂の入ったメッセージを送ることは、「金額」をコミットすることとは別種の高度な力量を必要とするものではある。

本稿では、どのようにすれば「外交」の観点が「開発」の観点と両立し、且つ、援助が外交の観点からの価値を高めることができるかについて議論を進めてきたが、その際、外交における国益として、政治、経済などの二国間関係、国際的な貢献などを念頭において考えてきた。

だが、援助に関わる国益とは、このようなものだけであろうか。援助を行うに際し、援助のやり方によって、国際社会から尊敬を得ることもあるし、また、これを失うこともある。これもまた1つの国益である。この点は、開発援助に関する潮流の中で、日本が目指すべき援助はどのようなものであるべきかとの問いに結びつく。次回は、この点について考えてみたい。

2002年2月17日掲載