外交再点検

第7回 経済協力は何を目指すべきか(その1)

北野 充
コンサルティングフェロー

このところ、経済協力をめぐる議論がさまざまな形で提起されている。

外務省改革を巡る問題、日本の財政状況を背景とした予算編成方針のあり方の議論、中国に対する経済協力の問題、昨年9月11日の同時多発テロ事件を巡っての「破綻国家」の問題、そして、ヨハネスブルグサミットなどの国際的な舞台での途上国の開発を巡る議論。国際的な援助協調の潮流。

いずれも、経済協力が論じられることでは共通するが、経済協力がどのようなあり方であるべきかについては、経済協力の持つ異なった側面に着目して、異なった方向からの議論が展開されている。

あるときは、経済協力の実施体制のあり方が議論され、また、財政事情からの予算の削減が主張される。また、あるときは、外交方針とともに経済協力の方向性が問題視され、また、国際的な開発重視の流れの中での日本の対応が論じられる。さらに、援助の有効性に関する国際的な論調の中での日本の立場が問われる。

このように、経済協力のさまざまな側面について同時並行的に議論がなされているだけに、どのような議論の軸があるかを整理して考えないと個別にどれほど鋭い洞察をしても、あたかも「群盲、象を撫でる」に似た状況になってしまいかねない。

今、提起されているさまざまな議論を念頭に、経済協力のありかたを検討する際、重要な議論の軸を考えると、1)国際的側面と国内的側面との相克をどう考えるか、2)経済協力の持つ「外交」の側面と「開発」の側面をどう考えるか、3)国際的な潮流の中で、日本が目指す経済協力とはどのようなものであるべきか、の三つが考えられる。

このコラムにおいては、これから数回に分けて、これらの基本的な軸に沿って論点を整理しつつ、経済協力のあり方を考えていきたい。

今、経済協力のあり方を考えようとする際、まず考えるべき重要な議論の軸として、経済協力の持つ国際的側面と国内的側面との相克の問題がある。

経済協力は、国際社会に見せている顔と、国内で見せている顔との2つの相貌を持つ。この2つが、異なった方向に引っ張られ、軋みを生ずるのは、このような性格上、常にあることであるが、今は、かつてないほど、その緊張関係が強いものとなっている。現在、国際社会と国内のそれぞれから、経済協力に対して強烈な力が働いており、しかも、まったく逆の方向の力が働いているからである。

国際社会の状況を見ると、「開発問題の再重視の潮流」といってよい状況の中、経済協力を重視すべしとの力が働いている。国際社会としては、90年代は、経済協力に懸命に取り組んだといえる時期ではなかった。OECDの中で援助に取り組む22カ国がDAC(開発援助委員会)というグループを形成しているが、これら諸国全体の援助は、90年代は、低調であった。アメリカでも、ヨーロッパ諸国でも、国内の経済状況が思わしくない中で、他国を支援することに国内的な支持が得られにくかったのである。いわゆる「援助疲れ」の現象である。

ところが、昨年9月11日の同時多発テロ事件が、この構図を劇的に変えてしまった。

アフガニスタンという、紛争で引き裂かれ、貧困にあえぎ、中央政府の統治が機能しなくなった国家が、テロ組織の温床になってしまったという反省が、各国にはある。それが、昨年来、欧米諸国が打ち出してきた援助の増額方針につながっている。

一方、日本の国内ではどうだろうか。現在、経済協力の規模を増やす方向で考えようとの議論に対し、抵抗感を持たれる理由がいくつかある。

一つ目の理由は、日本の経済事情と、財政事情である。困難な経済・財政情勢が継続している状況は、「国内でこれほど困っている状況なのに、外国を援助するのか」という議論を噴出させている。

二つ目の理由は、中国に対する経済協力について、割り切れない感情がもたれていることである。中国は、日本の経済協力の最大の受け取り国の一つであるが、急速に「経済的脅威」として捉えられるようになっている。また、このところ日本の国民に映る中国像は、「尊大」「歴史カードへの執着」が目に付くものになっている。もともと、日本における中国に関する議論は、極端から極端に振れやすい性格を持っているが、このような昨今の状況は「なぜ中国に対して経済協力をしなければならないのか」という強い疑念の噴出につながっており、日本の国内での経済協力への支持基盤に影響を与えている。

三つ目の理由は、外務省を巡る不祥事である。政府や政府関係機関の中で経済協力を実施する体制は、バラバラであるとの批判が従来からある。中央省庁改革によって2001年1月にスタートさせた新しい体制では、外務省が経済協力全般についての総合調整に当たる方向に舵を切った。ところが、昨今の外務省を巡る不祥事によって、外務省に対するクレディビリティーへの疑念が生じてしまっている。

それでは、こうした背景から生じている国内要因と国際的要因との相克に、どのような考え方で臨むべきであろうか。

国内要因と国際的要因との相克に対する「解」を求めようとする際、最も重要なことは、「国内要因」と「国際的要因」の「二分論」の根源にあるところを振り返ってみることである。二つの論点に分けて考えてみたい。

第一の論点としては、これまで日本が行ってきた経済協力が、「国内的な費用」にふさわしい「国際的効果」をあげてきているのだろうかとの点がある。経済協力に関する議論は、「国際社会とかかわる」とか、「国際貢献」といった、「外向き」の視点からのきわめてあいまいなものを自明の事柄として出発しており、それが、日本にとってどのような価値を持つのかキチンと検証されていないのではないか、という疑問である。

これは、経済協力の意義に関わる問題である。この点は、経済協力の持つ「外交」の側面と「開発」の側面を考察する項においても触れることになるが、「国内要因」と「国際的要因」に関わる論点について述べると、いくつかのことが指摘できる。

  • 「国内的な費用」と「国際的な効果」という二分論で割り切れるほど、「日本」と「国際社会」は切り離されているわけではなく、「日本」と「国際社会」とは、相互依存関係にある。経済協力を行う意味として、従来から、国際社会においては先進国と開発途上国の双方が相互に依存しあっており、先進国が開発途上国を支えることは国際社会全体の土台を支えることになるとの点が指摘されてきたのは、このことを捉えているものである。
  • 「日本」と「国際社会」との相互依存的な結びつきは、貿易や投資といった実体経済や、それを支える安全保障上の構造といったことだけに止まるものではない。国際社会というのは、各国などのプレーヤーが周りの環境を自分たちに有利なように争っている競争の場でもある。貿易や投資のルール。環境保護のルール。人権保護のルール。労働者保護のルール。品質基準のルール。「ゲームのルール」は、こうした国際社会における不断の競争の結果として決まってくる。言い換えるならば、「とっくみあいの喧嘩」はあまりやっていなくても、「組み手争い」であれば、常にあらゆる局面で行われているのが国際社会である。その結果は、日本にとって有利なものにも不利なものにもなりうる。それからすると、この「国際社会」における「組み手争い」で有利になるような手だてを講ずることは、「日本」にとっての利害に関わる問題である。
  • 今述べたような、「日本」と「国際社会」が相互に関わり合っている姿を考えると、国際社会に関わることを単に「費用」と見る以上の視点が必要となる。国際社会から切り離されたところで、日本が今のまま存在することはできない。また、日本の地位を守り、それを向上させようとすれば、国際社会に自ら関わり、働きかけていくことが必要である。そうだとすると、国際社会への自己主張が必要であり、「日本」とはいったいどのような国なのか。国際社会にどのような関わり方をしようとするのかをメッセージとして発信していく必要がある、そういった視点である。経済協力も、そうしたメッセージの重要な一つとしてとらえることができる。

以上が、第一の論点である「国内的な費用」と「国際的効果」に関わる考察であるが、これを前提としたところで第二の論点が出てくる。即ち、経済協力に「日本」と「国際社会」との関わりを日本にとって好ましいものとし、日本としてのメッセージを発信するためのひとつの方途としての意味があるとしても、現在の経済情勢、財政事情などにかんがみ、戦線を縮小するべきではないかとの問題指摘である。現在、金融行政は、デフレ進行の懸念で「危機モード」の様相を強めつつある。そのような中、財政についても「危機モード」の対応を求める声が強まっている。そうした「危機」の状況であるから、「平時」の対応を前提とすることはできないのではないか、経済協力に意味があるとしても、国内の景気との関係でいえば、よくいって間接的かつ中長期的な関係に止まるのではないかとの問題である。

この設問に対する答えは、国民全体としての判断としてなされるべきであるが、いくつかの点が指摘できよう。

  • 上記のように、経済協力の問題は、「日本」が「国際社会」とどのように関わり合うのかという基本的な「国のあり方」に関わる問題をはらんでいる。従って、現在の経済情勢、財政事情の悪化の程度が、こうした基本的な「国のあり方」の変更を求めるほどに至っていると考えるべきか、がまず問われる必要がある。
  • 現在、財政に求める声として挙がっているのは、景気の下支えをするような財政の機動的な出動への期待である。その一方、膨大な財政赤字を抱える中で、歳出のスリム化を図る必要性も高い。そうした中、各行政分野の歳出の意味をそれぞれ精査し、上記の経済協力の意義をも踏まえた上で、合理的な判断を下すことである。「外国向けの経費だから、削って良い」といった単純な発想からは、正しい答えは出てこない。技術革新や教育など、孵化時間は長いがやっていかなければならない国内向けの経費とも対比しつつ検討がなされなければならない。国際的な評判や信頼というのは、一度失うとこれを回復するのには、膨大な時間がかかることも考えあわせる必要がある。

経済協力は、国際社会に見せている顔と、国内で見せている顔との二つの相貌を持つとはいっても、これを担当するものの意識は、「外向き」になりがちである。どうすれば援助供与国を中心とする国際社会から高い評価が得られる良い援助ができるか、が意識の中心となりがちである。それが、「国民から遊離している」との批判を招くことにつながり、そうすると、本来は単純に分けられない「国内要因」と「国際的要因」が対立概念となってしまい、これらの相克の調整が困難になってしまう。

それだからこそ、経済協力のあり方を常に「国内から」の視線の上に置いて、そのあり方を不断に見直す必要がある。

今、ODA改革の一環として、経済協力の透明化や経済協力における国民参加推進に力が入れられている。

これらには、そのこと自体の意味合いとともに、ともすれば「外向き」の意識に寄っていきがちな経済協力を「国内から」の視線の上に置く意味合いがある。

(以下次回)

2002年10月28日掲載