1. イントロダクション
低迷が続き、閉塞状況が高まる日本経済にとって、公的、民間両部門において、抜本的な構造改革、リストラクチュアリング、創造的破壊が必要なことは改めていうまでもないであろう。もちろん、実際の改革に当たっては「総論賛成・各論反対」となる場合もあるが、改革のメニューについてコンセンサスが得られている場合も少なくない。しかしながら、さまざまな分野において改革は現実には遅々として進まず先送りされてきたため、それに対する苛立ち、失望感の広がりが、例えば、金融市場にも波及しているというのが現状であろう。このような状況を打破するには何が必要であろうか。改革の必要性を声高に繰り返し訴える前に、なぜ、改革が進まないかという問題をまず考えるべきではないか。
すぐに思い浮かぶ答えは小泉改革とセットで語られることの多い「抵抗勢力」の存在である。つまり、政府でも企業でも、「改革推進派」vs.「抵抗勢力」の綱引きという図式で改革の成否を捉える考え方である(この場合、典型的な解決の仕方は「痛み分け」(「三方一両損」)。しかし、現実には、目に見える「抵抗勢力」が存在しないにも関わらず改革が思うように進まないことも多い。これは、改革を妨げている「内なる抵抗勢力」と呼ぶべきものに着目しなければならないことを示唆している。本稿は、こうした改革を妨げているいくつかのメカニズムを日本の経済システムの中核を形成してきた取引形態の特色と結びつけて考えるとともに、改革を断行するために必要な仕組みについて考えてみたい(なお、本稿は、Tsuru(2000)の一部を大幅に書き改めたものである)
2. 長期的・継続的関係の限界
一国の経済システムの特徴を考える場合、企業(経営者)を中心として、その利害関係者との関係、例えば、労働者(雇用システム)、株主(コーポレート・ガバナンス)、債権者(金融システム)、取引先企業(企業間関係)、政府との関係に着目すると分かりやすい。戦後から80年代を通じて国際比較に基づいた日本の経済システムの特色は、長期的・継続的取引であったと考えられる(詳しくは、例えば、鶴(1994a)参照)。その長期的・継続的な取引は、情報の交換・蓄積などを通じ、特定の関係のみに有効という意味での「関係特殊な投資・資産」(例:ある企業でのみ通用するような技能)の蓄積で強化されるとともに、取引相手との間の評判・信頼関係、コミットメントの形成によって取引関係の安定、継続性が図られてきたと考えられる。
しかし、大きな経済・技術の環境変化が生じた場合、こうした特定の関係が事後的に見れば非効率的になり、当事者間で培ってきた「関係特殊な資産」が不良化してしまう場合があることは容易に想像できる。創造的破壊やリストラは、こうした非効率的な関係や資産を清算することが大きな目的なのであるが、こうした取引関係を支えていた「関係特殊な資産」は埋没化(サンク・コストとなり第三者に転売不能)してしまっているので、関係を破棄することは必ずしも容易ではない。なぜなら、不良化してしまった「関係」でも将来的に利益を生む可能性が少しでも見込めればこうした関係をずるずる続けてしまうインセンティブが生まれてしまうからである(典型例として、非効率的な企業に資金が流れ続けるという「ソフトな予算制約」が挙げられる。Dewatripont and Maskin (1995), Roland(2000)参照)。これまでの関係へのコミットメントが強ければ強いほど、評判への配慮が大きいほど、当事者たちが自らこうした関係を断ち切り、「関係特殊な資産」を「ご破算」(リセット)にするという「脅し」はクレディブルではなくなってしまう。
3. 「距離を置いた関係」の利点
このように見ると、日本的な長期的・継続的取引関係とアングロ・サクソン的な「距離を置いた関係」(arm's length relationship: 不特定多数とのマーケットを通じた短期的・スポット的取引)の利点・欠点を明確に議論することができる。つまり、長期的・継続的な取引は、経済・技術環境が比較的安定し、不確実性が少なく、高い経済成長が見込める場合には威力を発揮する。なぜなら、将来にわたって関係を続けることにより得られる利益が大きい上、関係を破棄して「関係特殊な資産」が無駄になってしまうようなリスクも小さいためである。しかし、環境条件が不安定であり、成長があまり見込めない場合、そのメリットは小さく、更に、大きな環境変化が起こった場合、取引関係のリシャッフルを阻害してしまうという欠点を持つ。一方、「距離をおいた関係」の利点は、逆に、こうした創造的破壊やリストラクチュアリングを容易に行うことができるという利点を持つ。
ここで、興味深いのは、アメリカの80 年代企業買収ブームの評価である。例えば、ハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセン教授は、企業買収による効率性上昇効果を当時から主張していたが、Shleifer and Summers (1988)は、企業買収が企業の各ステイクホールダーとの暗黙の契約を破棄することを考慮すると、そうした状況でのみ可能になるような「関係特殊な投資」へのインセンティブが低下し、アメリカ企業の競争力に悪影響を与えたことを強調した。一方、日本の製造業の高い競争力の源泉は、こうした「関係特殊な投資」を促進し、製品の絶え間ない品質改良を可能とした企業システムにあると語られてきたことは記憶に新しい。しかし、アメリカでは80年代の企業買収、90年代前半のリストラクチュアリングが60、70年代に築かれた多角化されたコングロマリットを大胆に整理し、「選択と集中」が進み(例えば、Bhagat et al. (1990), Comment and Jarrell (1995) 、Holmstrom and Kaplan (2001)参照 )、IT革命と並んでアメリカ経済の構造的変化の基盤となったことも事実であり、日本企業がいつまでもリストラに手間取っている姿とは対照的である。
4. "Coordinated failure"
長期的・継続的取引が創造的破壊を難しくしている状況は、経済システム全体で考えるとより深刻な問題となる。ある取引関係は、また別の取引関係とも結びつくというように、さまざまな取引関係は密接に関連し、コーディネートされることで、ひとつのネットワークが形成され、そのようなネットワークが更に個別の取引関係を強化することができる。このようなネットワーク、コーディネーション・システムはそれぞれの取引関係が効率的な場合においては、正の外部性を生み出し、システム全体を強化するのに貢献してきたといえる。
しかし、現在の日本経済の姿は、かつては効率的であったかもしれないが、経済環境変化の中で事後的に非効率になってしまった取引、信頼関係のネットワークに、企業を始めさまざまな経済主体ががんじがらめになり、そこから抜け出すことができないという一種の「罠」に陥っている状況といえる(鶴(1994b)参照)。これは、例えば、ちょうど、人が輪になって手をつなぎながら倒れている姿に似ている(かつては、人々は手をつないで輪になることによりダンスを行うことができた)。つまり、一人が起きあがろうと思っても両端の人に縛られて身動きできない状況である。これは、コーディネーションができないことによる失敗("coordination failure")ではなく(例えば、Cooper (1999)参照)、各主体間のコーディネーションがむしろ強すぎるためにそれぞれの主体の独立的な動きを妨げているという失敗が生じるという意味で、"coordinated failure"といえよう。
こうした状況から抜け出すためには、どうすればよいのであろうか。具体的には、上記の比喩でいえば、輪になって倒れている一人一人が手を放し、起き上がれるものが自力で起き上がっていくことが必要となる。上記の例で、各人が手を放すことは、これまでの長期・継続的な関係を一度「ご破算」することを意味する。しかし、これは、「長期的・継続的関係」から「距離を置いた関係」へのパーマネントな移行を必ずしも意味するものではない。各人が手を放して起き上がった後、また、他の相手と手をつないで長期的な関係を構築するか、「距離をおいた関係」に徹するかは、いろいろな可能性があるであろうが、ここでは、起き上がるためには、一時的に手を切ることが必要であることを強調したい。
5. 「コントロール権の移転」の重要性
こうした問題に対処する方法としては、まず、こうした取引関係のガバナンス構造における「コントロール権の移転」が挙げられる。具体的には、企業買収などの「経営権市場」(market for corporate control)のメカニズムのように、さまざまな取引関係のコントロール権を当事者から「アウトサイダー」に移転させることである(広い意味での「外圧」メカニズムも同様)。ここで重要なのは、企業の場合、単に、経営者の首をすげ替えればいいという話ではないことである。「経営権市場」が発達しておらず、取締役の内部昇進の割合が高い日本の場合、経営者が変わっても、次の経営者も内部昇進の同じタイプ、伝統を引き継いだ「金太郎飴」の場合が多い。過去の経緯を知らない、しがらみとは無関係な「アウトサイダー」でなければ大胆なリストラは容易でないことは、日産のゴーン氏の活躍をみれば一目瞭然である。過去の経営者も問題点や改革の必要性は熟知していたであろうが、改革は自らの過去の経営判断否定やそれを「裏切り」と捉える利害関係者の反発につながるため("reputational concerns")、改革が先送りされてきたからである。
このようにみれば、銀行の不良債権問題解決のためには抜本的な「コントロール権の移転」、例えば、Dewatripont and Tirole (1994)が主張するような当局への移転も1つの方策であろう(国有化)。しかし、金融当局も不良債権処理先延ばしの当事者であったとすれば、当局自身も責任逃れのためそれを望まないであろう。外資等の新たな関与がなければ難しいかもしれない。また、企業買収という劇薬を使わなくても、トヨタやソニーなどの超優良企業は、90年代、必ずしも主流派とはいえない人をトップに選ぶことで過去の成功体験にとらわれることなく更なる飛躍を遂げたことも、広い意味での「コントロール権の移転」の枠組みで理解することができる。さらに、政治の舞台でも、大きな派閥を率いる総理と派閥のしがらみが少ない総理を比べれば後者の方が抜本的改革を成功させる可能性は高いといえる。
6. モジュラー化の役割
第二は、組織形態の変革である。具体的には、がんじがらめになったネットワークからある部分を独立させて、他の影響から遮断する方法である。モジュラー化、カプセル化、Mフォームといった手法がそれであり(例えば、青木(2001)第14章参照)、企業組織でいえば、分社化や純粋持ち株会社を使った再編である。組織から不良部分が切り離されるとともに、優良部門が他の部門とのコーディネーションや内部補助に煩わされることなく成長できるような仕組みが重要である。また、こうした組織の独立化は必然的に「コントロール権の移転」を伴うことになる。「コントロール権の移転」と組織内の資源配分を考慮すれば、例えば、不良債権の直接償却(バランス・シートからの切り離し)と間接償却の違いが銀行にリアルな影響を持つことは明白である。一方、非効率的な部門(銀行、省庁、特殊法人など)でしばしば見られる組織統合化はまったくナンセンスであり、改革の大きな妨げになっていることを十分理解する必要がある。
7. 危機の発生と包括的な「コントロール権の移転」
こうした手法が更に効果を挙げるためには、なるべく同時に実施されることが重要である。コントロール権の移転をあまねくかつ一括に行う意義は歴史的にみても、諸外国の例をみても大きい。例えば、終戦直後のGHQへの「コントロール権の移転」と過去の指導者、経営者の公職追放は、過去の経緯を一度に断ち切って、若い指導者・経営者に活躍の機会を与えることを容易にしたと考えられる。また、アジア危機の際にIMFに一時的にコントロール権が移転する形で急速に改革を進めた韓国もこうした例の1つであろう。一方、民営化がインサイダー・コントロール(共産党時代の経営者の居座り)という結果になってしまったロシアは、市場経済移行という大きな環境変化にもかかわらず、過去のしがらみを断つ絶好の機会を逃してしまったといえる。
もちろん、こうした包括的な「コントロール権の移転」が起こったのは、上記のいずれの場合も大規模な危機が実際に発生してからである(危機と改革の関係については、例えば、Rodrik (1996)参照)。90年代からの金融危機に対する我が国の対応を振り返っても、実際に危機が起こって初めてそれに対する(場当たり的な)対応がなされてきた(最近では要注意先債権に対する金融庁の特別検査もマイカルの破綻がきっかけ)。これは、真の改革が実施されるためには、あたり一面が「焼け野原」になるまで待たなければならないことを意味しているのであろうか。たとえそうだとしても、その時は過去の経緯やしがらみをかかえた旧指導者、経営者ではなく、明治維新の時のように新たな発想と活力を持った若い人々が大きな白紙に向かって思いっきり日本のグランド・デザインが描けるような状況であることを切に望みたい。