中国経済新論:実事求是

TPPを巡る議論の忘れ物

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

(『あらたにす』新聞案内人 2011年3月10日掲載)

日本では、日米両国を中心とする環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP: Trans-Pacific Partnership)を巡る議論が盛んである。昨年10月以来、朝日新聞、日本経済新聞、読売新聞の3紙の社説だけでも、このテーマを7回取り上げている()。しかし、TPPに参加することによって対外開放を迫られる国内の農業が受ける打撃とそれを和らげるための対策だけが焦点となっており、日本の最大の貿易相手国となった中国が加わらないTPPに参加することが日本にとって最良の選択なのかという議論は欠けたままである。

「東アジア共同体」からTPPへ

民主党政権は、2009年9月に誕生した当初、アジア外交の強化を目指すべく、中国を含めた東アジア共同体の可能性を模索した。しかし、2010年9月7日の中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突に端を発する一連の事件によって、日中関係が悪化したことをきっかけに、米国を軸とする太平洋地域との経済連携に方向転換した。特に、日本側が漁船の船長を拘束したことに対して、中国が日本向けのレアアースの輸出停止や通関手続きの強化などの対抗措置を採ったことで、両国間の対立は、政治面にとどまらず、経済面にも及ぶようになった。これを受けて、日本では、軍事面における日米同盟だけでなく、経済面においても、米国との関係を強化し、中国をけん制するという機運が一気に高まった。

その一環として、2010年10月1日、菅首相は衆参両院本会議における所信表明演説で、初めてTPPへの参加を検討すると表明した。それに続いて、11月9日に政府は「包括的経済連携に関する基本方針」を決定し、TPPについて「関係国との協議を開始する」と明記した。さらに、菅首相は2011年1月24日の施政方針演説で、TPPの交渉参加問題を改めて政権の最重要課題の一つに掲げ、「今年6月をめどに参加交渉について結論を出す」と宣言した。

TPPは、2006年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国によって始まった自由貿易協定(FTA)の一種で、米国や豪州など9カ国が参加しようと交渉を進めている。TPPに参加すると、域内の貿易では、原則として主要農産物を含む全品目について関税が撤廃される。加盟国、または加盟交渉に参加している国の中で、米国を除けば、いずれも経済規模の小さい国であることに鑑み、日本が加盟すれば、TPPは、事実上の日米FTAになると広く受け止められている(「事実上の『日米FTA』に TPP参加で関税撤廃」、日本経済新聞、2010年11月10日付)。

高まる中国への輸出依存

しかし、こうした政治的思惑とは裏腹に、日本の対外経済関係の重心は着実に米国から中国にシフトしている。日本の対中輸出依存度は、2000年の6.3%から2010年には19.4%に上昇しており、その一方で、対米輸出依存度は、29.7%から15.4%に低下している。対米の低下幅は、対中の上昇幅とほぼ一致している。これを反映して、2009年に戦後初めて、中国は米国に取って代わって日本の最大の輸出先になった。2009年の中国のGDP規模はまだ米国の3分の1程度に過ぎないが、中国の成長率が米国を大きく上回っていることや、人民元がドルに対して上昇傾向にあることを考えれば、米中GDP逆転も視野に入っている。これを背景に、日本の輸出の米国から中国へのシフトは今後いっそう進み、2020年頃には、対中輸出は、輸出全体の3分の1を超えるだろう。日本に限らず、ほとんどの国は、発展の著しい中国への輸出依存度を高めており、中国は米国に取って代わって世界経済をけん引するエンジンとなった。

一方、中国は、近隣諸国・地域などと積極的にFTAを結んでいる。2002年に中国・ASEANの全面的経済協力枠組協定が締結され、2004年から関税の段階的引き下げを経て、2010年1月に中国とASEANのFTAが全面発効した。また、2003年に中国は香港とマカオの間で相次いで経済貿易緊密化協定を締結し、いずれも2004年1月1日に発効した。さらに、2010年6月に台湾とのFTAである海峡両岸経済協力枠組協定が調印され、その中で双方は相手側からの輸入を対象とする関税を2011年から段階的に引下げ、2013年1月までにゼロ関税を実現することに合意した。その他、中国は、パキスタン、チリ、ニュージーランド、シンガポール、ペルー、コスタリカといった国々ともFTAを結んでいるが、日中FTAはまだ交渉の対象にもなっていない。

中国とFTAを結んだ国・地域は、原則として無関税で中国向けに輸出できるが、中国とFTAを結んでいない日本は、中国に輸出する際、関税分を価格に上乗せしなければならず、激しさを増す中国市場での競争において不利な立場にある。

その上、関税の壁を乗り越えるために、本来国際競争力を持っている一部の日本企業は、中国での現地生産・現地販売に踏み切るか、ASEAN諸国など、中国とFTAを締結している国に進出し、中国に「迂回輸出」せざるを得なくなる。いずれの場合においても、中国市場にアクセスする手段として、「輸出」から「直接投資」に切り替えざるを得ず、その結果、国内の雇用機会が失われてしまうのである。

日中FTAのすすめ

しかし、日本が中国とFTAを締結すれば、国内で生産しても、自由に中国向けに輸出できるようになる。その結果、自動車をはじめとする日本の基幹産業はわざわざリスクを負って中国に進出する必要がなくなり、付加価値の高い分野で多くの雇用機会が国内で創出されるのである。このように、日本にとって、中国とのFTAは空洞化対策を超えて、有効な成長戦略となる。

むろん、貿易自由化を進めるためには、日中二国間のFTAにとどまらず、より多くの国が参加するTPPのような広域なものが望ましい。したがって、日米両国は、中国をTPPから排除するのではなく、それに取り込むべきである。

2011年3月15日掲載

脚注

^ TPPを取り上げた三紙の社説は次の通りである。
「TPP参加へ農業改革の方向早く示せ」日本経済新聞2010年10月29日付
「TPPへの参加表明を腰砕けにするな」日本経済新聞2010年11月7日付
「TPP方針 『平成の開国』は待ったなしだ」読売新聞2010年11月10日付
「TPP参加へ人材鎖国や規制も見直せ」日本経済新聞2010年11月10日付
「TPPと農業 衰退モデル脱却の好機だ」朝日新聞2010年12月20日付
「TPP交渉への動きが遅すぎる菅政権」日本経済新聞2011年1月24日付
「日豪EPA 早期合意がTPPの試金石だ」読売新聞2011年2月12日付

2011年3月15日掲載