一、はじめに
米国発の金融危機が深刻化するにつれて、ドルへの信認が問われるようになり、国際通貨体制改革を巡る議論が活発化している。中でも、周小川・中国人民銀行行長(総裁)が第2回G20金融サミット(ロンドン金融サミット)を前に発表した「国際通貨体制改革に関する考察」(2009年3月23日、中国人民銀行のウェブサイトに掲載)という論文が世界中の主要メディアに大きく取り上げられ、話題を呼んでいる。周総裁は、この論文の中で、特定の国の通貨が「準備通貨」(=基軸通貨)の役割を兼ねる現在のドルを中心とする国際通貨体制の限界を指摘した上、主権国家の枠を超えた準備通貨の創出を提案している。具体的に、ドルの代わりに、IMF(国際通貨基金)のSDRを準備通貨にすべきだと主張している(BOX1)。
二、周小川・中国人民銀行総裁による提案
まず、周総裁は、現行の国際通貨体制に存在する弊害とその限界について次のように指摘している。本来、望ましい準備通貨の条件として、その供給量の調整に当たっては、世界全体の状況と利益に配慮しなければならない。しかし、現在のドルのように特定の国の通貨が準備通貨として使われる場合、それを発行する国は常に自国の利益を優先させ、その政策により世界経済が不安定化する恐れがある。今回の金融危機は、その当然の帰結である。
このような反省に立って、周総裁は、主権国家の粋を超えた準備通貨の創出が必要であり、それに向けて、IMFのSDRの機能を拡充すべきだと提案している。最終的には、流動性の高いSDR債券市場を形成し、ドルにとって代わって、SDRが準備通貨になることを想定している。
具体的に、SDRが政府あるいは国際機関同士の決済にしか使用できない現状を改め、その使用範囲を次のように拡大すべきだとしている。
①SDRとその他の通貨との決済の枠組みを確立し、SDRの使い道を国際貿易や金融取引に広げるべきである。
②国際貿易、取引量の多い商品の価格表示、投資及び企業の会計報告においてSDR建ての使用を積極的に推進する。
③SDR建ての資産を積極的に作り出す。
④SDRの価値決定・発行方式を更に整備する。SDRの価値決定に用いるバスケットの構成通貨に新興国の通貨を加え、各通貨のウェイトを決める際、それぞれを発行する国のGDP規模を考慮する。
その上、周総裁は、IMFが構成国の一部外貨準備を集中管理することを提案している。これは、国際社会の危機対応・国際通貨金融体制の安定維持の能力強化に資するのみならず、SDRの役割を強化する有力な手段としても期待できるという。
主権国家の枠を超えた準備通貨の創設については、1940年代のJ.M.ケインズの提案に遡り、周総裁(または中国)の独自の構想ではない(BOX2)。最近に限っても、今年3月16日に発表されたロンドン金融サミットに向けたロシア政府の提案や、2009年3月19日に発表された国連の「国際金融・経済体制改革」専門家パネル(ノーベル経済学賞を受賞したコロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授が議長を務める)の提案にも類似する項目が含まれている。周総裁の論文が、それらより一歩遅れて発表されたにもかかわらず、これだけ大きな反響を呼んだのは、米国の覇権への挑戦者と目されるようになった中国の考え方とそれに基づく行動が、世界経済に対して大きいインパクトを与えると予想されるからである。
三、中国の狙い
中国の言動が注目される中で、胡錦涛主席は、4月2日に開催されたロンドン金融サミットでの演説において、SDR構想こそ触れていないものの、周小川論文と同様に国際通貨体制改革の必要性を訴えている。具体的に、今後目指すべき改革として、「IMFは各方面、特に国際準備通貨を発行する国のマクロ経済政策への監督を強化・改善し、中でも通貨発行政策の監督を強化すること」、「国際通貨体制を改善し、準備通貨の発行管理メカニズムを完備し、主要準備通貨の為替レートの相対的安定を維持し、国際通貨体制の多元化、合理化を促すこと」を挙げている。中国がこのタイミングを捉えて国際通貨体制のあり方について積極的に主張する狙いは何であろうか。
まず、中国は、米国をけん制しながら、新しい国際金融秩序の構築に向けて自らの発言力を高めていきたい。
米国では、今回の金融危機の原因の一つは、中国など新興国の高い貯蓄率が世界経済の不均衡を呼び、米国に流れた大量の資金がバブルの膨張を招いたことにあるという見方がある。つまり、中国がスケープゴートとされたのである。これに対して、温家宝総理はすでに「今回の金融危機の引き金は、米国が長期にわたって双子の赤字と借金に頼って高消費を維持するという、深刻な不均衡に陥ったことにある」と反論している(「フィナンシャル・タイムズ」の単独インタビュー(2009年2月1日付)。今回の周総裁の論文は、新たにドルを中心とする現行の国際通貨体制の欠陥を指摘し、米国が節度のある経済運営に努めなければ、中国としてドルに代わる準備通貨を検討する用意があるという警告とも取れる。
周総裁の提案に対して、オバマ大統領は、投資家らが米国を「世界で最も安定した政治制度を持つ、世界最強の経済大国」と見なしていることを強調し、新しい「国際通貨の創設は必要ない」と強気を装っている(3月24日にホワイトハウスで行われた記者会見での発言)。しかし、中国の攻勢を受けて、米国が守りの態勢に追い込まれているようにも見える。
また、中国はすでに保有している大量の外貨準備の価値を維持するために、その運用の対象をドルから他の通貨に分散させる必要性に迫られている。2009年3月現在、中国の外貨準備は1.95兆ドルに上り、その大半は米国債をはじめとするドル資産で運用されている。米財務省の統計によると、中国が保有する米国の証券残高は1.2兆ドルに達している(2008年6月現在)。これまでドル資産は安全だと思われていたが、今回の金融危機を経て、その保有に伴うリスクが広く認識されるようになった。
実際、温家宝総理は、今年の全国人民代表大会終了後の記者会見で、「我々は巨額の資金を米国に貸したのだから、我々の資金が安全かどうか気になるのは当然だ。本音を明かすと、確かに少し懸念がある」と明言した(3月14日)。温家宝総理が心配しているのは、米国政府による債務不履行よりも、保有している(またはこれからも増え続けるだろう)米国債の購買力が維持できるかどうかである。米国債はドル建てになっているので、米国政府はいつでもドル札を刷って、それを債務の償還に充てることができる。しかし、ドルが乱発されるようになると、米国でインフレが起こり、ドル金利が上昇し(債券価格が低下し)、ドルも下落するだろう。その結果、米国政府が約束通りに金利を支払い、国債を償還しても、戻ってくるドルの購買力が下がってしまうのである。
周総裁の提案通り、SDR建ての債券市場が発達すれば、中国は外貨準備に占めるドル建て資産の割合を減らす代わりに、SDR建ての資産の割合を引き上げるだろう。SDRは複数の通貨から構成されるので、SDR資産に投資することは、複数の通貨に同時に投資するのと同じような為替リスクの分散効果が期待できる。
四、SDR準備通貨体制への課題
しかし、SDR準備通貨体制を実現するためには、克服しなければならない課題がまだ多い。
まず、SDRを発行するIMFは米国をはじめとする先進国の出先機関という性格が強く、これらの国の賛同がなければ、周総裁の提案を実現できない。IMFにおいて、各国の議決権は出資金額(クォータ)に比例しているが、現在、米国は16.77%という高いシェアを持っているだけでなく、重要な事項において実質上の否決権を持っている。また、IMFの歴代の専務理事はヨーロッパ出身者によって占められている。これに対して、中国のシェアは3.66%にとどまっている。IMFにおける中国の発言力を高めていくためには、自らの出資のシェアを増やす一方で、米国やヨーロッパ諸国のシェアを下げてもらわなければならない。これは、欧米諸国がこれまで持っている既得権益を放棄することを意味するだけに、難航が予想される。
また、SDR建て債券市場について、運用の面では需要があっても、調達の面において債券発行による供給がついていかなければ、市場が成立しない。このようなミスマッチを解消していくために、世界最大の借り手である米国政府が資金を調達する際、一部の為替リスクを分担する形で、ドル建てからSDR建てに切り替えていくことが求められる。しかし、ドル体制が動揺し、ドル建てでの米国債の発行が困難になるという最悪の状況にならない限り、米国政府は、積極的に参加しないであろう。
さらに、周総裁も認めているように、安定的で各国が受け入れられる新たな準備通貨を実現するには、長い時間がかかるだろう。中でも、ケインズが構想した国際通貨単位を設立することに至っては、「人類にとって大胆な構想であり、その実現のためには各国政治家が非凡な先見性と勇気を引き出すことが必要である。」これが期待できない以上、主権国家の粋を超えた準備通貨は実現できないであろう。
このように、中国発のSDR準備通貨構想は、あくまでも米国をけん制し中国の発言力を高めるための手段であって、本気で目指す目標ではないように思われる。そうだとすれば、中国にとって、周論文の本当の目的はすでに達成されていると言える。
BOX1:SDRとは
SDRとは、加盟国の既存の準備資産を補完するために1969年にIMFが創設した国際準備資産であり、IMFのクォータ(出資金)に比例して加盟国に配分される。SDRはIMFや一部の国際機関における計算単位として使われており、その価値は主要な国際通貨のバスケット(加重平均)に基づいて決められる。バスケットの構成は、世界の貿易及び金融取引における各通貨の相対的重要性を反映させるよう、5年ごとに見直されるが、2006年以降、各構成通貨のウェイトは、ドルが44%、ユーロが34%、円とポンドがそれぞれ11%となっている。
BOX2:これまでの「主権国家の枠を超えた国際通貨構想」
主権国家の枠を超えた国際通貨構想は昔からあった。その中で特に知られているのは、20世紀の最も偉大な経済学者とされるJ. M.ケインズ(1883年-1946年)と、R.トリフィン(1911-1993年)イェール大学教授の提案である。
1944年にアメリカのニュー・ハンプシャー州ブレトンウッズで開催された会議で、戦後の国際通貨体制の枠組みを巡って、新たな国際通通貨としての「バンコール」(Bancor)を発行する清算同盟の設立を主張する英国代表ケインズと、「ドルを基軸通貨」と主張する米国代表のH. D. ホワイトが激しく対立した。最終的には、ケインズ案が棄却され、米国の政治力をバックにホワイト案に沿ってドルを基軸通貨とするブレトンウッズ体制ができたのである。
1960年代になると、トリフィン教授は、当時のブレトンウッズ体制の内在的欠陥として、基軸通貨国である米国が貿易収支の均衡を維持しようとすると世界経済がドル不足に陥る一方、米国の貿易収支が定常的に赤字になればドルが過剰になりドルへの信任が低下することを指摘した。この「トリフィン・ジレンマ」を解消するために、特定の主権国家とリンクしない準備通貨の創出を提案し、これは1969年にSDRが創出されることにつながった。
主権国家の枠を超えた国際通貨構想が実現されたケースもある。共通通貨として1999年に発足したユーロはその好例である。ユーロは、すべての国が採用することを想定したケインズのバンコールと違って、それを採用するのがヨーロッパの一部の国に限られるが、複数の国による合意に基づいて作り出された通貨であるという意味において、ケインズの提案と共通している。
2009年4月30日掲載