2007年7月に東洋経済新報社より『中国を動かす経済学者たち-改革開放の水先案内人』が出版された。出版社のご厚意によりはしがき部分と本書の目次を転載する。
はじめに
中国は、1970年代末以降から、経済発展と体制移行の同時進行という歴史的大転換期にある。貿易量とGDP規模がそれぞれ世界の第三位と第四位に浮上するなど、グローバル大国としての存在感も日増しに強まっている。中国の多くの経済学者は、この千載一遇の時機をとらえ、活発な政策提言や世論形成を通じて改革に直接的または間接的に参加しており、中国的特色のある経済学が形成されつつある。
日本や欧米では経済学者たちはトップと目される学術誌で論文を発表することで業績を競うのに対して、中国の経済学者たちは政府への政策提言に熱心であり、自らの使命が中国経済そのものを発展させることであると自負している。彼らにとって経済学は象牙の塔における空理空論ではなく、13億人の運命を左右する経世済民の学問なのである。
ジョン・M・ケインズは「どのような知的影響とも無縁であると自ら信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である」という有名な言葉を残している(注)。ここで言う「実際家」を「計画経済の時代の中国指導部」とするならば、「過去のある経済学者」はカール・マルクスであったと言って異論はあるまい。
だが1970年代末に国の方針が改革開放に転換されてから、中国の政策決定において、マルクス主義の影響は小さくなりつつある。代わって公平よりも効率を重視する、フリードリヒ・A・ハイエクに象徴される「新自由主義」とロナルド・H・コースが確立した「新制度経済学」が大きな影響力を持つようになっている。欧米への留学や文献を通じてその啓発を受けた中国の経済学者は、「新自由主義者」と呼ばれ、中国の学界と論壇において、主流派の地位を固めている。
しかし、市場経済化が急速に進み、所得の二極分化が顕著になる中で、政府は効率性よりも公平性を重視する「新左派」という非主流派経済学者の意見をも取り入れるようになっている。そして、「新自由主義者」と「新左派」の間では、貧富の格差にどう対応するか、国有企業を民営化すべきかどうか、市場経済化の功罪はいかなるもので、それにどう向き合うか、といった多くの政策課題を巡って、論争が繰り広げられている。
この論争の主役たちの大半は、1950年代に生まれ、文化大革命が終わった後、大学入学統一試験が再開された1977年以降に大学に進学した世代に属している。彼らの多くは、文化大革命の時代に農村に「上山下郷」(農村に学べとして若者が大量に僻地の農村に移動させられたこと)を経験し、虚しい青春時代を過ごした。それゆえ彼らが経済学を志した背景には、社会を変革するという明確な意識があった。実際、中国の経済学者は、改革開放の水先案内人としての役割を果たしてきた。彼らの知見と努力がなければ、中国はロシアと同じように、もっと紆余曲折に満ちた移行過程を経験せざるをえなかったに違いない。
かつて、中国経済を分析する際、共産党や政府などの文献(いわゆる「大本営発表」)に頼らざるをえなかった。しかし、政策にも大きな影響力を持つ経済学者を中心に活発な論争が交わされるようになった今、彼らの思想体系を知らずして中国経済は語れない、と筆者は痛感している。実際、筆者のもとに、「中国の経済論壇で影響力を持っているのは誰か、その人たちはどのような主張をしているのか」という問い合わせも頻繁にくるようになった。そのような認識は独り筆者だけのものでなく、日本の研究者や政策担当者、ジャーナリスト、それに企業トップの方々も、同様の関心を持っていることがうかがえるのである。
筆者が中国人経済学者に興味を持つようになったのは、新制度経済学のパイオニアの一人である張五常(チョウ ゴジョウ、Steven N. S. Cheung)香港大学教授が1980年代の半ば頃から発表した、中国の経済改革に関する一連の著書との出会いにさかのぼる。1990年代に入ってからは、ポスト文革という若い世代の経済学者の研究成果にも接し、大いに感銘を受けた。さらに、近年、さまざまな研究交流を通じて、本書に登場するような中国を代表する経済学者に直接教えを請う機会が増えてきた。
筆者はこれまでも、中国における経済学と政策論議の新潮流を少しでも日本の読者に伝えようと、1998年に林毅夫(リン イーフ)らの著作を監訳し(『中国の国有企業改革』、日本評論社)、2003年には、樊綱(ファン ガン)の著作を日本語でまとめた(『中国 未完の経済改革』、岩波書店)。また、2001年に経済産業研究所のサイト内に『中国経済新論』というコーナーを立ち上げた際には、「中国の経済改革」、「中国の新経済(ニュー・エコノミー)」、「世界の中の中国」、「日中関係」と共に、「中国経済学」をメイン・テーマとして取り上げ、中国の経済学者の作品を含めて、情報を発信してきた。本書は、そこで紹介した論文を参考にしながらも、研究を深めたうえで、書き下ろしたものである。
本書の狙いは、経済改革を進めている中国において、政策と世論形成に大きな影響力をもつ経済学者の主張を紹介することを通じて、中国経済の現状と課題を日本の読者に理解していただくことである。中国の経済学者の主張がいかに形成されたかを解明するために、彼らの生い立ちや経験、そして経済学と中国の経済発展にかけた思いについても詳しく紹介している。
筆者は、中国の経済改革についてすでに、これまでの経緯と今後の展望を中心にまとめた『中国経済のジレンマ』(筑摩書房、2005年)と、現状への診断書と処方箋を提示した『中国 経済革命最終章』(日本経済新聞社、2005年)の2冊を出版したが、本書とこれらを合わせてご覧いただければ、読者はより立体的に中国経済をとらえることができるようになるだろう。
最後に、本書の資料の作成と文章の校正に当たり、石原公子氏、山本めぐみ氏、于洋氏、寿金昼氏の協力をいただいた。また、東洋経済新報社の佐藤朋保氏は、日本では未開拓の分野である本書のテーマに挑戦したいという筆者の提案に賛同し、励ましてくださった。この場を借りて、皆さんに感謝の気持ちを表したい。
目次
- 序章 経世済民の時代
- 第1章 マルクス経済学から新制度経済学へ
- 第2章 計画経済から市場経済への移行
- 第3章 新自由主義者に挑戦する新左派
- 第4章 所有制改革の立役者:董輔礽と厲以寧
- 第5章 市場経済の立役者:呉敬璉
- 第6章 中国制度学派のパイオニア:張五常
- 第7章 海外で活躍した経済学者:楊小凱と銭穎一
- 第8章 「洋博士」の代表格:林毅夫
- 第9章 国情研究の第一人者:胡鞍鋼
- 第10章 ポスト文革世代の代表格:樊綱
- 第11章 民営化を巡る大論争の主役:郎咸平と周其仁
- 第12章 企業家の味方:張維迎
- 第13章 経世済民の学問としての経済学
『中国を動かす経済学者たち ~改革開放の水先案内人~』 関志雄著、2007年8月、東洋経済新報社
2007年7月24日掲載