中国経済新論:中国経済学

憲政とビッグバン・アプローチを提唱した楊小凱

関志雄
経済産業研究所

「日本と中国を比較すると明らかなように、後発性の優位を獲得するためには、まず成功を収めた制度から学ぶことのできる優等生にならなければならない。試験に合格していない劣等生には、制度革新を語る資格はない。」

楊小凱、「後発性の劣勢、共和および自由」、北京天則経済研究所における報告、2000年12月1日

はじめに

楊小凱は、1948年吉林省敦化に生まれ、文化大革命では言論が反体制的であるとされて十年間も投獄された。しかし、服役中も独学を続け、文化大革命の終結に伴い湖南大学に入学した。1979年に大学を卒業後、中国社会科学院計量経済研究所に勤務したが、その優れた才能が認められ、1983年米国に留学、1988年プリンストン大学より経済学博士学位を取得した。その後、プリンストン大学副教授、ハーバード大学研究員、北京大学の客員教授などを歴任した。1988年にオーストラリアに移住、モナッシュ大学の経済学教授を務めた。「分業」を軸とする「新興古典経済学」(New Classical Economics)のパラダイムを提示し、理論家として国際的に高く評価されている(BOX1)。また、中国の体制改革に対し、一貫してビッグバン・アプローチと憲政の必要性を主張した。ハーバード大学のジェフリー・サックス(Jeffrey D. Sachs)教授との共著であるDevelopment Economicsをはじめ、中国経済のみならず経済理論に関する著作も数多く発表した。

波乱万丈の人生

楊小凱は伝説的な人物である。本名を楊曦光といい、16歳のときに書いた文章「中国は何処へ行く」が原因で、文化大革命に巻き込まれ、1968~1978年の20代の十年間を、楊小凱は牢獄で過した。しかし、彼は逆境にもめげず、同じく投獄された教授、技術者らから数学、英語、材料力学、機械学などを学んだ。「資本論」を何回も繰り返して読んでいるうちに、労働価値論の欠陥を見つけ、古典経済学を構築する意識が芽生えた。これがその後の「新興古典経済学」の誕生につながった。

運命の女神は楊小凱を見捨てなかった。文化大革命の終息とともに、楊小凱は転機を迎えたのである。1978年に出獄し、湖南大学数学学部で一年間聴講生として学び、1980年に中国社会科学院数量経済研究所の修士課程に入学した。1982年修士課程を卒業し、武漢大学で就職し、数理経済を教えた。

著名な華人経済学者であるプリンストン大学の雛至庄(Gregory Chow)教授との出会いによって楊小凱は再び人生の転機を迎えた。彼の数理経済学における能力が雛教授に認められ、1983年にプリンストン大学への留学を推薦されたのである。プリンストン大学では、国際貿易研究の権威であるアビナッシュ・ディキシット(Avinash Dixit)とジーン・グロスマン(Gene Grossman)に師事し、1988年に博士号を取得した。その後、オーストラリアに移り、モナッシュ大学で教鞭を取るようになった。彼の論文はAmerican Economic Review, Journal of Political Economy, Journal of Development Economicsなど一流の学術誌で発表され、理論派経済学者として、国際的に注目されるようになった。

特に、1986年にノーベル経済学賞を受賞したジェームス・M・ブキャナン(James McGill Buchanan)は、楊小凱が提唱した新興古典経済学を今日の最も重要な経済学研究成果と評価し、2002年、2003年の二回にわたって、自ら楊小凱をノーベル経済学賞の候補としてノミネートした。また、共著者でもあるハーバード大学のジェフリー・サックス教授は、楊小凱が現代における最も洞察力の優れた経済理論学者の一人であると同時に、経済学者の中で最も創造力のある学者の一人であり、経済学の現代理論、特に発展理論のミクロ基礎に大きく貢献していると称えた。

楊小凱は海外にいながらも、祖国の発展から目を離したことはなかった。特に1998年以降は、北京大学や復旦大学の客員教授を努めるなど、中国を頻繁に訪れた。楊小凱は中国の体制改革に対し、一貫してビッグバン・アプローチと政治改革の必要性を主張した点で、体制に近い国内の「主流派経済学者」とは一線を画している。彼のドラマチックな経歴と、日増しに高まる国際的名声も加わり、楊小凱は、中国の国内でも、注目されるようになった。

しかし、残念なことに、輝かしい成果をあげ、研究生涯の最盛期を迎えた楊小凱は、2001年に肺がん末期であることを告げられ、2004年7月に55歳の若さでその波乱万丈の人生を終えた。

経済発展における優位と劣位

経済発展のプロセスにおいて後発者は、先進国の制度よりも技術を模倣する傾向が見られるが、楊小凱は、これが後発性の劣位を招いてしまうと次にように警告している(「後発性の劣勢、共和および自由」、北京天則経済研究所における報告、2000年12月1日)。

楊小凱によれば、制度革新を行うことは従来の社会に対する変革を意味し、大規模な利害調整が必要になるため、常に大きな苦痛と高いリスクが伴う。従って、技術模倣の余地が大きいほど、制度改革が速まるどころか、むしろ改革が遅れてしまう恐れすらある。しかし、制度革新の代わりに技術ばかりを模倣することは、短期的には効果的であっても、長期的に見ると、コストがきわめて高く、最終的には失敗してしまうことになる。

日本の明治維新とほぼ同時期に行われた清朝の「洋務運動」が対照的な結果をもたらしたことは一つの好例である。日本政府は真剣に資本主義制度を模倣した。日本政府は初期には企業の本質を知らず、少数の「模範工場」を作ったが、それ以外は基本的に国営企業を作らなかった。しかも、その後まもなく「模範工場」を売却し、国営企業を一切作らなかった。そして、政治制度も西側の模倣をし、天皇制を維持しながらも、政党の自由や議会政治を行った。

これに対して、「洋務運動」に挑んだ清朝は、基本的に政治制度を変えないという条件の中で、国営制(政府が経営)、合資企業(政府と民間の合弁)、請負制(政府が監督し、民間が経営)を通じて、技術の模倣だけを頼りに、工業化の達成を図っていた。それまでの中国経済と比較すれば、「洋務運動」はそれなりの経済効果を上げたが、政府の都合を優先するあまり国民の利益を犠牲にしてしまう「国家の機会主義」を制度化させ、政府と民間との利益の奪い合いを招いた。つまり政府はゲームのルールの制定者でありながら、ゲームに直接に参加し、しかも裁判まで担当していたのである。そのため、民間経済の発展が妨げられることになった。さらに、「洋務運動」の中で、政府は一貫して国営企業の主導的な地位を維持し、資源に対する独占を試みたため、多くの民営企業は国営企業に並ぶほどの競争力を持たなくなっていた。

今日、政府によって企業を興すという制度が全く役に立たないことは一目瞭然である。しかし、80年代以降の中国では、国営制、合資企業、請負制の下で、香港や台湾のように、労働集約輸出型から新しい工業化への転換を行い、さらに西側の新しい技術を模倣することで、工業化を実現させるという政策が成功を収めた。これは「制度革新」の成果であると多くの人が指摘している。しかし、このような短期間の成功は、同時に「後発者に対する呪い」を意味するかもしれないのである。制度革新の代わりに、技術模倣を採用することは長期的にみれば、後に非常に高いコストを支払うことを意味するものである。

80年代の中国電気製品の発展は基本的に国有企業(当時は国営企業と呼ばれていた)の主導の下で行われた。この発展のプロセスは制度改革の代わりに技術改革を行うという典型的なプロセスを踏襲していた。プラント輸入そのものは技術模倣であるし、私有化を採用しないことも、基本的に制度改革の代わりに技術改革を採用する方策そのものである。政府の銀行、保険、自動車製造や通信などの業界における独占や、制度改革の代わりに新しい技術や資本主義的な管理方法を選択したことも、中国の後発性の劣位に当る。このような後発性の劣位がもたらす最大の弊害は決して国有企業の低効率ではなく、むしろ「国家の機会主義」を制度化し、政府がルールの制定者でありながら、同時にプレイヤーともなることにある。このような制度の下では、国有企業の効率が高ければ高いほど、長期の経済発展に不利である。

株式市場はもう一つの後発性の劣位の例である。中国株式市場のハードウェア面での条件はすでに国際水準に達している。しかし民営企業の上場が厳しく制限され、民営の証券会社の開業も許可されない結果、株式市場は株主たちから利潤を吸い上げ、それを低効率の国有企業に回す道具にすぎなくなってしまった。庶民の言葉を引用すれば、「財政を食い尽くしたら、銀行を食い尽くす、銀行を食い尽くしたら、株主を食い尽くす」ということになる。

中国のあらゆる所で「科教興国」というスローガンを見かけるが、これは後発性の劣位の表れに他ならない。本当に後発性の優位を利用したいなら、「制度興国」あるいは「民主憲政興国」を主張すべきである。残念ながら、中国における市場経済化改革は、憲政と法治の建設を伴っておらず、そのため国家の機会主義的行為を許してしまった。特権階級による腐敗の横行は、その現れである。

憲政と急進的改革を提唱

楊小凱は、中国が後発性の劣位を克服するためには、技術模倣を超えて、憲政建設と急進的改革を行う必要があると次のように訴えている。(ジェフリー・サックスとWing Thye Woo[胡永泰]との共著、「経済改革と憲政移行」、『当代中国研究』、2000年、第3期。)

経済改革の核心は憲政制度への移行にあり、憲政制度の下でこそ、新しいゲームのルールが作られ、よりよい経済効果が得られるのである。しかし、制度の移行が成功したかどうか評価することは非常に難しい。その理由は、憲政改革の長期的効果は、その短期的影響と必ずしも一致しないからである。漸進的改革と急進的改革のいずれが優れているかについて、結論を急ぐべきではない。英国は、憲政制度の成立にあたって、戦争や大規模の経済衰退など非常に苦しい経験をしたが、最終的には経済成長のためのしっかりした土台が作られた。米国の内戦は憲政移行のもう一つ典型的な例である。内戦終結後の十年間、米国経済は衰退を余儀なくされたが、内戦により導かれた憲政の移行は今日の経済繁栄に大きく貢献した。

また、ロシアと東欧諸国の改革への評価は見直さなければならない。一時的な挫折から改革が失敗したと断定してはならず、中国の改革より効果が劣っていると見てもいけない。現在、東欧の多くの国は改革直後の不安定期から脱出し、高度成長期に入った。その不安定期は、フランス革命や米国の内戦と比べれば、はるかに短い。現時点では憲政移行のための長期コストが短期的経済収益よりも高いかもしれないが、長期的には効果がある。だとすれば、中国の改革の成果に対する評価も改めなければならない。

経済史とは、多くの国がそれぞれ異なった制度を試すプロセスである。たまたま自国に相応しい制度を試した国では、制度の移行は漸進的なものとなるが、逆に、相応しくない制度を試した国では、競争力のある制度を望むあまり、より急進的な移行方式が求められる。漸進的改革とショック療法の共存は、どちらかが単独に存在する場合よりも多様な制度改革への試みを誘発できる。日本の明治維新と戦後のビッグバン、そして憲政建設は急進的改革の成功例と考えられる。つまり、すべての急進的改革が失敗するという見方は正しくないのである。漸進的改革と急進的改革のそれぞれのメリットとデメリットについて中国の経済学者たちは注意すべきである。漸進的改革では、執政者に対して利益を与えることを通じて、彼らの支持を得、抵抗を減少することができる一方、国家の機会主義も制度化され、これによって損を被る人による改革への抵抗を招いてしまう。また、漸進的改革における既得権益集団による機会主義的行為や腐敗は、改革のコストとして避けられず、ショック療法に伴うコストと比べても決して小さくない。さらに、改革に伴う「純利益」を計算する際は、現在価値に換算しなければならないが、その値は時間選好を表す割引率に大きく依存する。漸進的改革のメリットを過大視し、デメリットを無視してはならない。

BOX「新興古典経済学」とは

なぜ交換が行われるのか―――。経済学の元祖であるアダムスミスは、「国富論」の中で取り上げられたピンの生産の例と同様に、その理由を「分業」によって生産性が上昇することに求めた。この「古典派」の考え方に対して、A. マーシャルをはじめとする「新古典派」の考えでは、主に比較優位に沿った「資源の配分」で説明しようとしている。現在の標準的ミクロ経済学の教科書で書かれている需要と供給や一般均衡といった枠組みも、厳密な数学モデルで展開されるようになったが、依然として「資源の配分」が焦点となっており、「分業」という側面が無視されている。この制約の下で、新古典派の理論は、失業などマクロ経済の現象や、経済成長、企業の存在などを説明することができず、それらの分野では、それぞれ新古典派と異なる独自の理論体系を形成せざるを得なかった。

楊小凱が提唱する「新興古典経済学」は、古典派の「分業」という考え方を復活させ、これを「資源の配分」を中心とする新古典派のモデルに取り入れることによって、ミクロ経済、マクロ経済、貿易の理論、成長の理論、企業の理論など、すべての経済学の分野を同じ枠組みに収めることに成功した。これは、数学の道具の面では、従来の微分に基づく「限界分析」に加えて、線形及び非線形計画の手法に基づいた「超限界分析」を活かすことによって可能になった。その故に、「新興古典経済学」は、「超限界経済学」(Inframarginal Economics)とも呼ばれている。「新興古典経済学」のパラダイムは、Xiaokai Yang, Economics: New Classical versus Neoclassical Frameworks (New York: Blackwell, 2001)に提示されている。

2006年12月27日掲載

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