中国経済新論:中国経済学

経済学における新古典主義と制度主義

盛洪
天則経済研究所理事

経済理論は、方法論に基づいて、新古典主義と制度主義という二つの対立的なアプローチに分類することができる。簡単に言えば、新古典主義は古典科学、特に物理学的な方法論を追随し、それを模倣しようとする経済学の方法論であるのに対して、制度主義は社会科学を強調する経済学の方法論である。新古典主義は、経済学が自然科学(古典科学)と同じように、実証科学であると理解しているのに対して、制度主義は経済学が自然科学とは根本的に異なっており、古典科学的な方法論を濫用する危険を、常に警告している。さらに、新古典主義と制度主義の間には、いくつか明確な違いがある。

1.研究対象の性質に関する対立。新古典主義は「物」、制度主義は「人」に、それぞれの研究対象の本質をとらえている。新古典主義の方法には、二つの形式がある。一つ目は、経済問題における人を「物」としてとらえ、その際、「人」はもはや名称上の存在にしかすぎず、原子式のような経済人とする方法である。「人」はただの「生産要素」、あるいは「需要関数」であり、それはせいぜい供給曲線上で機械的な反応しか出来ない、低級な生物に過ぎない。もう一つは、物が人と人との関係を反映していることをある程度認識しながら、人と人との関係ではなく、あくまでも物の運動に対する研究に執着する方法である。この二つの形式は、経済学の対象を「物」化した点が共通している。これに対して、制度主義は、人に対して、ロナルド・コースが「われわれは現実な人間から出発しよう」という指導に従い、懸命に人としての本質のようなものを守ろうとしている。

2.新古典主義は、人と自然との関係をメイン・テーマとしているのに対して、制度主義は人と人との関係を強調する。この違いは、先ほどの違いとも関係している。経済的プロセスにおいては、人と自然の関係は存在しているが、人と人との関係も同様に存在している。この二つの関係は、共に経済的帰結に対して影響を与えている。前者は生産活動の面に現れ、後者は取引活動の面で現れる。新古典主義は経済学を「生産の経済学」としてとらえるのに対して、制度主義は経済学を「取引の経済学」として認識する傾向が見られる。

3.新古典主義の研究では、資源配分の問題に焦点が置かれているのに対し、制度主義の研究では、人の経済行為の範囲、規則及びその原因、言い変えれば、「交換関係の中での制度」に焦点が置かれている。この違いも、これまでの説明と関連している。資源配分とは、人が「物」に対して行う配分であるのに対し、交換関係の制度とは、人間同士が関係している中で形成された規則である。前者では人は「物」としての資源配分の組立に対して選択を行うが、後者では人が他人を対象にし、その対策あるいは対策に対して選択を行う。

4.新古典主義の仮説には、絶対的な時空を想定しているのに対し、制度主義はより現実的な時空を考慮している。新古典主義における時間の概念は、静学的で、非歴史的、可逆的である。これに対して、制度主義における時間の概念は、動学的、歴史的で、不可逆的なものである。

5.新古典主義は制度を完全に無視しているわけではない。しかし制度の極限的な形式、例えば、完全競争的市場、完全独占的市場などの与えられた制度条件の中での価格、利率、賃金といった経済変数を研究の対象に限定している。これに対し、制度主義で取り上げられる制度は完全ではなく、しかも極限かつ純粋化した制度ではない。むしろ変化の中での制度であり、制度の変遷過程であるといえる。例えば、アメリカの新制度主義経済学者たちは、自分の研究を「進化経済学」と名づけている。

6.新古典主義における人と人との関係は、単純に被動的な競争関係にすぎない。これに対して、制度主義における人と人との関係は、競争関係以外に、衝突や協力関係も含まれていた。なぜなら新古典主義の仮説では、完全競争や完全独占に基づく市場を制度前提にしているため、人と人との衝突や実際に存在している競争を避けている。独占という条件の中で競争が存在しないというのは当然であるが、「完全競争の条件の下では競争は存在しない」とする主張もある。この二つのケースでは、価格は所与のものであり、利益衝突やそれによってもたらされた取引関係も存在しない。これに対して、制度主義は人と人との利益衝突を強調することから、特に人と人との間の利益衝突がもたらした取引関係の性質を重視し、取引理論を経済分析に応用しようとしている。

7.新古典主義は人の完全な合理性、制度主義は限定的な合理性を前提に仮定している。これは、認識論における両者の根本的な違いである。新古典主義では、経済学者や経済行為の主体は全知全能であり、認識過程や認識能力の変化などを完全に排除している。面白いことに、新古典主義が人の理性に対して、このような仮説をすることは、人、時空の性質及び制度前提などにおける制度上の仮説同様、問題を簡略化し、充分な理性により情報コストの計量が必要ないという目的に基づくものである。しかし、逆にそれこそ経済学者自身の合理性が限定的であることを物語っている。これに対し、制度主義では、人の合理性が限定的であることを前提としている。このため、その研究は、より複雑になっている。これは、経済学者にとっては、貴重な合理性をより多く投入しなければならないことになる。だが、多くの場合、新古典主義は、自分の仮説に異常に思い込みをかけ、本当に経済学者は完全な理性を持ち、経済過程のあらゆる部分を完全に把握できると勝手に想定したのである。これに対して、制度主義は常に限定合理性を意識するため、経済過程に対する謙虚な態度を守っている。制度主義によると、経済学者はせいぜい経済モデルを理解できるだけであり、具体的な経済変数を把握することは不可能である。

8.新古典主義は工学的なアプローチで経済や社会に臨むのに対して制度主義は、自然秩序を重視する傾向がある。新古典主義のこのような傾向は、人間の合理性に基づく社会経済体系や経済制度は、自発的に形成されたものより優れているという発想に由来するものである。これに対し、制度主義は自然秩序の観点から、自然に形成された制度こそベストな制度であると考えている。

9.新古典主義は、外生変数、例えば技術進歩を取り入れて、経済発展を解釈している。これに対し、制度主義によると、経済制度の変遷こそが経済発展の根本的な原因であり、技術進歩は制度変革の結果に過ぎない。

10.基本的には、新古典主義も制度主義も生物学的方法を否定していない。新古典主義経済学の創立者であるマーシャルは、「経済学者の目標は経済力学ではなく、経済生物学にあるべきだ」と述べた。制度経済学の一派である新制度派経済学は、自らを進化経済学と命名した。だが、実際には、生物学的方法論が新古典経済学で応用された例はほとんどなく、むしろ制度主義理論において、一役買っている。

全体的に見ると、新古典主義と制度主義という二つの異なる経済学の方法論には、それぞれの長所と短所がある。新古典主義は経済学の公理化、形式化、そして数学化を推進し、古典科学の一般的な精神を経済学という領域に取り入れたことによって、経済学がますます「科学」に近づくことに貢献した。また、新古典主義に基づいた経済学は、簡潔かつ明快な方法で経済の基本法則を明らかにし、また「最大化」や「均衡」といった概念と方法を、あらゆる経済問題の分析の基礎とみなしたため、経済学原理の把握や普及に大きく貢献した。これを受けて、新古典主義を主要な方法論とする経済学理論は、現在の経済学界においては、主流な地位を占め、教科書の中の経済学となったのである。

しかし、新古典主義の成就は、それなりの代価も伴っていることは確かである。人、時空、そして人間の合理性に対する単純すぎる仮説は、新古典主義の現実性や解釈力の欠如をもたらした。新古典主義に導かれた経済学では、「人」は物同様とみなされ、生き生きとした「人」という存在が抜け落ちている。このような経済学では、人と人との複雑な関係が省略されるため、人と人との間の経済活動やその費用に対する分析は、完全に不可能となる。同様に、絶対時空という仮説に基づくことによって、経済学者は有効な動学分析を行い、経済活動を空間的に広げることを不可能にしたのである。つまり、このような制約の中で、新古典主義に基いた経済学理論は、経済発展―人と自然界、人と人の相互作用の歴史―に対する直接的な解釈が全く出来ないのである。

このため、新古典主義の経済学を用いて、社会経済問題を解決しようとする時に、間違った日常観念を導きかねない。「新古典主義観念」を持っている人々は、よく理論仮説と現実を主客転倒し、新古典主義の仮説を事実だと思い込み、現実を「非科学的」とみなす傾向がある。

政府のレベルでも、新古典主義の観念はさまざまな過ちをもたらした。経済学者は自らの研究対象である「人」に対して抑圧を与えたのだけではなく、経済発展の尺度を経済発展そのものの代わりに、経済増長にすりかえた。これは人の成長を重視するのではなく、物質ばかりを追求する趨勢を助長した。さらにその結果として、政府が工学的態度、つまり、物理世界に対応するような機械的な方法で社会問題に臨む傾向も見られる。政府は、自身が完全な合理性を持っていると想定すると、それは即ちそれ以外のあらゆる人々が完全な合理性を持たないことを暗示する。こうした理論によれば、政府が行う資源配分こそが合理的なものであり、政府が設計し、制定した規則だけが合理性に基づくものであると信じ込み、それ以外のあらゆる人の活動は盲目なことだと判断される。だが歴史によって明らかにされたように、政府のこのような問題のとらえ方がもたらした災難は深刻なものである。

これに対して制度主義は、明らかに新古典主義の持つこのような欠点を乗り越えた。しかし同時に制度主義も新古典主義に劣る面がある。制度主義の視点では、仮に理論が誤解や災難をもたらすならば、理論が存在する意味はもはやないといった印象を人々に与える。制度主義は古典科学に教わったことは殆どなく、その風格は哲学的、思考的かつ歴史的であるため、多くの人にとって、その理論に対する理解は非常に難しい。従って、経済学界において、制度主義は未だに非主流的な地位に甘んじざるを得ない。しかしそれにもかかわらず、制度主義は人を「人」としてとらえ、人と人との関係を重視し、経済制度の作用を強調する上で、歴史過程及び空間変化に関心をもつことを鑑みれば、経済発展の研究に最も適切な方法論であることは明らかである。制度主義の方法論を主なものにし、新古典主義と制度主義を結合させ、新古典主義の長所によって制度主義の短所を補助することは、われわれが経済研究に取り組む最も有効的な手段であろう。経済学自身にも、制度主義と新古典主義との融合によって、その方法論が明快かつ簡潔、普及されやすくなると同時に、現実性や解釈の欠如性が克服されるといったメリットがもたらされるだろう。

2001年10月1日掲載

出所

『盛洪集』、黒竜江教育出版社、1996年。原文は中国語、和文の掲載に当たって、著者の許可を頂いた。

2001年10月1日掲載

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