ノンテクニカルサマリー

感染症発生届出促進ナッジ

執筆者 大竹 文雄(ファカルティフェロー)/中村 文香(和歌山大学)/杉山 巧馬(大阪大学)
研究プロジェクト 機能するEBPMの実現に向けた総合的研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

政策評価プログラム(第六期:2024〜2028年度)
「機能するEBPMの実現に向けた総合的研究」プロジェクト

1. 背景と問題意識

感染症の蔓延を抑止し公衆衛生上の意思決定を行うには、正確な発生状況の把握が不可欠である。我が国では感染症法に基づき、特定の疾患を診断した医師に対し「発生届」の提出を義務付けているが、多くの疾患において届出が実際の発症数を十分に反映していない実態が指摘されている。

本研究は、届出の主体である「医師」に着目し、その行動のボトルネックを特定するとともに、行動経済学の知見を用いた「ナッジ(注意喚起等の情報提供)」が届出意思の向上に有効であるかを検証した。

2. 分析手法:行動プロセスマップとナッジの介入実験

本研究では、梅毒、ウイルス性肝炎など全数届出対象の6疾患を対象に、医師1,100名を対象としたインターネット調査およびランダム化比較試験(RCT)を実施した。 まず、医師が診断から届出に至る工程を「義務の認知」「基準の理解」「方法の理解」「届出作業」の各段階に細分化した「行動プロセスマップ」に基づき、どの段階で行動の脱落が生じているかを分析した。 次に、以下の3種類のナッジメッセージの介入効果と、その3ヶ月後における持続性を検証した。

  1. 損失強調ナッジ:届出が行われなかった際の罰則を明記。
  2. 情報提供ナッジ:厚生労働省の公式ウェブサイトへの誘導。
  3. 利他強調ナッジ:サーベイランス情報の正確性が社会に資する意義を強調。

3. 主要な分析結果

  • 届出率の低迷と知識の欠如:各疾患の届出率は、梅毒の約63%に対しウイルス性肝炎は約27.5%に留まる(図1)。主因は「届出基準の不知」のみならず、そもそも届出が法的義務であること自体を認識していない点にある。
図1:感染症別発生届出率
図1:感染症別発生届出率
  • 環境要因による差異:定点医療機関への勤務や電子カルテの導入は、統計的に有意に届出率と正の相関を示した。
  • ナッジの即時性と限定的な持続性:RCTの結果、すべての感染症において、介入直後はいずれのナッジも医師の届出意思を劇的に高めたが、3ヶ月後の追跡調査においては、その効果はほぼ消失した(図2)。単発的な啓発活動のみでは、多忙な臨床現場における長期的な行動変容を維持し得ないことが示唆された。
図2:今後の発生届出意思に対するナッジ効果とその持続性(梅毒・ウイルス性肝炎)
図2:今後の発生届出意思に対するナッジ効果とその持続性(梅毒・ウイルス性肝炎)

4. 政策的含意:認知への働きかけから環境デザインへの転換

本研究の知見は、個々の医師の記憶や善意に依拠する「教育的ナッジ」には限界があることを示した。感染症サーベイランスの精度を抜本的に高めるには、以下のシステム的な環境設計(チョイス・アーキテクチャ)への転換が肝要である。

  • 「ジャスト・イン・タイム」の情報提供:検査受託会社からの陽性結果通知表に、当該疾患が届出対象である旨と具体的な届出基準を併記する。
  • 電子カルテへの実装:対象疾患の病名入力時に、届出様式が自動的に提示される、あるいはアラートが発出されるデフォルト設定の導入を促進する。
  • 継続的な啓発の制度化:一時的なキャンペーンに留まらず、医学教育や定期的な研修を通じて法的義務の認識を常にアップデートし続ける仕組みを構築する。

これらの方策は、医師の認知負荷を最小化しつつ、公衆衛生データの正確性を担保し、将来の新興感染症に対する強靱な社会基盤の構築に寄与する。