ノンテクニカルサマリー

最低賃金政策と企業ダイナミクスの転換―経済センサスによる再検討:生産性、雇用構成、資本を中心に

執筆者 深尾 京司(理事長)/金 榮愨(専修大学)/権 赫旭(ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 東アジア産業生産性
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

特定研究(第六期:2024〜2028年度)
「東アジア産業生産性」プロジェクト

1.背景と問題意識

日本では、2007年の最低賃金法改正以降、最低賃金が継続的に引き上げられてきた。とくに2016年以降は、全国平均毎年約3%のペースで引き上げが行われ、最低賃金政策は所得分配や生活保障の観点から重要な役割を担っている。一方で、最低賃金の引上げが企業の生産性や雇用、さらには参入・退出といった企業ダイナミクスにどのような影響を及ぼすのかについては、必ずしも明確な合意が得られていない。とくに近年は、最低賃金の上昇ペースが加速する中で、新型コロナウイルス感染症による大きな景気ショックも重なった。このような環境下において、最低賃金政策が企業行動や生産性の動学にどのように作用したのかを、包括的に検証することは政策的にも重要な課題である。

本稿は、日本のほぼすべての企業をカバーする『経済センサス‐活動調査』(2011年、2015年、2020年)を用い、最低賃金の引上げが企業の生産性、雇用構成、資本装備、ならびに参入・退出を含む企業ダイナミクスに与えた影響を再検討する。

2.分析の枠組みと特徴

本稿の分析は、以下の三つの視点から構成されている。

第一に、産業レベルでの生産性動学を把握するため、Foster, Haltiwanger and Krizan(2001)に基づく要因分解を用いて、労働生産性および全要素生産性(TFP)の変化を「企業内部の効率改善」と「企業間の再配分(参入・退出を含む)」に分解する。

第二に、都道府県別の集計データを用いて、最低賃金上昇率と生産性上昇率、ならびに各要因(内部効果、参入効果、退出効果など)との関係を分析する。

第三に、企業レベルのパネルデータを用いて、最低賃金上昇が生産性、雇用形態、資本労働比率、イノベーション活動などに与える影響を推計する。あわせて、通勤圏に基づく経済的隣接を利用した操作変数法により、最低賃金決定の内生性にも配慮した分析を行う。

3.主な結果

(1)2015年以降、日本経済の生産性成長は大きく鈍化:要因分解の結果(図)、2011–2015年には労働生産性・TFPとも比較的高い成長率を示していた一方、2015–2020年には成長率が大きく低下したことが確認された。この鈍化の主因は、企業内部での生産性改善(内部効果)の低下である。一方で、企業間の競争を通じた資源再配分を反映する共分散効果は、両期間を通じて一貫して正で大きく、日本経済において再配分メカニズムが継続的に機能してきたことが示唆される。

図 付加価値TFP上昇の要因分解分析(年率)
図 付加価値TFP上昇の要因分解分析(年率)
出所:『経済センサス‐活動調査』により著者作成

(2)最低賃金と生産性の関係は、期間によって大きく異なる:都道府県別に見ると、最低賃金上昇率と労働生産性・TFP上昇率の間には概して正の相関が観察される。しかし、その内訳をみると、企業ダイナミクスの構造は期間によって大きく異なる。2011–2015年の比較的緩やかな引上げ期には、最低賃金上昇率が高い地域ほど参入効果が大きく、退出効果が抑えられる傾向が見られた。これに対し、2015–2020年の急速な引上げ期(かつ新型コロナウイルス感染症の拡大期)には、参入効果が弱まり、退出効果が強まる傾向が確認された。この結果は、最低賃金政策の影響が線形ではなく、上昇ペースや景気局面に応じて企業ダイナミクスへの作用が変化する可能性を示している。

(3)企業の主な反応は「生産性向上」より「構成調整」:企業レベルの分析では、最低賃金上昇が労働生産性やTFPを統計的に有意かつ安定的に押し上げる証拠は限定的であった。一方で、資本労働比率の変化、臨時雇用の削減、無期雇用へのシフトなど、要素投入構成の調整が一貫して観察された。これらの結果は、最低賃金引上げが企業に対して、短中期的には技術的効率の改善よりも、雇用構成や資本装備の見直しを通じた適応を促してきたことを示唆している。

4.政策的含意

本稿の結果は、最低賃金引上げを生産性向上の自動的な手段とみなすことには慎重であるべきことを示している。最低賃金政策は、企業の雇用構成や資本装備の調整を促す一方で、短中期的にTFPを押し上げる効果は限定的である。

また、最低賃金の影響は、その水準だけでなく、引上げのペースや景気局面に強く依存する。とくに不況期や外生的ショックの下で急速な引上げが行われる場合、参入抑制や退出増加を通じて、企業ダイナミクスに望ましくない影響を及ぼす可能性がある。

したがって、最低賃金政策を実施する際には、生産性向上を目的とした補完的な政策――中小企業の設備投資支援、業務プロセス改善、人材育成・デジタル化支援など――と組み合わせて設計することが重要である。