このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
特定研究(第六期:2024〜2028年度)
「東アジア産業生産性」プロジェクト
なぜ日本では価格が上がらないのか ― マークアップから見た産業構造の問題 ―
1.問題意識
近年、企業のマークアップ(価格と限界費用の比率)の上昇と、それに伴う競争の低下やビジネス・ダイナミズムの停滞が、米国や欧州を中心に大きな政策的関心を集めている。実際、海外の研究では1980年代以降、企業のマークアップが上昇し、市場支配力の強化や産業集中の進行がイノベーションや資源再配分を阻害している可能性が指摘されてきた。
しかし、日本経済の経験は必ずしもこうした国際的な潮流と一致していない。日本では、1990年代以降の長期停滞期を通じて、物価や企業収益率は低位で推移しており、「マークアップが一貫して上昇してきた」と言える明確な証拠は乏しい。生産性停滞や新陳代謝の弱さが問題視され続けており、このことは、日本経済における競争、価格設定、イノベーション、資源再配分の関係を改めて検討する必要性を示している。
本研究は、こうした問題意識の下で、日本企業のマークアップの水準と動態を、企業レベルおよび経済全体の両面から体系的に明らかにすることを目的とする。
2.分析の特徴とアプローチ
本研究の特徴は、複数の政府統計を企業レベルで統合したデータを用い、複数のマークアップ指標を併用して分析を行っている点にある。具体的には、経済産業省『企業活動基本調査』を中心に、『経済センサス‐活動調査』などを組み合わせ、日本企業のほぼ全体像をカバーするデータセットを構築した。さらに、コスト比率や労働分配率に基づく会計的なマークアップに加え、生産関数推計(OLS、Levinsohn–Petrin、Wooldridge)に基づく労働投入ベースおよび中間投入ベースのマークアップを算出し、指標間の違いとその経済的意味を明示的に比較している。
理論的には、完全競争下ではどの可変投入を用いても同一のマークアップが得られるはずである。しかし、実際の企業データでは、労働と中間投入に基づくマークアップが大きく乖離することが知られている。本研究は、この乖離そのものを重要な情報と捉え、日本企業におけるコスト構造、価格転嫁行動、レント配分の特徴を読み解く。
3.主な結果(『企業活動基本調査』による)
第一に、日本企業の平均的なマークアップは、1990年代後半以降、長期的に横ばい、もしくは緩やかな低下傾向にあり、米国で報告されてきたような持続的な上昇は確認されない。ただし、企業間の分布は拡大しており、大企業・老舗企業と中小・若年企業の間でマークアップ格差が固定化している。
第二に、マークアップの変化を要因分解すると、その大部分は企業内部の変化(within effect)によって説明され、企業間の再配分や参入・退出の寄与は限定的である。とりわけ、高マークアップ企業の退出が平均マークアップを押し下げる「負の退出効果」が観測される一方で、高マークアップ企業への資源移動は弱く、日本経済におけるビジネス・ダイナミズムの低さが示唆される。
第三に、マークアップと企業特性の関係は、その定義によって大きく異なる。労働ベースのマークアップは、賃金上昇や研究開発投資と負に相関する一方で、中間投入ベースのマークアップは正の相関を示す場合が多い。これは、日本企業において、労働関連コストは価格に転嫁されにくく、賃金調整や内部吸収によって対応される一方、材料費や外注費などの非労働コストは比較的価格に反映されやすいことを示唆している。
4.『経済センサス』による集計分析結果と含意
経済センサスを用いた分析からは、日本経済全体のマークアップ動学を理解する上で、非製造業は極めて重要である。日本のほぼすべての非製造業をカバーするデータから集計されたマークアップは、2010年代半ばに一時的な上昇を示した後、2015年以降大きく低下しており、その下落の多くは非製造業で観察される(図)。
非製造業では、賃金上昇が労働分配の増加として吸収されやすく、価格転嫁を通じたマークアップ上昇が起こりにくい。この産業構成上の特徴が、日本経済全体のマークアップ停滞を規定していると考えられる。また、製造業においても、中間投入ベースのマークアップは参入・退出の影響を強く受けており、マークアップの動学が投入構造や企業規模分布に大きく左右されていることが示される。
5.政策的インプリケーション
本研究の結果は、日本において競争の緩和や市場支配力の変化が、必ずしもマークアップの上昇という形では観測されていないことを示唆している。むしろ、企業間の再配分メカニズムの弱さや、価格転嫁の構造、非製造業の産業特性が、集計的なマークアップ動学を規定している可能性が高い。
政策的には、マークアップ水準そのものを抑制することを主眼とした競争政策だけでなく、新規参入の促進、退出コストの低減、事業再編を通じた動学的な資源再配分の活性化が重要である。また、非製造業においては、賃金や人的投資が付加価値の拡大と整合的に進むよう、サービスの高付加価値化、デジタル化、業務プロセス改革を支援する政策が求められる。
本研究は、競争政策、産業政策、労働政策を個別に議論するのではなく、企業の価格設定行動と動態的資源配分を統合的に捉える視点の重要性を示すものである。