| 執筆者 | 猪瀬 淳也(東洋大学) |
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| 研究プロジェクト | 経済の非対称性と日本経済の課題 |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
産業経済プログラム(第六期:2024〜2028年度)
「経済の非対称性と日本経済の課題」プロジェクト
2022年以降、日本では四半世紀ぶりに物価と名目賃金がそろって上昇に転じた。この変化を、政策の言葉でどう理解すればよいのか。
インフレの「レジーム転換」は、理論上は三つの異なる姿をとりうる。第一に、物価が需給に反応する鋭敏さ(フィリップス曲線の傾き)が変わったのかもしれない。第二に、経済を揺らす不確実性(ショックのばらつき)が大きくなっただけかもしれない。第三に、企業や労働者が価格・賃金を決めるときに参照する「目標水準」そのものが、別の水準に乗り換わったのかもしれない。この三つは、データ上はどれも「物価も賃金も上がった」という同じ見え方をするため、通常の統計だけでは区別できない。
本研究は、価格と賃金それぞれの「目標水準」を別々のパラメータとして持つマクロ経済モデル(ニューケインジアンDSGE)を構築し、この三つの可能性を一つの枠組みの中で競わせた。同じ枠組みを、日本の2013年(量的・質的金融緩和の開始)と2022年、そして比較対象として米国の1979年(ボルカーによるインフレ抑制)に当てはめた。
分析の結論は明快である。三つのエピソードすべてで、最もデータに合致するのは、傾きの変化ではなく、目標水準(アンカー(注1))の乗り換えであった。物価の反応の鋭敏さ(傾き)にレジーム変化を許しても、モデルの説明力は改善しない。動いたのは、経済の構造ではなく、皆が参照する名目の「相場観」そのものである。これは、政策当局者が2022年以降の変化を「賃金・物価が上がらないという社会的な規範(ノルム)からの歴史的な転換」と評してきた見方と整合的である。「構造は不変、動くのは規範」という本稿の題はこれを指す。
さらに、価格の相場観と賃金の相場観は、エピソードごとに異なる動き方をした。2013年には物価の目標水準だけが上方に動き、賃金の相場観は動かなかった。2022年には両者がほぼ一対一で同時に上方シフトした。1979年の米国では、逆に賃金の相場観が物価の約2倍の幅で下方に動いた(図)。価格と賃金を単一の共通目標として扱う従来の枠組みでは、この非対称性は捉えられない。両者を別々に識別できることが、本研究の枠組みの要点である。
なお、モデルが推定した賃金の相場観は、推定にはいっさい用いていない外部データ(日本の春闘のベースアップ、米国の主要労使協約の賃金設定)と水準で一致した。モデルの内部だけで完結せず、現実の賃金交渉の記録と符合した点が、この結論の信頼性を裏づけている。
本稿における政策的含意として、第一に、金融政策の役割の読み替えがある。今回の変化が需要の強さによるものではなく相場観の乗り換えであるならば、「利上げで需要を冷やして物価を抑える」という教科書的な経路は、本件では相対的に弱い。実際、本分析の期間中、需給ギャップにも実質消費にも有意な変化は見られなかった。物価上昇は需要超過の産物ではない。むしろ金融政策に期待される役割は、新しい名目の相場観を2%目標と整合的な水準に安定させ、定着させることにある。同じ読み方は米国のボルカー期にも当てはまる。教科書が「需要抑制による物価鎮圧」と描いてきたこの局面も、構造的には賃金・物価の相場観の下方への乗り換えとして説明できる。
第二に、より重要な含意として、名目が動いても実質賃金は改善していないという点である。2022年の日本では、物価の相場観と賃金の相場観がほぼ同じ幅で上昇した。その差である実質賃金の相場観は、定義上ほとんど動かない。本分析でも、実質賃金・需給ギャップに有意な改善は確認されなかった。名目の「好循環」が起きても、生産性の裏づけを伴わなければ実質の購買力は改善しない。持続的な生活水準の向上には、名目アンカーの上方シフトだけでは足りず、生産性の向上とその賃金への反映が不可欠である。本研究はあくまで「何が動いたか」をスコープとしており、望ましい分配のあり方そのものは、分配を明示的に扱う別の枠組みでの評価を要する。