| 執筆者 | DOAN Thi Thanh Ha(東アジア・アセアン経済研究センター)/伊藤 亜聖(東京大学)/LUO Changyuan(復旦大学)/張 紅詠(上席研究員) |
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| 研究プロジェクト | 米中対立のミクロデータ分析 |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
貿易投資プログラム(第六期:2024~2028年度)
「米中対立のミクロデータ分析」プロジェクト
1. 研究の背景と目的
近年、米中対立や台湾海峡情勢、ロシアのウクライナ侵攻などを契機に、地政学的リスク(Geopolitical Risk, GPR) が企業行動に与える影響が注目されている。米国前財務長官イエレンは「企業は地政学的リスクに備えるべきだ」と述べ、キヤノンの御手洗会長も「リスクの高い国からの生産移転や国内回帰の必要性」を指摘している。図は2005年以降の中国、日本、ASEAN諸国の地政学的リスク指数の動きを示したものであるが、中国の地政学的リスクは特に2017年以降に大きく上昇していることが分かる。
本研究は、日本の多国籍企業が地政学的リスクの高まりに対してどのように対応しているか、特にサプライチェーンの多元化、中国からASEAN諸国への生産移転(いわゆる「フレンド・ショアリング」)、国内回帰(リショアリング)の3側面から企業レベルで検証することを目的とする。
2. データと分析手法
分析には、経済産業省が実施する以下の二つの政府統計を用いた。第一に、企業活動基本調査であり、2009~2022年度の期間について、日本企業の親会社レベルの仕入高(モノ)の取引状況(うち、中国からの輸入額)、国内外子会社・関連会社の所有状況(うち、中国製造子会社・関連会社の数)、有形固定資産の取得額などに関する情報を利用した。第二に、海外事業活動基本調査であり、同期間の海外子会社の所在国・地域、設立・操業情報、売上高、設備投資額などのミクロデータを用いた。分析対象は、中国およびASEAN諸国(インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、ベトナム等)に製造子会社を有する日本の多国籍企業である。
地政学的リスクについては、Caldara and Iacoviello(2022)による GPR 指数を用い、各企業の中国との貿易依存度および売上依存度と掛け合わせることで、企業レベルの GPR エクスポージャー(地政学的リスク曝露)を構築した。分析では、企業のサプライチェーン調整行動を捉えるため、以下の指標を従属変数として設定した。
(1)輸入多元化:中国から非中国アジア(主に ASEAN)への輸入先の拡大。
(2)生産拠点多元化:中国に加えて ASEAN 地域に新たな製造拠点を設立する行動。
(3)撤退・参入・移転:中国子会社の撤退、ASEAN への新規進出、または中国から ASEAN への生産移転。
(4)国内回帰(リショアリング):生産活動や投資の国内(日本)への再配分。
3. 主な結果
地政学的リスクの上昇は、日本企業の中国依存からASEANへの分散を促進している。推計結果によれば、企業のGPR曝露が1標準偏差上昇すると、輸入多元化の確率が約0.96~1.38%上昇、生産多元化の確率が約1.55~2.26%上昇した。特に、中国からの輸入や現地生産に大きく依存する企業ほどこの傾向が顕著であった。
一方で、中国からASEANへの大規模な生産移転や本格的な国内回帰は確認されなかった。企業は既存の中国拠点を維持したまま、サプライチェーンの多元化を進めている。ただし、設備投資に着目すると、地政学的リスクが上昇した際には日本国内への投資が増加する傾向がみられるものの、生産活動そのものの完全な国内回帰には至っていない。
分析の頑健性を確認するため、中国『人民日報』の報道に基づくGPR指数、中国の経済政策不確実性指数、日中政治関係指数などを用いた追加推定を行った。いずれの場合も、地政学的リスクの上昇が輸入・生産の多元化を促す傾向が一貫して確認された。また、親会社が製造業の場合には、非製造業と比べてその反応がより大きいことも明らかとなった。
4. 結論と含意
本研究は、地政学的リスクが企業のサプライチェーン再編をどのように誘発するかを企業レベルで定量化した初の分析である。結果として、日本企業はリスク上昇に直面すると、中国依存を緩和するためにASEANを中心とする多元化戦略を採用するが、中国からの急激な撤退や国内回帰ではなく、部分的・漸進的なリスク分散を選好する傾向が確認された。
これらの結果は、日本企業が「デカップリング」ではなく、むしろ「デリスキング」を重視していることを示唆する。すなわち、サプライチェーンの多元化(いわゆる「チャイナ・プラスワン」や「チャイナ・プラス・メニー」)こそが、地政学的不確実性の時代における現実的な対応策となっている。政策面では、ASEAN 諸国との生産ネットワークの強化に加え、国内製造基盤の再構築を通じて、柔軟性と強靭性を兼ね備えたサプライチェーンの構築を支援する政策対応が求められる。
- 参考文献
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- Caldara, D. and M. Iacoviello (2022) Measuring Geopolitical Risk, American Economic Review, 112(4):1194–1225.