執筆者 | 呂 冠宇(早稲田大学)/田中 健太(武蔵大学)/有村 俊秀(ファカルティフェロー) |
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研究プロジェクト | 日本の気候変動対策の総合的研究:GX, EU国境炭素調整と米国の気候変動政策 |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
貿易投資プログラム(第六期:2024〜2028年度)
「日本の気候変動対策の総合的研究:GX, EU国境炭素調整と米国の気候変動政策」プロジェクト
温室効果ガス排出削減を目的とした排出量取引制度(Emissions trading system:以下ETSと表記する)は、多くの国や地域において、低炭素化を進める有用な政策手段として用いられている。排出量取引だけでなく、環境規制の導入は、企業の経営活動に直接的な影響を与えるために、環境規制が企業経営や事業所のパフォーマンスにどのような影響を与えるか、長年の研究が行われている。とくに温室効果ガスを対象とした排出量取引制度は、製品製造に直結するCO2排出削減を求める施策であるために、企業や製造事業所の経営に大きな影響を与える可能性が危惧されている。そのためETSが企業や事業所の生産性にどのように影響を与えたか、十分な検証が必要である一方で、低炭素化を目的とするETSが企業や事業所の生産性に与える影響については、未だに研究蓄積が少ない。
こうした背景から、本研究では、工業統計調査、並びに経済センサス-活動調査における事業所調査票情報にもとづき、東京都と埼玉県で行われてきた排出量取引制度(以下、東京・埼玉ETS)が対象となる製造事業所の全要素生産性(Total Factor productivity:以下、TFPと表記する)に与えた影響について分析を行った。本研究では2002年から2016年の製造事業所パネルデータをもとに、東京・埼玉ETSが導入される前から、ETS導入がアナウンスされた期間(東京都の場合は2007年から2009年、埼玉県の場合は2008年から2010年)、ETS導入後の期間(東京都は2010年から、埼玉県は2011年から)の各期間における東京・埼玉ETS対象事業所と、規制対象外の事業所のTFPを推計した、そのうえで、TFPの変化要因を計量分析により行い、ETSの導入や導入過程において、製造事業所のTFPがどのような影響を受けたのか、検証を行った。
図1は対象事業所と非対象事業所の平均のTFPのトレンドを示したものである。本研究では、東京・埼玉ETS対象事業所をトリートメントグループとし、東京・埼玉ETS非対象事業所をコントロールグループとし、分析を行っている。この図1から、東京・埼玉ETSが開始された2010年、2011年まではトリートメントグループとコントロールグループのTFPの変化やトレンドは同様の動きが見受けられる。しかし、ETS導入後、トリートメントグループの平均TFPは、コントロールグループの平均TFPよりも、増加傾向が見受けられる。こうした結果は、東京・埼玉ETS導入によって、トリートメントグループであるETS対象事業所のTFPが向上した可能性を示唆している。
より頑健に、東京・埼玉ETSの導入がTFPを向上させたか検証を行うために、本研究ではStargardt DiD(Difference in Differences:差分の差分法)を用いた事業所TFPの変化要因分析、並びに変化要因分析の頑健性を確認するためのロバストネス・チェック(DiDの仮定が成り立つための統計学的な前提の確認や、推計に影響を与えた可能性がある要素を考慮した追加分析など)を行った。TFP変化要因分析の主要な結果は以下の通りである。
第1に、制度導入がアナウンスされたアナウンスメント期間(東京都は2007年から2009年、埼玉県は2008年から2010年)においては、ETS対象事業所のTFPの変化は、非対称事業所のTFPの変化とは、統計学的に有意な差は見られなかった。しかしながら、制度が導入された以降は対象事業所のTFPが有意に非対称事業所よりも向上している結果が示された。とくに第1削減計画期間(東京都:2010年から2015年、埼玉県:2011年から2015年)において、ETS対象事業所のTFPが向上している結果が得られた。第2に、ETS対象事業所のTFPが向上したメカニズムを明らかにするための追加分析を行った結果、ETS開始後にETS対象事業所の機械・装置などへの投資が、非対象事業所よりも減少している結果が示された。この結果は、対象事業所において、単純に省エネや低炭素化に対する有形の投資が行われたことによって、CO2排出削減と生産性の向上が両立されたわけでなく、無形資産への投資(省エネルギー、低炭素化のためのシステム改善への投資)や、設備投資以外でのエネルギー効率の改善、低炭素化の努力が行われた可能性が指摘できる。
一般的に、環境規制の実施は、企業経営に負担をかけ、企業の国際競争力の減少が懸念される。しかし、これまでのEUなどでのETSと生産性の検証の結果と同様に、日本においてもETSの対象事業所の生産性を向上させる可能性が示された。日本国内で先行して実施されてきた東京・埼玉ETSの分析結果は、低炭素化のための全国的なETSの本格整備が進むなかで、重要な政策インプリケーションを示す結果であると考えられる。
