ノンテクニカルサマリー

標準必須特許のライセンス契約に対する政府介入の厚生効果:中国のスマートフォン用半導体市場の分析

執筆者 渡邉 真理子(学習院大学)/久保 研介(慶應義塾大学)
研究プロジェクト グローバル・インテリジェンス・プロジェクト(国際秩序の変容と日本の中長期的競争力に関する研究)
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

特定研究(第五期:2020〜2023年度)
「グローバル・インテリジェンス・プロジェクト(国際秩序の変容と日本の中長期的競争力に関する研究)」

社会主義市場経済という特異な体制を取る中国の政策当局は、どのように企業や産業を規制しているのか。市場経済の原則を無視し自国優先の政策を取っているのではないか、という懸念が海外メディア等から提起されることも多い。特に競争政策の運用においては、国有企業を優先する一方、民営企業や海外企業を不利に扱い、結果的に規制が競争歪曲的になっているではないか、との疑念が生じることがある。

2010年代の通信技術をリードしていた米クアルコム社に対して、中国政府は独占禁止法違反を認定し、他国政府よりも踏み込んだ処罰を行った。本研究は、この介入がスマートフォン市場および半導体市場における競争にどのような影響を与えたのかを分析する。クアルコム社の市場支配力は、無線通信技術の標準必須特許を多数保有するのみならず、自らも無線通信用半導体を設計生産しており、特許ライセンサーとしての立場と半導体サプライヤーとしての立場を併せ持っていることに起因する。そして、それらの立場を巧みに用いることで,同社は高額な特許料を長年にわたって徴収することに成功してきた。

2015年2月、中国政府で競争政策を主管する国家発展改革委員会(当時)は同年の行政処罰1号において、米クアルコム社が独占禁止法に違反する競争阻害行為を行ったと認定し、中国の競争政策史上最大(当時)の罰金を課した。

国家発展改革委員会は、クアルコム社が無線通信技術の標準必須特許のライセンシング市場における支配的な地位を濫用し、

  1. 不公平に高い特許料を徴収し、無線通信端末メーカーのコストを引き上げ、最終的には消費者が購買する端末価格の上昇をもたらすことで消費者の利益を損なった。(行政処罰書 二(一))
  2. 正当な理由がないにもかかわらず、無線通信技術の標準必須特許と非無線通信技術の標準必須特許を抱き合わせることで、クアルコム社のもつ非無線通信技術と競争関係にある代替的な技術が市場に参加し競争する機会を失わせ、結果的に技術革新を阻害、抑制し、消費者の利益を損なった。(行政処罰書 二(二))
  3. 正当な理由がないにもかかわらず、無線通信用半導体の販売に際し、購入者に対して不合理な条件を含む特許ライセンス契約を締結することを求め、かつ、当該特許ライセンス契約の内容に関して争わないことを義務付けた。(行政処罰書 二(三))

と認定した。また、これを踏まえクアルコムに対し60.9億元の罰金を科すと同時に、特許料の算定ベース(ロイヤリティベース)として端末の卸売価格を用いながら高いロイヤリティ料率を設定することを禁じた。これを受け、クアルコム社は標準必須特許の特許料の算定に用いるロイヤリティベースを端末卸売価格の65%に引き下げるなどの対応を余儀なくなされた。

本研究では、この国家発展改革委員会による無線通信技術に係る標準必須特許のライセンシング市場への介入が、政府の想定通りの結果をもたらしたのかを検証するために、構造推定に基づく反実仮想分析を行った。具体的には、消費者のスマートフォン(以下「スマホ」という)に関する需要関数を推定すると共に、スマホメーカーの限界費用及びスマホ用半導体メーカーのプライスコストマージンを推定した。また、推定されたモデルを使って「仮に中国政府による2015年の介入が行われなければどうであったか」という反実仮想シナリオの下でシミュレーションを行った(対象は4G製品のみ、2018年における18都市)。

反実仮想シミュレーションの結果と現実値を比較することで、2015年の政府介入(クアルコムが課す特許料率の強制的引き下げ)の効果が次のとおりであることが明らかになった。①クアルコム社は特許料収入の減少を補うために、自らが販売するスマホ用半導体の価格(=スマホメーカーの限界費用と連動)を引き上げた(論文Figure 7(a))。②他のチップメーカーもこれに追随したことで、各社の半導体事業の利潤は増加した(表1)。③スマホ端末の限界費用は上昇したものの、特許料の負担が減ったことで主要スマホメーカーはスマホ端末価格を引き下げることができた。その結果、各社のスマホ販売台数は増え、利潤は増加した(表2)。④消費者余剰は端末一台あたり約17元増加した(本文Table 6)。⑤クアルコム社の特許料収入は減少し、その減少額は半導体事業の利潤増を上回っている(表1)。

表1 半導体メーカーへの影響
表1 半導体メーカーへの影響
表2 スマホメーカーへの影響
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中国政府による介入は、その意図通りにスマホ価格を下落させることで消費者の利益を高め、スマホメーカーの特許料支払い負担を減少させることで、その利益を増加させた。一方、介入はクアルコム社のチップ価格上昇という想定外の効果をもたらし、スマホ端末の限界費用は軒並み上昇した。仮に、この介入に自国産業を優遇する意図があったしても、結果として、処罰の対象となったクアルコム社を除くステークホルダーには概ね利益がもたらされており、その意味においては競争歪曲的ではなかったと言えよう。

クアルコム社による標準必須特許のライセンス方法が中国以外でも政府介入の対象となっており、特許保有者による同様のライセンス方法はスマホ以外の分野でも問題視されてきた。それらの事案において政府介入の必要性を判断する上では、本研究で行ったように、政府介入がもたらすインセンティブ構造の変化やそれによる企業行動の変容を定量的に把握することが有益だろう。