ノンテクニカルサマリー

ゆとり志向教育が労働市場でのパフォーマンスに与える長期的な影響

執筆者 白 羽(東京大学)/田中 隆一(ファカルティフェロー)
研究プロジェクト 教育政策のミクロ計量分析
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

政策評価プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「教育政策のミクロ計量分析」プロジェクト

人的資本仮説によれば、教育政策は児童生徒の学業成績を決定する要因であり、成人後の所得にも密接に関係している。教育課程の基準(学習指導要領)の改訂は、人的資本の蓄積や国家の将来にとって特に不可欠と考えられる数多くの教育政策の一つである。クリティカルシンキングや知識の伝達を強化した体系的なカリキュラムは、学生の学習習慣や健全な特性を育み、社会に有能な人材を提供することができる。これとは対照的に、カリキュラムの内容が合理的に確立されていない場合、例えば、効果的な授業時間や質が大幅に削減されたり、不必要な政治的イデオロギーが挿入されたりした場合、児童生徒が強固な学習基盤を持ち、確かな能力を培うことは困難である。本稿では、1980年代に日本の義務教育で実施された「ゆとり教育」が、その教育を受けた人々のその後の労働市場におけるパフォーマンスにどのような影響を与えたのかを統計的に明らかにする。

戦後日本の初等中等教育は、戦後の高度経済成長を後押しするためにその内容を増加させてきた。親たちは子どもたちが学業で成功することを期待する一方で、ストレスが多すぎると心身の健康を害することを懸念していた。教育の専門家たちも、受験中心の教育はストレスが多すぎるという意見で一致し、文部科学省に現状を変えるよう促した。その対応として1976年12月、文部科学省は「教育内容の軽減を図り、ゆとりのある充実した学校生活を送ることができるようにすること」という答申案を発表し、1980年以降、80年代改訂または80年代カリキュラムと呼ばれる新教育課程を速やかに一斉実施した。その目的は、学力よりも自ら考える能力を伸ばすことを重視したことと、授業内容と授業時間の削減である。特に、理科、社会、国語、数学などの主要科目では、中学校の授業時間は約13%、小学校の授業時間は約7%減少し、授業内容も大幅に削減された。

以上の背景を踏まえ、本稿はこのゆとり志向の教育改革が年収やフルタイム雇用確率に与えた影響を分析した。「就業構造基本調査」の2002年から2017年までの個票データを利用し、同じ年に生まれたが小学校に入学するタイミングが異なる児童生徒を比較することで、ゆとり志向の教育カリキュラムの影響を1年長く受けることの効果を推定した。ある年の4月1日以前に6歳になった子どもは、その年の4月1日に小学校に入学しなければならず、4月2日以降に生まれた子どもは翌年の4月にしか入学できないというルールを利用し、1月から3月までに生まれた人を対照群、4月以降12月末までに生まれた人を処置群とすることで、ゆとり志向のカリキュラムから1年長く影響を受ける効果を推定することができる。

分析の結果、80年代のゆとり志向のカリキュラムから1年長く影響を受けた場合、所得は低下し、非就業の確率は上がり、フルタイムでの雇用の確率は低下することがわかった(表1を参照)。この負の影響を引き起こした潜在的なメカニズムとしては、新しい教育基準によって学校教育の総年数が短縮され、大学の学位を取得する可能性が低下したことがあげられる。なお、ゆとり志向の教育カリキュラムが修学年数や学位取得確率に対して与える影響は男女ともに観測されたが、労働市場でのパフォーマンスに関する負の影響は主に男性について観測され、女性への影響は少なかった。これは、分析の対象となった世代においては、男女間での労働参加率の差が残っていたという事実とも整合的である。これらの結果は、教育カリキュラムは短期的な学力形成に影響を与えるのみならず、教育の達成度に対して中期的な影響を与え、さらには労働市場でのパフォーマンスに対しても長期的な影響を与えうることを示唆しており、学習指導要領の内容変更を行う際には、その長期的な影響までも注意深く考慮した上で学習内容の変更を行うことの重要性を示唆している。

表1:ゆとり教育の効果
表1:ゆとり教育の効果
共変量としては年齢と性別を用いている。固定効果は、生年固定効果、都道府県固定効果、調査年度固定効果を用いている。
標準誤差は、生年*処置のレベルでクラスタリングしている。***1%有意。