ノンテクニカルサマリー

わが国における企業現金保有の実体的効果

執筆者 服部 正純(一橋大学)/藤谷 涼佑(一橋大学)/中島 上智(一橋大学)/安田 行宏(一橋大学)
研究プロジェクト 企業金融・企業行動ダイナミクス研究会
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

産業フロンティアプログラム(第五期:2020〜2023年度)
「企業金融・企業行動ダイナミクス研究会」プロジェクト

わが国企業はバランスシート上に多額の現金を蓄積してきた。Kim et al. (2023) は、日本企業が特に2000年代半ばに現金等の手元資金を増加させたことを報告している。Wall Street Journal (2022) によれば、株式インデックスのMSCIジャパンに含まれる企業が保有する現金の総額は時価総額の約17%に相当するが、MSCI USAの場合は5%にすぎない。このような背景から、企業の潤沢な手元資金を設備投資に振り向けて成長率と収益性を高めるべき、あるいは過剰に見える手元資金を賃金支払いや株主還元に充てるべきであるなど、企業による現金蓄積を批判する意見がある。しかし、検証が十分に行われてこなかった視点が1つある。それは、企業の現金保有が経済に実体的な効果を及ぼしたのかということである。すなわち、企業間の現金保有量の違いが、設備投資、売上高、利益の成長率などの企業行動や業績の差異につながっていたかという点については厳格な分析の余地が残されてきた。多くの研究はわが国企業の現金保有の動機に関するものであったが何らかの動機で蓄積された現金の実体的効果は十分に分析されてきたとはいえない。

本研究では2000年以降の特定のサンプル期間の直前における企業の現金保有状況の差異が中期的な企業行動や業績の差異につながり得るかを計量的に分析した。対象とする企業は有価証券報告企業である。主要な推計方法としてJordà (2005) によって提案されたlocal projectionを採用した。同手法は経済変数の動的な関係を分析する手法であり、近年コーポレートファイナンスの実証研究でも使用されている。

まず2008年のいわゆるリーマンショック直後のサンプル期間について設備投資の多寡を実体的効果として分析した。わが国にとって同経済危機は外生的なショックとみなすことができ、危機前の企業間の現金保有量の違いが企業行動に与える影響を詳細に推定することができるとの発想からである。また、企業の現金保有に実体的効果があるならば、それは経済危機の状況でより明確に観察されるであろうという推察にも基づいている。

分析結果によると、危機直前の現金保有が他の企業と比較して多い企業は危機後の期間において現金保有が少ない企業と比べてより多くの設備投資を行っていることが明確になった。その差異は無形固定資産よりも有形固定資産に関してより大きい(図表1)。また、それら企業は売り上げの増加率が高いことも判明した。危機後の期間で投資機会を活用し、売り上げも伸ばすという実体的な効果を危機直前の現金保有が生んだと言えよう。

上記の発見は英国企業を対象として、現金保有状況の差異が同危機後の企業の競争優位に差異を生むことを報告した先行研究と同様のものである (Joseph et al., 2022)。しかし、英国での研究結果と異なり、現金保有状況の実体的効果がサンプル期間の選択を問わず存在してきたことも判明した。わが国ではリーマンショック直後の期間は今回分析対象とした2000年以降において特殊な時期ではなかったということになる。わが国企業は1990年代後半に国内銀行危機を経験しており、同危機の経験を契機として現金保有指向を高め、その成否が実体的効果を生む構図が長らく存在してきた可能性を指摘できる。

前述の通りわが国企業による現金蓄積に関しては課税対象にするといった発想も提示されるほどに政策的視点からも注目されてきた。現金保有の動機がどのようなものであれ、それを抑制する施策の導入が現金蓄積の実体的効果に本当に望ましい影響を与えるか否かは深く考察されなければならない。その考察のためにはデータに基づく検証の一段の蓄積が必要であろう。

図表1:現金保有が設備投資の累積変化率に与える影響
現金保有の変数は対総資産比率を同一業種内の企業で標準化したもの。標準化はzスコアに基づく。実線は現金保有変数の係数の推計値。破線は90%の信頼区間。
図表1:現金保有が設備投資の累積変化率に与える影響
参考文献
  • Jordà, Ò. (2005). Estimation and inference of impulse responses by local projections. American Economic Review, 95(1), 161-182.
  • Joseph, A., Kneer, C., Van Horen, N., & Saleheen, J. (2022). All you need is cash: Corporate cash holdings and investment after the financial crisis. CEPR Discussion Paper, DP14199.
  • Kim, S., Murphy, P. L., & Xu, R. (2023). Drivers of Corporate Cash Holdings in Japan. IMF Selected Issues Paper, SIP/2023/029.
  • Wall Street Journal. (2022). Japan Inc. Finally Shows Shareholders the Money. July 14, 2022.