ノンテクニカルサマリー

日本におけるがん検診無料クーポン券が受診行動及び健康状態に与える影響に関する実証研究

執筆者 趙(小西) 萌(学習院大学)
研究プロジェクト 人的資本(教育・健康)への投資と生産性
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

産業・企業生産性向上プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「人的資本(教育・健康)への投資と生産性」プロジェクト

1. 背景

がんは1980年代から日本人に最も多い死因であり、がんの罹患率は年々増え続けている。がん患者は、大きな身体的・精神的悪影響を受け、生産性が大きく低下してしまう。そのため、がんの予防と治療、そして支援対策が重要な課題となり、その有効性が先行文献によって証明されたがん検診が重要な早期予防対策として対象年齢人口に推薦されている。だが、日本を含めた世界の多くの地域では、がん検診の受診率は十分な水準に達していないという現状が未だ続いている。例えば、50~75歳女性に占める乳がん検診の受診率は、アメリカでは78%(2020年)に対して、日本では41%(2019年)であった。また、貧困層など恵まれていない人々の受診率がさらに低いという格差も見られている。

そこで、経済的な理由でがん検診を受けられないという問題を解消するために、がん検診の無償化が注目されてきた。例えば、日本では2009年から乳がんと子宮頸がん、2011年からは大腸がん検診の無料クーポンを、前年度に節目年齢に到達した人へ配布するという補助制度が導入された。具体的には、40歳、45歳、50歳、55歳、60歳になった女性は、対象者として自己負担なしでマンモグラフィ検査を一回受けられる一方、20歳、25歳、30歳、35歳、40歳になった女性は無料で子宮頚部細胞診を受けられるというものだ。更に、2011年からは、40歳、45歳、50歳、55歳、60歳になった男女共に、自己負担なしで大腸がん検診が受けられるようになった。そして、2014年から全国的に行われた無料クーポン制度は終了し、各自治体の判断に委ねられた。この事業は多額の予算を投じたものであったが、その効果は十分に科学的に検証されていない。

2. 本稿の趣旨及び結果

本研究では、2004~2016年における「国民生活基礎調査」の詳細な家計調査データを利用して、無料クーポンの提供が、がん検診の受診率及び受診者の健康状態に与える影響を検証した。具体的には、がん検診の受診率に与える影響を差分の差分法を含めたいくつかの統計分析手法を用いて検証した。また、制度変化を操作変数として、がん検診受診行動への外生的変化を推定し、がん検診の受診がどのように人々の身体的・精神状態に影響するかを分析した。

分析の結果、(1)無料クーポンの支給が乳がんと子宮頸がん検診を受診する確率を約9~10%増加させたことを明らかにした。図1に示したように、対象者でない人と比較すると、乳がんと子宮頸がん検診無料クーポンの対象者の受診率が大幅に増加したことが分かる。2010年は大腸がん検診無料クーポンの支給がまだ始まっていなかったため、受診率は年齢の上昇とともに徐々に上がっていた。乳がんと子宮頸がん検診無料クーポンの効果は2013年のデータでも確認されたが、対象者と非対象者の間に見られた受診率の差が初年度より約2%減少したことが分かった(図2)。また、2013年には、大腸がん検診無料クーポンの対象者の受診確率も平均的に約4%増加した。図2では見られないが、その効果は男性(2%)より女性(5%)の方が大きい。(2)子宮頸がん検診無料クーポンの利用は低所得者が多い一方、乳がん検診無料クーポンの利用は高所得者の方が多いことが分かった。大腸がん検診無料クーポンの利用に関して、所得層による差が見られなかった。また、育児や介護を抱えていない女性や働いていない女性の方が、女性がん検診の無料クーポンの利用が多いことが分かった。加入する健康保険の種類から見ると、三つのがん検診無料クーポンのいずれも、国保の参加者より社会保険の参加者の方が大きな受診促進効果があることを判明した。(3)がん検診を受けることが受診者の自己申告した健康状態やストレス状態に良い影響を与えたことを明らかにした。がん検診では、がんの早期発見ができる一方、がんではないことも確認でき、多くの健常者にも安心感を与えられる。その結果、不安が解消されてより良い身体的・精神的な健康状態に繋がると考えられる。

3. 政策的インプリケーション

無料クーポン制度が、がん検診(特に自己負担額が比較的高い女性のがん検診)の促進に有効なアプローチであることを本研究は示唆しているが、育児と介護負担の多い人々は、まだ無料クーポンを十分に利用できていない課題が残っている。今後は、がん検診受診のためのベビーシッターや有給休暇などの非金銭的インセンティブを与える制度も進める必要がある。また、がんの早期発見・治療といったメリット以外にも、がん検診でがんでないことが確認できることによる安心感が得られ、さらに健康状態に良い影響を与える。このような効果が今後のがん検診推進事業のエビデンスとしても活用できると考えられる。

図1:年齢別がん検診受診率 2010年
図1:年齢別がん検診受診率 2010年
図2:年齢別がん検診受診率 2013年
図2:年齢別がん検診受診率 2013年
データソース:「国民生活基礎調査」、2010年と2013年