執筆者 | 呂 冠宇(早稲田大学)/田中 健太(武蔵大学)/有村 俊秀(ファカルティフェロー) |
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研究プロジェクト | グローバル・インテリジェンス・プロジェクト(国際秩序の変容と日本の中長期的競争力に関する研究) |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
特定研究(第五期:2020〜2023年度)
「グローバル・インテリジェンス・プロジェクト(国際秩序の変容と日本の中長期的競争力に関する研究)」
排出量取引制度(Emission trading scheme:以下、ETSと表記)はEU、中国など多くの国や地域にCO2削減のための施策として導入され、日本においても東京都、埼玉県でCO2排出削減を対象事業所に義務づけるETSが導入されている。ETSの実施により、CO2の排出削減義務が課された事業所がCO2の排出削減義務を順守した場合に、CO2排出量自体は確実に減少する。しかし、一般的にETSのような環境規制は対象となる事業所の経営、生産活動に大きな負担が発生する可能性が懸念されるが、これまでのEU並びに中国におけるETSに関する実証分析結果では、ETSが経済・企業パフォーマンスに与える影響が限定的であるだけでなく、一部の産業ではエネルギー効率性の改善傾向が示されている。環境規制は短期的に規制対象となる企業や事業所に経済的な負担を与える。一方で、適切な設計がなされた環境規制はエネルギー効率の改善等から、企業や事業所のパフォーマンスを向上させる可能性についても言及されている。現在、国内におけるより広範囲なETS導入が検討されるなか、今後、日本におけるETS導入の在り方を議論するうえで、国内で先行的に実施されている東京都・埼玉県ETSが対象事業所の経営パフォーマンスに与える影響を明らかにすることは重要な政策インプリケーションが期待される。そこで本研究では、経済産業省工業統計調査、並びに経済センサス―活動調査における事業所調査票情報にもとづき、東京都・埼玉県ETSが対象事業所のパフォーマンス(エネルギー非効率性)に与える影響について分析を行った。
本研究では研究目的の達成のために、第1に各事業所のエネルギー利用を含めた生産性の指標となるエネルギー非効率性について確率的フロンティア分析(Stochastic frontier analysis: SFA)を用いて推計を行った。SFAではサンプルとなる全事業所のデータから、各生産投入の状況に対して、最も効率的に生産が行うことが可能とされる生産フロンティアを推計し、その生産フロンティアから各事業所がどの程度非効率な生産活動を行っているか生産の非効率性を推定することが可能となる。本研究では推計されたエネルギー非効率性を各事業所の経営パフォーマンス指標として用いる。第2に推計された各事業所のエネルギー非効率性がETSの実施により、どのような影響を受けたか、2002年から2016年までのパネルデータにもとづいて分析を行った。今回の分析では、東京都・埼玉県ETSが開始するという告知が行われた2007年から、ETS開始直前の2009年の間のアナウンスメント期間(ただし埼玉県については2010年まで)とし、ETSが開始した2010年から2014年までの第1期計画期間(ただし埼玉県については2011年から2014年)、2015年からの第2期計画の3つの期間において、対象事業所のエネルギー効率性が東京都、埼玉県以外を含む非対象事業所のエネルギー効率性とどの程度異なるのか分析する。
ただし、東京都・埼玉県ETSの対象事業所は、産業特性や立地制約上の要因から、東京都や埼玉県に立地しやすい事業所がサンプルに多く含まれている場合が想定できる。この場合、対象事業所の特性が非対象事業所との間のエネルギー非効率性の差異を生んでいるのか、ETSの影響によって対象事業所と非対象事業所間でエネルギー非効率性の変化が生じたのか、識別ができなくなる。そこで本研究では、傾向スコア・マッチング(Propensity score matching:以下、PSMと記述する)を行い、疑似的に対象事業所それぞれと同等の特徴を有している非対象事業所を集めた疑似的な事業所群(コントロールグループ)を作成した。PSMは観測できる対象事業所の特性から、各対象事業所と特性が近似する事業所を非対象事業所群から統計学的に選び出す手法であり、PSMを行って選び出された事業所群であるコントロールグループと対象事業所となった事業所群(トリートメントグループ)を比較することで、ETSの対象事業所のエネルギー非効率性に対する影響を頑健に分析することが可能となる。
図1はマッチング後の対象事業所群と非対象事業所群それぞれのエネルギー非効率性の平均値の推移を示したものである。図1では、アナウンスメント期間以外の期間において、対象事業所と非対象事業所間でのエネルギー非効率性の大きな差異が見られない一方で、アナウンスメント期間においてはETS対象事業所のエネルギー非効率性が非対象事業所よりも大きくなっている傾向がみられる。
エネルギー非効率性が対象事業所で増加する様々な要因をコントロ-ルしたうえで、ETSのアナウンスメント期間、並びに第1期計画期間、第2期計画期間において、ETSが対象事業所のエネルギー非効率性に与えた影響の分析を行った結果が表1である。ETS × Pan、ETS × P1 、ETS × P2がそれぞれ、アナウンスメント期間、第1期計画期間、第2期計画期間における対象事業所と非対象事業所間のエネルギー非効率性の差異を示している。この分析結果では、ETSが実施された期間(第1期、第2期計画期間)においては、ETS対象事業所と非対象事業所間でエネルギー非効率性の有意な差異は見られなかった。一方で、アナウンスメント期間においては、統計学的に有意に対象事業所のエネルギー非効率性が高い結果が示された。また本分析では対象事業所が委託生産を通じて炭素リーケージを行う可能性についても検証を行い、ETS対象事業所の委託生産費はETSのアナウンスメント期間、並びに第1期計画期間、第2期計画期間において、変化していない結果が示された。
本分析の結果、東京・埼玉ETS導入による将来的なCO2削減費用の不確実性が高いと認識した対象事業所が、早期にCO2排出量を減少させようとした結果、生産の非効率性が発生した可能性が示唆できる。しかし、ETSの開始後では、非対象事業所とのエネルギー非効率性の差異は確認できず、ETSの導入が対象事業所のエネルギー非効率性に与える影響は限定的である結果が示された。委託生産を通じた炭素リーケージの可能性が低いという結果も考慮した場合に、東京都・埼玉県ETSは事業所パフォーマンスを減少させずにCO2削減を実現できた政策として、一定の評価ができると考えられる。