ノンテクニカルサマリー

イノベーションにおける知識波及の役割:スペイン風邪を例とした研究

執筆者 井上 寛康(兵庫県立大学)/中島 賢太郎(ファカルティフェロー)/岡崎 哲二(ファカルティフェロー)/齊藤 有希子(上席研究員(特任))
研究プロジェクト 地理空間、企業間ネットワークと経済社会の構造変化
ダウンロード/関連リンク

このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

地域経済プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「地理空間、企業間ネットワークと経済社会の構造変化」プロジェクト

イノベーションは経済成長の源泉である。このイノベーションにおいて、同僚や指導者、共同研究者との知識交換が不可欠なものであることは、これまで様々な研究において示されてきた(例えばAzoulay et al., 2010; Waldinger, 2010, 2012; Moser et al., 2014)。このような共同研究の機会が失われた際、イノベーション活動はどれほどの打撃を受けるのだろうか。またどういった分野においてその効果は大きいのだろうか。

そのような問いに答えるため、本研究は1918年から1921年にかけて生じた日本におけるスペイン風邪のパンデミックを対象として、これが日本の知的生産活動に与えた影響について分析したものである。スペイン風邪は、当時人口が5500万人であった日本において39万人の死者を出した深刻なパンデミックであった。また、30-40代の働き盛りの年代の死亡率が高かった点に特徴があり、死者のうち24万人が就業者であったと推定される。例えば三菱財閥傘下の企業では、1918年から1921年にかけて、合わせて38人の技師、もしくは技師補が死亡によって退社しており、うち2名は特許登録を行ったことのある発明者であった。このようにしてスペイン風邪のパンデミックは職場における人的交流を減少させ、知識交換の機会を失わせることで、イノベーション活動に打撃を与えたことが考えられる。また、その効果は人的交流がより重要な技術において顕著であることが予想される。

本研究では、井上・岡崎・齊藤・中島(2020)による日本の歴史特許データベースを用い、スペイン風邪のパンデミックが、人的交流が重要な技術分類におけるイノベーション活動に与えた影響について実証的に検証したものである。具体的にはパンデミック以前の期間において共同研究による特許登録率の高い分類を人的交流が重要な技術分類と定義し、差の差分析による分析を行った。

主要な結果は図1に示される。これは、イベントスタディプロットによって年レベルの処置効果を図示したものを示したものである。赤く塗られた区間がスペイン風邪の期間(1918-1921年)である。パンデミック以前において、人的交流が重要な技術分類とそうでない分類において、特許登録数に違いがほとんどないのに対し、パンデミックが始まった1919年以降、人的交流が重要な技術分類における特許登録数は減少している。また、その減少は、パンデミック終了後すぐに回復したわけではない事がわかる。

図1 国内発明者による特許出願数に関するイベントスタディプロット
図1 国内発明者による特許出願数に関するイベントスタディプロット

さらに、特許登録数の減少は、パンデミック以前に特許登録を行ったことのある既存発明者が特許登録数を減少させたことによるものではなく、パンデミック以前に特許を登録したことがなかった新規発明者による特許登録数の減少によって引き起こされたことがわかった。つまり、スペイン風邪のパンデミックは、人的交流が重要な技術分類において、新たにその分野に参入する発明者による特許登録の減少を通じて、特許登録数に負の影響を与えたのである。

本稿の結果からは知的生産活動における人的交流の重要性、また特にそれが新規参入者に与える影響の重要性が示される。現在のコロナ禍におけるソーシャルディスタンシング政策によって、対面によるアイデア交換や知識波及の機会は減少している。もちろん、現在は対面コミュニケーションの多くはオンラインで補完されており、また、スペイン風邪が、30-40代の働き盛りの年代に死者を多く出したのに対し、コロナ禍における死者はスペイン風邪に比べて圧倒的に少なく、またその多くは高齢者である点も異なる。一方で、Wuchty et al. (2007)に示された通り、現在の発明の多くは共同研究によるものであり、同僚や共同研究者とのコミュニケーションの重要性は大きいと考えられる。コロナ禍において知的生産活動の停滞をもたらさないためには、オンライン・オフラインを問わず、知的交流の機会を保つこと、特に新規参入者との知的交流の機会を保つことが重要であろう。

参考文献
  • 井上寛康, 岡崎哲二, 齊藤有希子, 中島賢太郎, "戦前期日本のイノベーション活動:特許情報の電子化によるアプローチ," RIETI Policy Discussion Paper Series, 2020年4月, 20-P-012.
  • Azoulay, Pierre, Joshua S. Graff Zivin, and Jialan Wang, "Superstar Extinction," The Quarterly Journal of Economics, 2010, 125 (2), 549–589.
  • Moser, Petra, Alessandra Voena, and Fabian Waldinger, "German Jewish Emigres and US Invention," The American Economic Review, 2014, 104 (10), 3222–3255.
  • Waldinger, Fabian, "Peer Effects in Science: Evidence from the Dismissal of Scientists in Nazi Germany," The Review of Economic Studies, April 2012, 79 (2), 838–861.
  • Waldinger, Fabian, "Quality Matters: The Expulsion of Professors and the Consequences for PhD Student Outcomes in Nazi Germany," Journal of Political Economy, August 2010, 118 (4), 787–831.
  • Wuchty, S., B. F. Jones, and B. Uzzi, "The Increasing Dominance of Teams in Production of Knowledge," Science, May 2007, 316 (5827), 1036–1039.