ノンテクニカルサマリー

従業員のポジティブメンタルヘルスと生産性との関係

執筆者 黒田 祥子 (ファカルティフェロー)/山本 勲 (慶應義塾大学)/島津 明人 (慶應義塾大学)/ウィルマー B. シャウフエリ (ユトレヒト大学 / ルーヴァン・カトリック大学)
研究プロジェクト 働き方改革と健康経営に関する研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

人的資本プログラム(第五期:2020〜2023年度)
「働き方改革と健康経営に関する研究」プロジェクト

2000年代以降、産業保健心理学分野を中心に発展してきた「ワークエンゲイジメント」という概念の重要性は、昨今の日本においても急速に認知度が広がっている 。ワークエンゲイジメントとは「仕事に誇りややりがいを感じている」(熱意)、「仕事に熱心に取り組んでいる」(没頭)、「仕事から活力を得ていきいきとしている」(活力)の3 つがそろった状態であり、バーンアウト(燃え尽き)の対概念として位置づけられている。バーンアウトした従業員は疲弊し仕事への熱意が低下しているのに対して、ワークエンゲイジメントの高い従業員は心身の健康が良好で、いきいきと働いている状態を意味する。日本においてワークエンゲイジメントが注目されている背景には、高齢化と人口減少が加速する中で、一人一人が心身の健康を維持しながら高い生産性を発揮することへの期待があるといえる 。しかし、ポジティブなメンタルヘルス、すなわちワークエンゲイジメントが高くなれば生産性は実際に高まるのだろうか。労働者のワークエンゲイジメントが、職場あるいは企業レベルの生産性に及ぼす影響を分析したものはあまり多くなく、特に財務データなどの客観指標を用いて生産性への影響を分析した研究は極めて少ない。

そこで本稿は、産業保健心理学と労働経済学の知見を学際的に融合させ、大手小売業1社のワークエンゲイジメント(ユトレヒト尺度)の設問が組み込まれた従業員調査と人事データ、そして売り場ごとの売上高データを紐づけ、従業員のワークエンゲイジメントと売り場の売上高との関係を検証した。

図1はこの企業の従業員のワークエンゲイジメントの分布を示したものである。分析で使用した従業員調査は、97.3%と非常に高い回答率であり、同一企業内で従業員のワークエンゲイジメントがどのように分布しているかを観察することができる。同図をみると、同一企業に勤め、売り場の販売職という同一の業務を担う従業員間でも、ワークエンゲイジメントの水準が最低スコアの0から最高スコアの6まで広く分布していることがわかる。つまり、同一企業内でもいきいきと働いている従業員と、そうではない従業員が混在していることがみてとれる。

図1 従業員のワークエンゲイジメントの分布
図1 従業員のワークエンゲイジメントの分布
(備考)180の売り場で勤務する3,894名を対象とした分布。

続いて図2には、これらの従業員を180の売り場に分類し、売り場ごとのワークエンゲイジメントの平均値とばらつき(変動係数=標準偏差/平均)を示した。同図をみると、ワークエンゲイジメントの平均が同じくらいの水準の売り場であっても、ワークエンゲイジメントのばらつきが大きい売り場と小さい売り場があることが確認できる。これは、ワークエンゲイジメントの平均値が同じであっても、売り場内の従業員が似たようなワークエンゲイジメント水準で働いている売り場もあれば、売り場内の従業員のワークエンゲイジメントが高い人から低い人までばらばらの売り場も存在することを意味している。

図2 売り場のワークエンゲイジメント平均と変動係数
図2 売り場のワークエンゲイジメント平均と変動係数
(備考)180の売り場ごとの平均値と変動係数をプロットしたもの。

売り場ごとのこれらの違いが生産性にどのような影響をもたらしているのかを分位回帰(quantile regression)モデルを用いて推計した結果(抜粋)が表1である。表1は、被説明変数に売り場ごとの予測対比売上高(対数値)の前期差をとり、説明変数には売り場ごとの従業員のワークエンゲイジメントの平均値や従業員間のエンゲイジメントのばらつきを示す変数を採用した。なお、被説明変数に単なる売上高ではなく予測対比の値を用いたのは、外生的なショックによる需要変動を考慮するためであり、推計では従業員のワークエンゲイジメントがこうした不可避な要因を織り込んだ予測値を上回る売上につながるかどうかに着目することで生産性への影響をみることを意図している。

表1 売り場のワークエンゲイジメントと売上高の関係
表1 売り場のワークエンゲイジメントと売上高の関係
(備考)
1. 括弧内はロバスト標準誤差。
2. ***、**、*印は1%、5%、10%水準で統計的に有意なことを示す。
3. 論文の表4の抜粋。コントロール変数の掲載は省略している。

表1の(1)列目をみると、ワークエンゲイジメントの平均値はプラスで統計的に1%水準で有意となっており、従業員のワークエンゲイジメントの平均が高い売り場では、売上高が高くなる傾向が認められる。次に、(2)列目をみると、ワークエンゲイジメントの変動係数はマイナスで統計的に有意となっており、職場のワークエンゲイジメントのばらつきが大きいほど、売上高は低くなることがわかる。また、ワークエンゲイジメントの平均と標準偏差を同時に入れた (3)列でも、ワークエンゲイジメントの平均はプラスで統計的に有意な係数となっている一方、標準偏差はマイナスで有意になっている。これらの結果を総合すると、職場のワークエンゲイジメントの平均値が高いと生産性は高くなるものの、平均値が高くても職場内のばらつきが大きい場合には生産性は低下してしまうことがわかる。この結果は、従業員全体が似たようなワークエンゲイジメントで働いている職場と、従業員の一部が高いワークエンゲイジメントで働きながらその一方で同じ職場にワークエンゲイジメントが低い従業員がいる場合、平均では同程度であっても生産性は前者に比べて後者のほうが低くなることを示唆している。なお、本稿の分析ではワークエンゲイジメントのばらつきが大きい売り場ほど、売り場のメンバー間のチームワークや結束力が弱いという結果も確認された。

本稿の結果は、職場のワークエンゲイジメントの平均を高く保つことは高い生産性を実現するために必要ではあるが十分条件ではなく、職場の一部の従業員が非常に熱意をもっていたとしても残りの従業員のエンゲイジメントが低ければ生産性は低下しうることを意味している。職場のパフォーマンスを上げるためには平均値だけではなく、ばらつきにも注意を向け、職場の従業員全員のエンゲイジメントを底上げする必要があること、そうすることによりチームの結束力や団結力が培われ、結果として高い生産性につながることを示唆している。