ノンテクニカルサマリー

原子力発電所事故と日本人の価値観

執筆者 広田 茂 (京都産業大学)/要藤 正任 (国土交通省)/矢野 誠 (理事長)
研究プロジェクト 市場の質の法と経済学に関するエビデンスベースポリシー研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

法と経済プログラム(第四期:2016〜2019年度)
「市場の質の法と経済学に関するエビデンスベースポリシー研究」プロジェクト

1. 背景

2011年3月に発生した東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所(以下「福島原発」)の炉心溶融・放射性物質放出事故は、正しくわが国にとって未曽有の災害であった。その被害は、単に多くの国民の生命や財産が危険にさらされたことにとどまらない。「絶対に安全」とされた原発が津波による電源喪失から制御不能に陥ったことが、人々や社会のさまざまな精神的・心理的側面にも大きな影響を与えたことが指摘されている。福島原発事故による幸福度や、科学技術に対する信頼の度合いの変化などが、さまざまな調査結果によっても示された。

東日本大震災の経験を今後のわが国の社会が真に活かしていくためには、このような精神的・心理的側面に対する影響のうち、特に構造的な影響、つまり人々の判断や行動を根底において左右する価値観に対する影響をしっかりと確認していく必要がある。

価値観は、幸福度や生活満足度といった主観的厚生、健康、家族関係、経済状況、周囲の人々との関係、国・行政や報道機関等への信頼といったさまざまな価値が、相互にどのように関係しているかを表すものとして捉えることができる。例えば、家族の絆を重視する度合いと幸福度が強く相関している人とそうではない人、或いは経済状況を重視する度合いと幸福度が強く相関している人とそうではない人とでは、価値観は大きく異なると言えるだろう。しかし、そうした福島原発事故が日本人の価値観にどのような影響を与えたかについて、定量的な検証が十分に行われてきたとは言えない。

福島原発事故以前の原子力事故の影響については、例えばチェルノブイリ原発事故後の長期的な影響を分析したAlmond et al. (2009)やDanzer and Danzer (2016)がある。また、東日本大震災についても、Rehdanz et al. (2015)、Ohtake, Yamada, and Yamane (2016)、Ishino et al. (2014)、Sugano (2016)などをはじめとして多くの研究がある。しかし、震災や原発事故の主観的厚生やさまざまなアウトカムに対する影響を計測した研究が大半であり、上で述べた意味での価値観に対する影響を分析したものは見当たらない。

そこで、本研究では価値観を上記のように「個人個人におけるさまざまな価値の相対的な関係」と定義し、その価値観に原発事故がどのような影響を及ぼしたかを検証した。

2. 分析と結果

例えば幸福度をめぐる価値観について考えると、幸福度を被説明変数とするモデルにおいて、各説明変数(幸福度の規定要因)の偏微係数が上で述べた価値観を表すことになる。従って、原発事故が幸福度をめぐる価値観に与えた影響を計測するには、原発事故を代理する変数と幸福度の規定要因との交差項を加え、原発事故の影響の程度の違いが、幸福度の規定要因の偏微係数をどのように変化させたかを見れば良い。そこで本研究では、地理情報を用いた擬実験的差分の差分法(Difference-in-Differences)を採用した。原発事故の性質から、人々は福島原発の近くに住んでいるほど、物理的にも心理的にも事故の影響をより強く受けることが想定される。従って、福島原発からの距離と、幸福度や生活満足度に対する規定要因との交差項を取ることにより、事故の価値観に対する影響を分析することが出来る。

主要な結論は以下の通りである。家族関係を重視するほど一般に現在・将来の幸福度や生活満足度は高い傾向にあるが、福島原発に近いと、その度合いは高まっており、大きな災害を経験し、不安を感じているときに家族の絆がより深まっていることが示唆される。健康を重視するほど一般に将来の幸福度や自己決定可能感は高いが、福島原発に近いとその度合いは弱まる。原発事故は健康によって可能となる将来の幸福や自己決定に負の影響をもたらしている。また、福島原発に近い場合、報道機関への信頼度合いが高いと、生活満足度は低い傾向にある。報道を事実としてより深刻に受け止めると、生活満足度は低くならざるを得ない状況を表していると考えられる。地方議会への信頼度が高いと、福島原発に近いとき、将来の幸福度は高い傾向にある。国や国会よりも地方議会への信頼が、将来の幸福度展望に大きな影響を及ぼしていることが窺われる。

3. 政策的インプリケーション

このような結果をどのように受け止めるべきであろうか。本研究では原発事故の影響を、「事故が起こったこと」と「幸福度などが変化したこと」の相関として捉えるのではなく、幸福度をはじめとしたさまざまな価値の間の関係が、事故によりどう変化したと考えられるかを検証した。それは、事故がさまざまな意味で終われば、影響もなくなるということではなく、事故が価値観という「構造」を変えてしまったがために、その影響はそう簡単には消失しないという可能性を示している。実際、3.11の前と後とで日本社会が不可逆的に変わってしまったことを、多くの人々は実感しているだろう。もちろん、それは悪いことばかりではない。本研究で明らかになった報道のあり方、高齢社会における健康づくり、そして家族の絆などについての構造変化は、何れもわが国にとって今後真摯に取り組んでいかなければならない課題である。そして今われわれが直面している危機についても、同様のデータに基づく検証を行い、どのような爪痕を残していくかを明確にしていく必要があろう。

参考文献
  • Almond, Douglas, Lena Edlund, Mårten Palme, universitet Stockholms, fakulteten Samhällsvetenskapliga, and institutionen Nationalekonomiska. (2009). Chernobyl's Subclinical Legacy: Prenatal Exposure to Radioactive Fallout and School Outcomes in Sweden. The Quarterly Journal of Economics, 124(4), 1729-1772. doi:10.1162/qjec.2009.124.4.1729
  • Danzer, Alexander M., and Natalia Danzer. (2016). The long-run consequences of Chernobyl: Evidence on subjective well-being, mental health and welfare. Journal of Public Economics, 135, 47-60. doi:10.1016/j.jpubeco.2016.01.001
  • Ishino, Tatsuya, Akiko Kamesaka, Toshiya Murai, and Masao Ogaki. (2014). Effects of the Great East Japan Earthquake on Subjective Well-Being. Rochester Center for Economic Research Working Paper (588).
  • Ohtake, Fumio, Katsunori Yamada, and Shoko Yamane. (2016). Appraising Unhappiness in the Wake of the Great East Japan Earthquake. The Japanese Economic Review, 67(4), 403-417. doi:10.1111/jere.12099
  • Rehdanz, Katrin, Heinz Welsch, Daiju Narita, and Toshihiro Okubo. (2015). Well-being effects of a major natural disaster: The case of Fukushima. Journal of Economic Behavior and Organization, 116, 500-517. doi:10.1016/j.jebo.2015.05.014
  • Sugano, Saki. (2016). The Well‐Being of Elderly Survivors after Natural Disasters: Measuring the Impact of the Great East Japan Earthquake. The Japanese Economic Review, 67(2), 211-229. doi:10.1111/jere.12103